積極的方策 11





 執務室で、ロイは苛々しながら届けられた書類に目を通していた。もっとも、文字は読んでいても、頭には全く入って来ない。仕事にならない、と腹立たしく思いながらも、つい先程目に入った光景が脳裏に焼きついて離れてくれなかった。
 ちょっと戯れていただけなのだろうが、ヒューズに肩を抱き寄せられて楽しそうに笑いながら会話しているエドワードが酷く憎らしかった。吐き気がするほどの嫌悪感に胸をむかつかせながら、ロイは憤然と嘆息した。
 昨夜、さすがに汚れたままではまずいだろうと思い、これまで一度も足を踏み入れたことのない給湯室に行ったはいいが、瞬間湯沸かし器をどう操作すればお湯が出るのか、どこに布巾や雑巾の類があるのか、全く判らず、もたもたしている間にエドワードは執務室から姿を消してしまった。
 獲物を取り逃がした、というより、己れに失望して立ち去ったのか、と思った。あんな強引なことをすれば当然の帰結ではあるが、フォローする用意はあった。それなりにかけてやる言葉もあった。しかし、いくら探してもエドワードの姿はなく、夜が明けてやっと見つかったと思ったら、ヒューズと仲良く一緒に座っている、という事態は、不慮の事故にでも遭ったような気分を惹起せしめる。
 短い会話の中から、どうやらエドワードは昨夜の出来事をヒューズに告げ口してはいない――するような性格ではないが――ようだったが、やはりと言うべきか、エドワードはヒューズの側の方が心地いいらしい。
 俺よりも?
 そう思うと、酷く侮辱的な気分になる。もっとも、事前にヒューズには釘を刺されていたはずである。「スワンの恋」のような無様な真似をするな、と。もっとも、あれはあくまでも、キャットに対しての警告ではあったが。
 しかし、知ってはいても、いざそういう情況になりつつあると、だからどうだというのだ、という感情的な反発と拒否が全てに優越してしまう。事態の推移により、役者が変わり、立場も設定も変わってしまったが、「スワン」の位置づけは大して変化していない。これまでそのような理不尽と思える感情にはブレーキをかけ、上手くコントロールして来たはずであるのに、この無様な成り行きはいったいどういう天の采配か、と思う。
 取り乱すような情動に支配されることは、軍の士官としてあってはならないことであるし、何よりもロイ個人が嫌っていたことだった。戦場では、何よりも理性が優先され、動揺の素振りをちらとでも部下に見せてはいけない、と士官学校では徹底的に叩き込まれ、訓練された。これを守ることができなければ、戦場では全滅を意味する。戦略上の如何によっては、軍全体の破滅に繋がる。
 「くそ……っ」
 これでは仕事にならない。私事に気を取られるという情けなさを苛立たしく思いながら目を通していた書類を机の上に放り出すと、滅多に口にしない煙草を抽斗から出し、ライターで火をつけた。
 が、半分も吸わないうちに、電話が鳴った。
 「マスタングだ」
 『ヒューズ中佐からです』
 取次ぎの女性の声がした後、すぐに聞き慣れた悪友の声が飛び込んできた。
 『また殺しだ。出て来れるか』
 「今、どこにいる」
 『例の将軍様が入院している病院のロビーだ。ナースステーションの電話を借りてる』
 こっちは大騒ぎだ、というような余計な情報をヒューズは口にしなかった。簡単明瞭な言葉から、何が起こったのか推測する。
 「アイロス将軍が始末されてしまったのか」
 自分でも驚くほど冷静に、ロイはヒューズの台詞を聞いていた。こうなることを前もって判っていたような、最後の一人がいなくなって終結に近付いたと実感するような、安堵感を伴う妙な気分だった。
 『そうだ。だが、殺されたのは将軍様だけじゃない。付き添いの看護婦もだ』
 「巻き添えか」
 気の毒なことをした、とロイは言おうとした。が、口にする前にヒューズがため息をつくように否定した。
 『違う。付き添いと見せかけて、その実、こいつがアトロポスだったんだ。運命の糸を断ち切る女神様だな』
 「どういう意味だ」
 『詳しい話は後で話す。取り敢えず、現場に来てくれ』
 電話で話すほど簡単なことではない、という意図を感じ取り、ロイは素直に承知した。恐らく、隠し玉が爆発したような事態になっているのだろう。
 「一〇分後には到着する。ロビーで会おう」
