銀の罠








 その夜に起こった出来事を、エドワードもハボックも頑として口を閉ざし、決して他言することはなかった。



 欠伸を噛み殺しながら東方司令部へ顔を出したハボックは、どういう理由か、昨日イーストシティに戻って来たばかりのエドワードを連れていた。
 「ずいぶんとお早いお出ましで」
 目を通していた書類から顔を上げ、じろりと不機嫌に睨むブレダへ、ハボックはいつもの咥え煙草で報いた。
 「今日は遅番だったんだぜ。それをさっさと出て来いって呼ばれて来てやったんだ。文句を言われる筋合いはねぇよ」
 褒めて欲しいくらいだ、とばかりハボックはわざとブレダによく見えるよう肩を竦めて見せた。遅番の出勤時間は午後二時。現在は午前一一時を回ったところだった。不平の一つや二つ言いたくなって当然の情況なのであるが、しかし、ブレダは無論、ファルマンもフュリーもその他の誰も、ハボックの早出を労わってはくれなかった。
 もっとも、その理由は一目瞭然だった。いつになく室の面々が緊張してぴりぴりしており、何らかの事件が起こったらしいのは明白で、いつもならエドワードを構ってくれる連中も殆どなおざりな挨拶くらいしかしてくれない。
 「で、何があったんだ」
 ブレダの机の上に両手をつき、ずいっと身を乗り出すと、ハボックは頭の上から影を作ってやった。
 「いきなり叩き起こしてくれただけのことはあるんだろうな」
 が、そんなプレッシャーを、しかし、ブレダは全く受け付けない。さすがに付き合いが長いだけのことはあり、片方の眉を跳ね上げるようにしてハボックを見遣ると、呆れたように言った。
 「酒の匂いがするな。昨夜はずいぶんとお楽しみだったようじゃねぇか」
 「悪いか。今日はゆっくり休むつもりだったんだ。少しくらい羽を伸ばしたっていいだろ」
 「エドの奴を連れてたなんて言わねぇだろうな」
 「それがどうした」
 「しょ、少尉……っ」
 凄むような声に、エドワードの方が慌てた。昨日の酒がまだ残っているのか、いつもの飄然とした気配が薄く、喧嘩を売っているような口調だった。たまに、酒が入るとハボックは酷く剣呑な雰囲気を滲ませ、どこかのヤクザと見間違うほどの凶悪さを垣間見せることがある。酒乱というわけではないが、どうやら酒癖の悪いところがあるようだった。
 「大佐に会いに行くんだろ、さっさと行こうぜ」
 こんなところで油を売っていたら、ロイにどんな嫌味を言われるか判ったものではない。わざわざ呼び出されたのなら尚更である。
 「そうだな。行くか」
 がりがりと頭を掻きながら、身を起こしたハボックは己れ同様けたたましい電話の音で飛び起きて同行することとなったエドワードを見遣った。
 「どうせ、ロクなことじゃねぇだろうがな」
 まるで言い捨てるように煙草の吸殻を手近な灰皿に投げ入れると、憤然と書きかけの書類へ目を落としたブレダを置いて、ハボックは身を翻した。
 ロイの執務室は歩いて数分もかからない。二人はとっととそこへ向かい、重厚そうなオーク材のドアをノックした。
 「マスタング大佐、ハボック少尉とエドワード・エルリック参りました」
 「入れ」
 いつも通りのロイの声に、やはりいつも通りの手順と仕種でハボックはドアを開けた。
 ロイの執務室は決して豪華ではないが、数人が集まって会議ができるほどの広さがあった。そのためのソファやテーブルも、書棚もある。
 普段、きれいに片付けられているそのテーブルの上に、何の書類か、レポートらしき紙片の挟まれたクリアファイルとバインダーが何冊も積み重ねられていた。
 そして、空になったコーヒーカップが二脚。
 どうやら、先程まで客が一人来ていたらしい。慌てたように従卒がそれを下げていた。