 待っている、と言ってヒューズは電話を切った。すぐさまロイはコートを取って執務室を出ると、ブレダにクルマを出すよう命令した。
 「また不測の事態ですか」
 「そのようだ」
 もう慣れた、とは言わないが、急展開やイレギュラーは毎度のことだった。そのせいか、ロイは依然冷静なままクルマに乗り、指定の病院へと向かった。数時間前に出て来たばかりの玄関を潜ると、まるでテロにでも遭ったように医者や看護師がばたばた走り回っているのが見えたが、大して慌てているように見えないのは、すでに当事者が手の施しようのない状態になっており、その後の対処や始末へと段階が進んでいるからだろう。
 二人は窓口を通さずに直接階段を昇って五階へと向かうと、騒然となっている個室へ足を向けた。まだ憲兵は到着していないようで、立入禁止のテープも張られていなかったが、すぐにここは「MP」の腕章をつけた軍人で溢れ返ることとなるだろう。
 「ヒューズ」
 「おう、悪いな」
 「何があった。アイロス将軍は?」
 「さっき、医者が蘇生手術をやるってんでストレッチャーに乗せて緊急救命室に運んで行ったが、多分ダメだろ。出血が酷過ぎるし、心臓も呼吸も止まってた。まぁ座れ。何があったか、説明する」
 と、ヒューズが病室の外にあるベンチに腰かけるようロイに促す。開けっ放しになったドアの向こうで、雑用係らしい男が倒れたり転がされたりした生命維持装置を見下ろして憤然としていた。リノリウムの床には鮮血らしい赤い痕跡が点々と記されており、その先には白衣を着た青年が横たわっていた。
 「俺がここへ来たのは、連中の仕事が決行される直前だったらしい。ちょっと将軍様の様子を見に上がったんだが、その時は何の異常もなかった。が、俺達が立ち去るのを待って決行したんだろうな。中で待機していた看護婦が生命維持装置を停止させて将軍の呼吸を止めようとした。ところが、このアイロスって奴は結構しぶとかったんだな。意識が朦朧としながらも、何が起こっているのか把握できたらしい。気道確保でチューブが入ってるってのに、唸り声を上げたんだ。で、ドアの前に立っていた見張りの兵士が気付いて病室に飛び込んだ。が、入ったとたん、撃たれちまったわけだ」
 「看護婦にか」
 「いいや。廊下で見張りに立っていた仲間がいたらしい。背後から兵士は撃たれて倒れた」
 「看護婦は仲間と一緒に逃げた、というのではなさそうだな。そこに死体があるということは。誰に殺されたんだ」
 「ハボック少尉だ」
 「ハボックが?」
 「頭の傷の抜糸に来てたんだってな。外科の外来は別棟だそうだが、俺と同じで、来院のついでに様子を見ておこうと思ったらしい。俺達とはちょうど入れ違いになったらしくて、顔は合わせなかったんだが、タイミングのいいことに、看護婦とその仲間が病室から出て来るのを目撃したそうだ。で、銃で威嚇した。抵抗しようとしたんで発砲した。看護婦は仕留めたが、もう一人の仲間の方は非常口から逃げて行った。で、少尉は後を追ってったってわけだ。まだ戻って来ていないが、そのうち連絡があるだろ」
 「そうか」
 と、ロイは納得した後で、ふと疑問に思った。
 「どうして、看護婦と一緒にいた者が仲間だと判ったんだ、ハボックは」
 「汚れ仕事をやる連中ってのは独特の雰囲気ってのを持ってる。口では上手く説明できねぇが、一〇〇m先を歩いていてもそれだと判るくらい強烈なのをな。で、ひと目見てそれと判ったそうだ。大した眼力だな」
 褒めているのか皮肉っているのかよく判らない口調でヒューズはひやかしのように口笛を吹いた。その手の雰囲気が判る、というのは、同業者だから、という事実を裏付ける。言うまでもなく、ハボックは特殊部隊の訓練を受けたことがあり、それなりの成績を収めたスペシャリストだった。
 「腹にイチモツあるような言い方だな。何が言いたい」
 「別に。ハボック少尉はよくやってくれたって褒めてるだけだ。見事なもんじゃないか。ちゃんと片割れを仕留めた」
 「貴様が言うと、ただの茶化しにしか聞こえないな。殺されてしまっては尋問ができない。軍法会議に引き摺り出すこともできない。それは困る、とはっきり言ったらどうだ」
 「そう斜に構えるなよ。俺だって見事だと思ってんだ。これでもな……」
 さすがに、コール少佐の意向に沿って尋問不可の状態にしてくれた、とは言わなかったが、そう思わなかったわけではないのだろう、肩を竦めて見せるヒューズにロイは嘆息した。
 「判った。そういうことにしておこう」
 「素直じゃねぇなぁ……」
 「ところで、鋼のはどうした。一緒だったんじゃないのか」
 「さっきまではな。行くところがあるからって、別行動を取ったんだ。夜までには戻ってくるだろ」
 やはり、放し飼いの猫でも飼っているような大雑把な台詞を、ヒューズは言ってのけた。ここまで奔放にしておいて平気なのだろうか、とロイは疑問に思ったが、ぎりぎりと縛り付けて自由を奪うばかりが愛情表現ではない、と己れに言い聞かせ、それ以上エドワードのことについては触れなかった。
 そうこうするうちに憲兵隊と地元の警察が到着し、本格的に現場検証が始まった。現場荒らしでしかないロイとヒューズはその場を去り、東方司令部で憲兵隊本部からの報告が届くのを待つことにした。
 が、しかし、数時間後に届いた第一報は、手当ての甲斐なくアイロス少将が亡くなったという知らせだった。
 第二報も芳しくはなかった。
 「すみません、取り逃がしました」
 というハボックの悔しげな声が電話口から聞こえ、ロイもヒューズも肩を落とした。
 「また先を越されちまったか……。さすがにプロだ、やるべきことはきっちりやってくれるぜ」
 「しかし、これで連中の仕事は終わったはずだな」
 もう邪魔されることはない。後は、被疑者死亡のまま横領事件の全体像を洗うだけである。主犯が死んでしまったことは、しかし、いい方向に向くかもしれない、とロイもヒューズも前向きに考えていた。共犯者やおこぼれに預かっていた輩が、死人に口なしとばかりあれこれと証言してくれる可能性があるからである。どこまで真実を喋ってくれるかはともかく、だんまりを決め込まれるよりはまだいい。結果、一切合財全てがアイロスの主導で行われたこととなったとしても。
 すでに関係者としてのリストが上がっており、憲兵隊本部でも下調べが進んでいた。近々ゴーストロン少佐に会いに行こう、とヒューズは頭の中のスケジュール帳にメモしておいた。
 「それにしても、エドの奴、どこまで遊びに行ったんだ」
 と、ヒューズがロイの執務室の時計を見上げたのは、とっくに日も沈んだ午後八時頃のことだった。この時間まで音信不通となれば、さすがに心配になってくる。アルフォンスに電話を入れてみると、こちらも行き先はよく判らないが、今日中には戻って来ると行って外出したままだと言う。
 「奴から最後に連絡があったのは、昼前だったよな」
 その時は、ちょっと手間取りそうなことになっている、と言って詳しい情況は説明してくれなかった。切羽詰った様子はなかったが、連絡する余裕もないほど直面している事態に夢中になっているということだろうか。それでなくとも、エドワードは己れの興味の対象に出会うと時間を忘れて熱中し、そのまま没頭してしまう。周囲に誰もいなくなっても気がつかない、ということも多々あった。
 「それじゃ、俺はそろそろお暇させてもらうぜ」
 と、ヒューズが東方司令部を出たのは、それから約一時間後。空には満天の星空が広がっていた。
 そして、この時刻、ヒューズの予想に違わず、エドワードはしっかりと泥沼に嵌っていた。しかも、自力では抜け出せないほどの泥濘に。
 この数時間前、エドワードは一人である建物の前に立っていた。
 朽ちてずたぼろの教会。
 「やっぱ、壊しちまうことになったか……」
 数日前、己れが来た時にはなかった新たな「工事中」の立て札と、敷地の手前に置かれたショベルカーやホイールローダーなどの厳めしい姿を見て、エドワードはため息をついた。自分とハボックが余計なことをしたせいではないだろうが、予想以上に崩壊が進んでいる上に浮浪者やストリートチルドレンの溜まり場になってしまったのでは風紀上甚だよろしくない、と近隣の住民が訴えたらしい。来月から始める計画を前倒しして教会を撤去することになったようで、すでに敷地の一部は掘り返され、更地にされる準備を整えていた。歴史のある宗教施設とはいえ、管理者不在の物件をいつまでも放置するのは、確かに様々な理由で危険だった。
 この曰くつきの建物にエドワードは再び近付き、誰も見ていないのを確認してから、数日前に作りつけた速成のドアを開けて中へと入って行った。