 「いきなり呼び出してすまなかったな。まだ眠っていたのだろう?」
 「当然スよ。午後からゆっくり出て来るつもりでしたからね」
 面倒臭そうに、上司に対するものとはいささか不似合いな態度でハボックは執務机に近付いた。が、ロイはそんな不遜な振る舞いを咎めるでもなく、ハイバックの革張り椅子を半回転させると、ゆっくりと足を組んだ。
 エドワードが側にいると、ハボックは往々にして横柄さを見せ付けるような物言いをする。保護者ぶっているのか、いいところを見せようとしているのか。
 そのエドワードは早くも不穏な空気を感じ取り、何も言わずにさっさと室の隅へと寄った。今、ロイと話しているのはハボックである。横から自分が口を挟んだり、ちょっかいを出したりするのを、ロイは殊更嫌がる。余計なことを言えば睨まれる。
 「君は黙っていたまえ」
 と、不愉快そうに撥ね付けられ、会話の相手から外されているのだと思い知らされたことが何度あったことか。もっとも、エドワードがロイと話している時はハボックが壁の花と化している。お互い様だった。
 「で、何が起こったんスか」
 「昨夜のことだ。報告を聞いたのは今朝になってからだが」
 そう言って、ロイは立ち上がると、執務机を回り込み、ハボックの背後を回って、テーブルの上のレポート用紙を一枚取り上げた。
 「昨夜の午後一一時、いや、〇時に近かったらしいが、ピラカンサ通りの脇で傷害事件があったそうだ。被害者は一三〜一四歳の少年四人。現在、病院で手当てを受けているそうだが、殴打されたり、昏倒させられたりした時の負傷がかなり酷くて、三日間の検査入院となった。頭や腰を打っていて、骨折もあったとのことだ」
 と、ロイは手にしたクリアファイルをハボックに突き出した。が、ハボックは肩を竦めただけで、受け取ろうとはしなかった。
 「それがどうしたってんスか。街中での騒動なら憲兵隊本部の管轄でしょうが。何でこっちへ捻じ込まれて来たんスか」
 「お前の言い分はもっともだ。私とてこんな些事にかかわずらうのは本意ではない。早い話が厄介事だ」
 ため息をつきながらもロイの視線はハボックから離れない。どうでもいいような些事でありながら、見逃すことができないのだ、と言っているようだった。
 「何が厄介なんスか」
 「この負傷者というのが問題なんだ。四人のうちの一人の名前はケリー・パークロード。この少年の父親は、フィリップ・パークロード少将。この司令部の兵站部の部長だ」
 「……」
 そういうことか、とハボックは納得した。と、同時にうんざりした。
 「部長の権限を振り翳して、息子を殴った――、いや、怪我をさせた犯人を捜せってんスか。冗談じゃないスよ」
 何故、そんな事件がロイのところへ持ち込まれたのかは知らないが、本来ならば軍司令部が動くべき案件ではない。いくら父親が将官であろうとも、被害者はれっきとした民間人である。一四歳ならば、士官学校はおろか、まだ幼年学校にも下士官養成所に就学できない年齢であるから、心得違いもいいところである。そのくせ、文句だけはたらたらと言ってくれる。
 「お前が嫌な気分になるのはよく判るが、これで話は終わりではない。まぁ、座れ。鋼のもこちらへ来い」
 やっとエドワードの方へ視線をやったロイの表情からは何も読み取れなかったが、この事件がハボックだけでなく、自分も関わりがあるらしいのは察せられた。
 気まずく、ハボックと並んでソファに腰かけると、その向かい側にロイが座った。そして、いきなり切り出した。
 「この際、貴様が未成年者を連れて真夜中、繁華街を徘徊していたことには目を瞑ろう。その代わり、見たことを洗い浚い喋ってもらう」
 「どういう意味だよ」