 「やっぱ、気になるんだよな」
 二度と入ることはないと思っていた教会内は、自分達が余計なことをしたせいもあって半壊状態で、折れた梁も崩れかけた壁もそのままになっていた。相変わらず埃っぽく、腐食した建材特有の異臭を放っていた。
 しかも、まといつくような湿気が不快感を更に煽る。スチームを焚かれているような、とでも言いたくなるほどの高湿度は、建物自体が外気を遮断しているため、中の空気が年月を経て澱んでいるのだとは考えにくく、どこか不自然で首を傾げたくなる。
 「これはいったいどういうことなんだ……?」
 ずっと疑問だったのである。この付近に雨が降ったのは一週間以上も前のことで、とっくに乾燥しているはずであるし、水道設備は教会が閉鎖された時点で止められている。
 それならば、己れが知らないだけで、水源がこの近くに通っているということである。しかも、それは人目につかない場所にある。
 恐らくは、地下に水脈が通っているのだろう。
 この地域の住民は誰も口にしなかったが、その水脈がかなり大規模なもので、あちこちに通じているのは間違いない。初めてここへ来た時、自分が指摘したように、ひと昔前の宗教施設には、内乱などの危急の場合の住民の避難所という機能があり、「逃散」や「退転」など村ぐるみの逃亡のための抜け道を提供することもあったのである。
 この教会の地下にそのような通路が過去、なかったとは言い切れない。また、今も何者かが利用している痕跡もあった。
 「多分、これだ」
 エドワードは、以前見つけた床のパッチストーンの一つに目をやり、その傍らに片膝をついた。
 用心して動かさないと、トラップのように天井が落ちてくる。こんなところで生き埋めになるなどご免だった。
 エドワードは床に散らばる木材の破片を集め、それを組み合わせてバリケードを作ると、先日のように頭上から何か落ちて来ても退避できるようにしておいてから、胸の前で両手を打ち鳴らし、ずれたままのパッチストーンに錬成反応を起こさせた。
 砂岩でできていたそれは、一瞬のうちに目の荒い砂となってさらさらと流れるように下に落ちて行った。
 「やっぱりか……」
 砂がなくなった後には、ぽっかりと穴が空いていた。思った通りだ、とエドワードは唇を舐めた。
 古井戸を覗くような気分だったが、ちゃんと下に降りる階段があった。が、首を伸ばそうとしたエドワードは、反射的に顔を背けた。むっとするような湿気と生暖かい熱気のような風が吹き上がってきたのである。しかも、無臭ではなかった。教会内に漂っている以上の腐臭のようなかび臭さに、つい顔をしかめてしまう。
 「もの凄く行きたくはないけど、やっぱここはちゃんと確認しとくべきだろうな。俺の考えが正しければ……」
 躊躇いはあったものの、興味もそそられる。否、ここへ来た理由は、この通路を探すためだったのである。ここまで見てしまったら、後戻りはできない。
 「非合法な連中の関係ってのは間違いないな。多分、隠れ家の類に繋がってんだろ。周囲を包囲された時、気付かれずに逃げられるよう大昔の通路を退避ルートとして確保しておいたってわけだ」
 奥は暗くてよく見えなかったが、石の階段は下まで続いており、降りて行っても大丈夫そうだった。元より、つい最近も誰かが利用したらしく、うっすらと泥を被った階段の上段には、トレッキングシューズらしき足跡がいくつか残されていた。どうやら乾く暇もないほどに内部はしっとりと露を浮かべているようで、さすがの不逞の輩もここまでは後始末していかなかったらしい。
 「行ってみるか」
 鬼が出るか邪が出るか。エドワードは一人で頷くと、恐る恐る七〇p四方ほどの大きさの穴に足を下ろした。床に手を突きながら体を支えて下の段へと降りて行くと、意外にしっかりした造りになっていた。見た限り、自然の石を切り出したか、削り出したかのようだったが、きっちりと組まれて足元が揺らぐことはなく、いきなり数m下まで落下するような心配はなかった。
 ステップは全部で一四段。一フロア降りたくらいの高さだろう。降り立った場所も硬い石の上だった。が、苔か水か、ぬるぬるして滑りそうになった。
 「うぇ……」