 口を開いたのはエドワードだった。それとなく遠回しに自分が非難されているのが判る。しかし、何故二人の昨夜の行動をロイが知っているのだろう。友人知人を含め、顔見知りには会わなかったはずである。
 「被害者の少年達の話によると、殴打された時、それを見ていた人物が複数いたとのことだ。二人連れだったそうだが、その年恰好や特徴を聞くと、貴様ら二人と一致する」
 「……」
 ハボックとエドワードは無言で視線を交し合った。居心地悪そうにハボックはポケットを弄るような素振りを見せたが、何も取り出すことはできなかった。どうやら、煙草が切れてしまったらしい。
 「盛り場をうろついてたことは、不問にしてくれるってことか。その代わり、犯行現場の様子を吐けって?」
 「報告書に記録する際には、偶然通りかかった男性二人という表記になる。個人名までは出さないから安心したまえ」
 恩着せがましくは聞こえなかったが、ロイにその気がなかったとは言えない。エドワードは用心して口を開いた。
 「要するに、俺達は目撃者ってことだな」
 「そうだ」
 「聞きたいことを聞くだけ聞いたら、無罪放免か」
 「もちろんだ。それ以上の用はない」
 それならば、ロイのところへパークロードとかいう少将が犯人探しの協力を要請して来てもおかしくはない。
 「そういうことなら、なぁ?」
 と、エドワードが傍らのハボックを見上げる。お前の好きなように言っていい、と言うように、ハボックは頷いた。
 「ピラカンサ通りでボコられたんスよね。俺達がそこを通りかかったのは、午前〇時をかなり過ぎてたと思いますよ。街灯は明るかったし、飲み屋の多くはまだ開いてましたから、周囲の様子は結構はっきり見えました。が、場所は盛り場だったんスよね。喧嘩してる酔っ払いは何人もいましたし、カツ上げやったり、闇でしか手に入らないブツを売って客とトラブったりしてる奴はもっといましたよ。そのうちのどれかってことになりますが……」
 「『銀の罠』という酒場の近くだったそうだ」
 「看板がアルミ製でギンギラリンの星型だったりする店か」
 「そうだ」
 「客らしい中年男を取り囲んで恐喝やってるゴロツキなら見たけど、それか?」
 「ゴロツキ?」
 「傷だらけの革ジャン着て、首や腕にじゃらじゃらしたチェーンを巻きつけてた。いかついブーツに鋲を打ったり、拍車つけてたりしてたぜ。ついでに言うと、四人ともスキンヘッドで、蝶々とか昔の騎士団のマークなんかをこれ見よがしに腹や肩に刺青してたっけ」
 「いや、一人はモヒカンだったぞ。黄色とピンク色のシマシマに染めてたじゃねぇか」
 「ああ、出っ歯でサル顔でがりがりに痩せてた奴か。猫背で見てくれ最低なのに、気取ったことやってたよなぁ」
 「全然似合わねぇのにな。あれじゃ猿人ゴリーかゴーロン星人のできそこないだぜ。動物園のオランウータンだってもっと可愛げがあるよな」
 そのうちの一人が将軍様のご子息か? とエドワードとハボックは同時にロイに顔を向け、問いかけた。ずいぶんなドラ息子である。しかし、父親にとっては可愛い掌中の玉なのだろう。でなければ、捜査の後押しなどしない。ロイもそう思っているのか、二人の放言を嗜めようとはしなかった。
 「その出っ歯の少年が将軍のご子息だ」
 敢えて、父親もそっくりな顔形だとは言わなかった。今更エドワードの口の悪さを指摘するまでもない。
 「ヘヴィメタでもやってんのか、そいつ。ブラックサバスとか、アイアンメイデンとか」
 「そこまでは知らないが、手を焼いているという噂は聞いたことがある。将軍曰く、彼は優しい人間だから、友人を冷たくあしらったり裏切るようなことはできないのだ、と」
 「くっだらねーっ」
 エドワードは仰け反ってソファの背凭れに背中を預けた。親バカもいいところである。一四歳にしてすでにしっかりとグレているという事実が認識できないのだろうか。
 「それはともかく、殴打されたところは見たのか」
 ちらりとエドワードがハボックを見遣る。それを受けて、ハボックが口を開いた。
 「見てませんね。俺達が見たのは、さっき言った通り、ゴロツキどもが酔客に絡んでいるところでした。酒場じゃよくあるトラブルですから、あそこでもやってるな、と横目で通り過ぎましたよ。そのうち憲兵が来るだろうって」
 「仲裁に入ろうとは思わなかったのか」
 「そんな義理はありませんって。……いや、その前に、俺の方も結構酒が入ってましたからね。あんなところで乱闘騒ぎになったりしたら、後々面倒なことになっちまうと思ったんスよ。軍服着てましたから、ひと目で軍人ってのは判ってしまったでしょうし」
 「貴様にしては殊勝な判断だな」
 「色々と痛い目に遭いましたから」
 士官が民間人に暴力を振るったなどという不祥事が明るみに出たら、始末書どころではすまされない。本人は営倉入りの上、上司のロイは監督不行き届きで責任を問われる。酷ければ、降格もありだろう。
 「まぁいい。貴様らが見たのは、恐喝の場面であって、殴打の場面ではない。そういうことだな」
 「タイムラグがあったのかもしれませんね」
 「連中の勘違いってこともあるだろ。怪我のショックってか、殴られたショックで記憶が混乱してるかもしれないだろうし」
 「そうだな」
 暴行を加えられると、人はその前後の記憶を他の記憶と混雑させ、つぎはぎをしたように支離滅裂にしてしまうことがある。事件の直後なら、そのような混乱もあり得るだろう。もうしばらくすれば、気分的にも落ち着いて、作り上げた記憶ではなく、事実としてきちんとした記憶を思い出すに違いない。
 「それに、ああいう連中はコトの次第を大袈裟に言って自分は悪くない、相手が強すぎたんだって言い訳するもんスよ」
 ハボックの言い分にロイは頷く素振りを見せた。いきがっている連中の決まり文句などありふれている。
 「もう少し情況をはっきりさせる必要があるだろう」
 顎に手をやり、ロイが考えるような仕種をする。ならば、この件は棚上げということか。内心、エドワードとハボックはほっとした。
 「ご苦労だったな。後日、改めて事情を聞くことになると思うが、取り敢えず、今日のところは下がっていい」
 これ以上有用な話は引き出せないと見切りをつけたのか、早々にロイは二人を解放した。
 「では、失礼します」
 ハボックは立ち上がって敬礼すると、エドワードを促してドアの方へ向かおうとした。その背中へ、ふとロイが思いついたように声をかけた。
 「ハボック、何か拾ったものはないか、昨日」
 それへ、二人は同時にぎくりとした。
 幸いなことに、背を向けていた二人の表情はロイに見られることはなかった。が、瞬時にして空気が張り詰めてしまったのは、悟られてしまっただろう。
 「何のことスか」
 平静そのものの声で、ハボックが振り返る。
 「いや、何でもない」
 ロイの顔も平然としたものだった。
 「だったら、勤務時間になるまで休んでていいスね」
 「もちろんだ」
 そう言うと、ロイはどかりと執務机の椅子に腰を下ろした。その所作がいささか乱暴だったのは気のせいだろうか。敢えて、二人は考えないことにした。
 では、とドアの外へ出て、エドワードとハボックはいくぶんギクシャクと廊下を歩き、休憩室でもあるスタッフルームへと向かった。
 喫茶室のようなそこは、時間が時間だけに人気はなく、二人はほっとして手近なラウンドチェアに腰を落ち着けた。