 覚悟はしていたが、不快極まる湿気の立ち込める異空間だった。教会内のムシムシした湿気はこのせいか、と原因を特定することはできたものの、吐き気すら催すこんな場所に、本当に人が通ったりするのか、疑問に思えてきた。
 しばらく鼻と口を押さえて耐えていたエドワードは、しかし、階段のすぐ脇に吊り下げられていたランプを見つけ、火を入れた。
 ぽうっと周囲が明るくなり、何とか自分がどういうところに立っているのかが判った。
 「すげぇ……」
 と、ついエドワードは驚嘆の声を漏らした。
 そこは、鍾乳洞の中だった。出入り口は狭かったが、そこから扇状に奥深く広がる空洞があり、夥しい石灰岩に囲まれた広大なホールとなっていた。
 天井から地面までの高さは数十mはあるだろう。更に足場を探りながら下に降り、エドワードは暗闇に慣れつつある目で周囲を見回した。微かとは言えない水音が聞こえるところからして、近くに地下水が流れているようだった。
 「湿気の源泉は判ったけど、長くいたい場所じゃないな。昔は、ここが逃げてきた住人達の隠れ場所になってたんだろうけど、ずーっといたら病気になりそうだ」
 元より、湿気が多いということは細菌やバクテリア、昆虫などが繁茂しやすい環境ということである。非衛生的であり、長く見積もっても、ここに籠っていられるのは一ヶ月くらいだっただろう。それくらいならば、食糧なども備蓄できたに違いない。
 かつては、村人を匿うだけでなく、別の土地へ導く役目も負っていたというからには、それまでの待機場所としても使われていたはずである。
 「探してみたら、結構年代ものの食器なんかが見つかったりしてな」
 史学関係の者が見たら大喜びしそうな場所である。きちんとした調査を行えば、興味深い発見もあるかもしれない。
 が、しかし、今のエドワードにそんな発掘作業に高じる余裕はなかった。何百年にも渡って人々が密かに行き来した地下世界を照らし出し、この大広間がどこに繋がっているのか、ランプを掲げて歩ける通路を探した。
 幸いなことに、それはすぐに見つかった。通り道というのは、人の足の裏で擦られて削られ、窪んでつるつるになっているものである。草々の、生き残るための手段であったその抜け道は、前史の名残のようなものだったが、今は別のグループが別の目的で使用している。皮肉なものだった。
 「まさかとは思うけど、ここを通り抜けたら、シンに出るなんてことになったりしねーよな。いや、そこまで長くはないか。何qか先の山の中か湖の畔か、そんなところだろ」
 鍾乳洞自体は海の方まで続いているという話を聞いたことがある。近くに流れてる地下水がどこかの地底湖に繋がっており、いくつもの経路を経て最終的には南部の更に南の海岸から外洋に注いでいるのだとか。
 そんなことを考えながら、エドワードは濡れて滑りやすくなった通路を進んで行った。かなり古く、一部崩壊が始まってはいたが、充分歩けるだけのそこは、思ったより長く続いているようだった。
 岩壁を殆ど手探り状態でひたすら歩き、歩いているうちに嗅覚が麻痺してしまったのか、不快な臭いは感じられなくなって行ったが、べったりと張り付くような湿気と高温には慣れるはずもなく、エドワードを辟易させた。
 奥へ奥へと入るにつれ、換気の行われていない空気はどんどん重くなり、蒸気の中を歩いているような気分になって来る。汗なのか露なのか判らない水滴がびっしりと額から首筋に張り付き、背中や胸元へ幾筋も伝ってはだらだらと流れ出した。体力がそれだけ削られ、一歩歩くたびに疲弊していくような気すらした。
 それでも、やがて広いホールを抜け、狭い回廊のようなところに出る。天井が急に低くなり、幅も狭くなり、その圧迫感にエドワードはつい喘いだ。閉所恐怖症の気はないが、もう引き返そうか、と思う。これ以上、一人で奥へ入り込むのは危険だった。周囲はどことも知れぬ地の底である。出口がどこにあるのか、どこまで歩けば辿り着くのか、全く見当もつかない。無論、地図もない。たった一人で迷路に迷い込むのは、最悪、生きて出られない事態を意味する。
 が、窮屈さにも飽きた頃、再び視界が開けた。
 ほっと息を吸い込んだエドワードは、しかし、鼻を突く異臭に思わず、口を押さえた。生肉が腐ったような強烈な臭いがつんと鼻の奥まで入り込み、余りの酷さにいきなり咳き込んでしまった。
 「な、何だよ、これ。何か腐ってんじゃねーのか」