 開いた窓からは、真っ青に晴れ渡った空が見える。澄んだ空気が清々しいばかりだったが、しかし、室内にはどんよりとした暗雲が立ち込めていた。
 「やべぇな」
 「ああ」
 それだけの言葉を交わし、二人は気まずく沈黙する。
 が、その数秒後、エドワードは声を張り上げた。
 「どーすんだよ! しっかり事件になっちまってるじゃねーかっ」
 「お前だって共犯だ」
 「手を出したのはあんただろ。俺はあんなことやれって言った覚えはないからなっ」
 「今更そんなことを言っても遅い。大佐は男二人って言ってたじゃねぇか。同罪なんだよ、もう……」
 もう逃げられないぞ、とハボックが不穏な言葉を続ける。エドワードは言葉に詰まったが、すぐに怒鳴り返す勢いで言い放った。
 「連中に喧嘩売ったのはあんただろ」
 「お前が絡まれてたのに、黙って見てろって言うのか。俺は腑抜けじゃない」
 「だからって、よりにもよって将軍閣下のドラ息子をぶん殴ることねーだろ。おまけに、腕につけてたワッペンまで引き千切りやがって」
 「名前を言えって脅しても、嫌だって言うから、その代わりのもんを出せって言っただけだ。身分証は持ってなかったし、どこの誰だかも判らないんじゃ、後で憲兵にチクる時に不便だろうが」
 「だいたい、あんな連中、俺が追っ払えないとでも思ったのかよ」
 「四対一だったぜ。さすがにやばいと思って助太刀に入ったら、ああなっただけだ」
 「助太刀ってのは、一三や一四のガキを半死半生の目に遭わすことかよ。やり過ぎだってのが判らねーのか」
 「ストリートギャングだと思ったんだ。あの風体じゃまともな輩じゃないと思っちまっても仕方ねぇだろ」
 しかも、酒が入っていた。いったん挑発に乗ってしまうと、引っ込みがつかなくなる。無様と言えば無様な出来事だったが、しかし、一〇代のガキに舐められたまま退散するというのも相当に恥晒しな事態である。おまけに、エドワードという傍観者がいたのでは、尚更女々しいところは見せられなかった。勇ましいことに、庇護すべき者が側にいると余計にそんな見栄が助長され、増幅されるのは世の男の常で、ハボックも例外ではなかった。ブレーキがきかなくなった状態に陥ると、それを止めるのは至難の業である。
 「連中の凶暴さを知らないわけじゃねぇだろ。つい最近もティーンエイジャーの売人が縄張り争いやって、何人もの死傷者を出した。どこで手に入れたのか、ジャックナイフや銃まで持ち出してな」
 「でも、過剰防衛だ」
 「あれくらいでちょうどいいんだ。怪我はしても、死んでないんだからな」
 「あんたな――」
 と、エドワードが反駁しかけた時だった。いきなり、スタッフルームのドアが開いた。はっとしたように二人は口を閉じ、反射的にドアの方を見遣った。
 「ああ、二人ともここにいたんですか」
 「ファルマン准尉……」
 業務の間にコーヒーでも飲みに来たのだろう。ファルマンはすたすたとカウンターに近寄ると、紙コップを取ってコーヒーメーカーに手を伸ばした。スタッフルームのいいところは、セルフサービスでいつでもいくらでもただでコーヒーが飲めることだった。紅茶はカウンターの向こうに控えている職員に頼まないと淹れてくれない。
 「なぁ、ちょっと聞いてもいいか」
 「何ですか」
 エドワードの問いかけに、ファルマンはコーヒーを紙コップに注ぎながら返事をした。煮詰まったコーヒーはお世辞にも旨そうには見えなかったが、全く頓着しない様子で口をつけると、エドワード達の方へ顔を向けた。
 「もしかして、パークロード少将が来てたのか、さっき……。兵站部の部長だって聞いたんだけど……」
 それへ、ファルマンはあっさりと頷いた。
 「大佐に重要な話があるとかで、朝イチでおいでになられましたよ。しかし、もうお帰りになったはずです」
 ロイの部下達の緊迫した雰囲気はそのせいだったらしい。が、エドワードの聞きたいのはそんなことではない。
 「どういう用件か、聞いてるか」
 「ご子息が街中で暴漢に襲われたとか。容疑者が軍服を着ていたということで、あちこちの部署に協力を求めているそうです。その一環でしょう。この近くで軍人と言えば、東方司令部と六qと七三八m離れた連隊本部の者しかいませんからね。軍管区内の師団司令部や駐屯地はもっと遠くですし」
 のんびりと、ファルマンはコーヒーをすする。
 「で、大佐は何て?」
 「もちろん、全力を挙げて取り組むつもりですよ。聞けば、被害者は民間人、しかも、未成年者というじゃないですか。加害者が軍人となれば、放ってはおけません。徹底的に調べ上げて、憎き犯人を捕縛しなければ、我が東方司令部の沽券にかかわります。今日から憲兵隊本部とも連絡を取り合って事件の全容解明に向けて厳しく捜査することになっています」
 「犯人が軍人ってのは確かなのか。兵だってことは……」
 「それはあり得ませんね。被害者の少年が軍服の肩章をちゃんと見ていますから。階級は覚えていないそうですが、尉官らしいですよ」
 「尉官か……。この司令部だけでも結構いるんだろ。全員、尋問するのか」
 「昨夜の居所がはっきりしている者を除けば、大した数ではありません。尋問方法は大佐が考えているようですから、そのうち我々にもお達しがあるでしょう。もちろん、必要が認められれば、の話ですが。警察ではこういうのをアリバイと呼んでいるそうですね」
 「らしいな」
 本気だ、ああ本気だな、とエドワードとハボックはアイコンタクトで確認し合った。どうやらロイは本格的に事件に介入する気らしい。憲兵司令部と話がついているのなら、今日にでも強権発動する勢いで行動を開始することだろう。
 なんてこった。
 「……」
 どうする? とエドワードがハボックの脇を突付く。が、ハボックに妙案があるわけではない。腹の底が冷えて、じっとりと滲み出すような汗が首筋や背筋に浮かんでいたが、敢えて知らないふりをし、質問を続けた。
 「い、遺留品はあるのか。その、犯人の……」
 「煙草を落として行ったそうですよ。すでに鑑識に回してあるそうですが、見た目でもかなり特徴のある銘柄でしたから、持ち歩いている人物は限られるでしょうね。結構、有力な物証です。それと、被害者が持ち物を取られたそうです。何が取られたのかは、IDとして使うため、公にはできないそうですが」
 「ずいぶんと話が進んでるんだな。パークロード少将ってのは、そんなに息子思いの人なのか」
 その質問に、ファルマンは一瞬、微妙な顔をした。が、すぐに消し去ると、困惑したように首を振った。
 「近来稀に見る厳格で潔癖な人です。ご子息が殴打されたことよりも、司令部のお膝元で軍人が暴力を振るう不祥事が起こったことに、非常に心を痛めておられます」
 「へぇ……」
 あんなドラ息子を育てた親とは思えない。えらくまともな人格者らしい。一様に、エドワードとハボックは呆けたような声を漏らした。
 「ですから、絶対に見逃したり、有耶無耶にしたりはしなという固い決意の元、今回の件を扱うことになったんです。我々とても放っておける問題ではありません。そうでしょう?」
 力説するようなファルマンの様子に、しかし、エドワードとハボックはだんだん青褪めて行った。ただの親バカならロイも適当にいなして迷宮入りにしてしまうこともできただろうが、「軍人の不祥事」と言われてしまっては、さすがに対処せざるを得ない。