 偶然入り込んでしまった動物か何かが閉じ込められて死んでしまったのか、そう遠く離れていない場所に何らかの汚物が横たわっているようだった。ここを出て、しかるべき応援を呼ぶべきだ、と涙目になりながら思う。
 やっぱりこの辺で引き返そうと足を止めたエドワードは、不意に背後で何らかの物音を聞いたような気がした。
 「え?」
 まさか、と嫌な予感がする。確信があったわけではないが、エドワードは即座にUターンすると、元来た道を駆け足で戻った。
 途中、何度も足を滑らせ、こけそうになったが、何とか踏み止まり、元のホールに入った。しかし、その先にあったはずの外界の光がなかった。
 「と、閉じ込められた……?」
 咄嗟に、悪い予感が当たったことを知る。ランプを地面に置き、エドワードは己れが降りて来た階段を昇った。
 が、出入り口には、かなりの重量を持つものがずっしりと圧し掛かっているらしく、押しても引いてもびくともしない。まるで、がっちりと何かが嵌め込まれたようになっていた。認めたくはないが、開けっ放しにしておいた出入り口に何かが落ちて来て、蓋をするように塞がれてしまったらしい。
 いったい、何が起こってこんなことになってしまったのか。もっとも、いつ天井が崩れてもおかしくない状態だったのである。ただでさえ不安定な建物の中に勝手に入った己れが悪いのであるが、こんな情況になるとは思いもしなかった。
 「くそっ」
 ならば、と錬金術を使おうとしたエドワードは、しかし、すぐに思いとどまった。出入り口を突破するのは簡単だろう。しかし、上に乗っているものが壁や天井に直接接しているものだったら、穴を開けたとたんに教会自体が崩壊する恐れがある。そうなったら、文字通り生き埋めである。
 「何てこった……」
 最悪の事態を想定し、エドワードは暗澹たる気分に陥った。ヒューズがここを探し当ててくれる可能性は低い。アルフォンスにもはっきりした行き先は教えていない。ここを突き止めたとしても、それは数日後のことになるだろう。
 「それまで、こんなところで過ごせってのかよ」
 額からこめかみに流れた汗を乱暴に拭いとり、エドワードは己れの迂闊な行動を棚に上げると、憤然と天を見上げた。
 が、しかし、大々的に不穏な物音がしたのはそれからだった。めきめきと何かが軋むような音が聞こえたかと思うと、その直後、落盤でも起こったような派手な轟音が次々襲ってきたのである。地下では音が籠って何がどうなったのかよく判らなかったが、ただ事ではない気配にエドワードは首を竦めた。否、冷や汗が脇腹を伝って落ちた。
 さすがにパッチストーンの床が崩れ落ちてくることはなかったものの、かなりの衝撃と重量がかかったらしく、どさどさと地響きするほどの物音とともに地面が揺れ、そのたびにぱらぱらと土埃が舞った。慌ててエドワードは出入り口から離れたが、しばらくものも言えないほどの緊張に息を呑んだ。
 「何なんだよ、いったい……」
 わけが判らない。何が起こったのか。
 否、判っている。地上部分の建造物がついに崩壊してしまったのである。天井と屋根、もしかしたら、壁までも全てが一気に落下してしまったのだろう。
 これで完全にエドワードは閉じ込められてしまった。いくら天才錬金術師でも、人一人が通れるだけの穴から、家数件分の建材を跳ね除けるような芸当はできない。かと言って、土木工事ができるだけの道具も重機もない。
 「チクショー!」
 エドワードは腹立ち紛れに怒鳴ったが、その声は虚しく空洞内に木霊するだけだった。



 ぐしゃり、と見事に潰れて崩落してしまった無残な屋根と、粉々に割れた漆喰の壁を見上げながら、男はふうっと紫煙を吐き出した。
 これで一両日は時間が稼げるだろう。ここへエドワードが現れるとは計算外だったが、可能性がなかったわけではない。
 「手加減はしてやったぜ。さっさと地上に戻って来いよ」
 そう呟くと、男は踵を返した。











2007,1,15 To be continued

  
 またもや長らくの中断、申し訳ありませんでした。現時点で、ストーリー全体の2/3くらいですかね。やっとこさ、まとめの方向へと向いて参りました。というか、殺す予定の人員が全員始末できましたので、解決編へ突入ということです。(^^ゞ