 兵が酔っ払って喧嘩沙汰を起こしたくらいなら、憲兵も営倉に放り込むくらいで勘弁してくれるが、司令部付きの士官がやったとなれば、それなりの処罰は免れない。どういうペナルティが科せられるかはケースバイケースだが、最悪の場合、遠く遥か彼方、見知らぬ土地への左遷が待っている。
 でなければ、軍法会議にかけられ、不名誉除隊か。
 ついでながら、「軍人」というのは、下士官以上の職業軍人のことを指して言う。それより下の、二等兵、一等兵、上等兵、兵長は、「兵卒」または「兵士」、「兵」、古くは「兵隊」と呼ばれ、軍人とは明確に線引きされている。何故なら、軍人としてのきちんとした訓練を受けていない一般人を数週間〜数ヶ月で促成栽培したような素人だからである。給料その他の待遇面から、進級、昇進の仕方まで兵と軍人はきれいに切り分けられ、差別に近い区別がなされていた。言わずもがな、軍界は厳密な階級社会だった。
 「しかし、すぐに容疑者は上がるでしょう。先程も言いました通り、数が限定されていますからね。それに、真夜中とは言え、盛り場での出来事ですから、今後目撃者ももっと名乗り出て来るに違いありません」
 そう言い切ると、何も知らないファルマンはコーヒーを飲み干し、紙コップをダストボックスに放り込んでスタッフルームを出て行った。
 ばたんとドアが閉まり、それを見計らったように、昼時間を告げる空砲の音が二度、三度と聞こえて来た。
 やがて、がやがやとしたざわめきが周囲から聞こえて来る。昼食に出る人々の私語だろう。
 それを谺のように聞き流しながら、しばらくエドワードとハボックはラウンジチェアの上から動けなかった。
 「兵站部ってのは、真面目な人間が多いからなぁ……。何せ、食糧を含む軍需品を戦地まで輸送する計画やその手配をする部署だ。ちょっとした手違いで前線の将兵が飢えちまったりしたら、戦闘どころじゃなくなる」
 かつて、国家総動員法がまだなかった頃、軍の大半は傭兵が占めていたのであるが、この連中が殊の外待遇面で煩かった。腹が減っては戦ができぬ、とばかり食糧が途絶えたとたん、躊躇いもなく脱走してしまうため、補給に関する一切を受け持っていた兵站部はかなりプレッシャーのかかる部署だった。技術畑出身者も多く、伝統的に細かい計算が得意で、責任感の強い人間が任官するのが常だった。いい加減な性格では勤まらない。
 「前線への配給が一週間遅れただけで、申し訳ないという遺書を残して自殺しちまった兵站大尉もいたくらいだからなぁ……」
 だんだんと、二人とも自分達の考えが甘かったという認識に達しつつあった。
 はぁ、とため息をついた後、エドワードがきっ、とハボックを睨んだ。
 「どーすんだよ、もっとやばくなってんじゃねーか!」
 「怒鳴るな。頭が痛い」
 「だったら、水でも浴びて来い」
 「それで収まるくらいならとっくにやってる」
 「昨日の夜に生まれて、寝ている間にがんがん成長して、朝起きたら、結婚して子供まで生まれてたって言うんだろ。自業自得だ」
 いつだったか、眠いといってベットの中でぐずるハボックがジョークらしい言い回しでのたまわった台詞を、エドワードはしっかりと覚えていた。しかも、ハボックの室には頭痛薬がなかった。本人曰く、ほっときゃ治る、とのことだった。
 「判ってるなら、言うな」
 「言わなきゃ判んねーだろ、あんたは」
 再びぎゃあぎゃあ騒ぎ出した二人は、しかし、息を切らしながら不意に口を噤んだ。
 そして、顔を見合わせて、互いの結論を出し合った。
 「こうなったからには、もうやることは一つしかない」
 と、エドワードが諦めたように、否、決意したようにラウンジチェアから立ち上がる。が、渋い顔をしながら、ハボックはそっぽを向いた。
 「俺の首、大佐に差し出せってのかよ」
 「逃げ切れると思うか」
 「いいや」
 「だったら、潔く行こうぜ」
 エドワードはハボックの肩を叩くと、出頭を促した。どうせ、ロイにはバレているのだろう。後で追及されてゲロさせられて気まずい思いをするより、自分から名乗り出た方が印象は悪くないはずだった。処分もそれに免じて甘くなるかもしれない。ロイとて、自分の部下を他部署の部長に引き渡すような恥辱は避けたいはずである。
 世に言うセクショナリズムの弊害を、万に一つの望みとして、エドワードはハボックの背中を押してやったつもりだったのだが、なかなかハボックの決断はつかないようだった。
 「軍歴に傷がつく」
 「そんなん、あんたが気にするようなタマか」
 出世が遅れるくらいだろう、とエドワードは高を括っていたが、しかし、ハボックはそれを無碍に否定した。
 「これで何らかの処分が下ったら、俺は北部の山岳地帯に放り出されて国境警備か何かの、危険だけの、しかも、報われない仕事に振り向けられるんだ。雪の中で、侘しそうに外套を着て突っ立っているだけの歩哨兵とか……。たまに訪ねて来てくれるのは、森のリスとかイタチで、人と喋ることも稀になっちまう」
 「拗ねるなよ。そうと決まったわけじゃないだろ」
 「お前はいいよな、所詮軍属なんだし、未成年だし。いくらでも世間の目は温かいし……」
 「でも、大佐が容赦してくれるとは限らない」
 「……」
 「……」
 またもや二人は沈黙し、明後日の方向を向き合った。
 そして、エドワードがぼそりと言った。
 「俺達、やっぱ共犯者か……」
 その台詞は、実に正確に昨夜の情況を言い表していた。店名である、「銀の罠」は、まさにそれを体現していた。
 先に手を出したのはパークロード少将の息子か、もしくは、その仲間の一人だった。殴りかかってきたので、それに応戦したという形を取り、町のクズであるチンピラどもを叩きのめし、ささやかながら路地裏のクリーン活動に貢献した……、と当初、二人は思っていた。
 周囲の通行人は誰もハボックの行為を責めず、憲兵が到着する前に逃げ道すら教えてくれた。どうやら、連中はあの界隈で鼻つまみ者となっていたらしく、面も割れていたようだった。
 そして、このハボックの暴行を煽ってエスカレートさせたのが、エドワードに他ならなかった。



 ファルマンがロイの執務室に入ったのは、昼休みも一〇分近く過ぎてのことだった。
 「どうだった」
 前置きなしでロイは報告を求めた。それへ、ファルマンは断言した。
 「間違いないですね。少将のご子息を殴って怪我させたのは、ハボック少尉でしょう。しかし、理由もなく暴力を揮ったりするような性格ではありませんから、それなりの事情があったと思いますが」
 「その点は考慮するつもりだ」
 それまで読んでいたファイルを机の上に置くと、ロイは椅子から立ち上がり、どこか面白そうに言った。
 「あくまで、自首して来たらの話だがな」
 「来るでしょう。少尉がいつまでも後ろ暗いことを隠しておけるとは思いません」
 「同感だ」
 そのタイムリミットを、ロイは昼食後の午後イチと踏んでいた。今頃、エドワードとハボックはロイにどう説明するか、釈明のためにあれこれと知恵を絞っていることだろう。その光景が目に浮かぶようでなかなか楽しい。
 「で、ご子息の方は、正直に供述してくれたのか」
 「まだ喚いているそうですよ。自分達は被害者だと。あれで鼻の骨と鎖骨を折っているというんですから、元気なものです」
 若さゆえだろうか、体力だけはあるようだった。パークロードに限らず、つるんでいた三人も似たり寄ったりで、医者に食って掛かったり、看護師に悪態を衝いたりして、手当てをしてくれた病院でも持て余し気味だとか。
 しかも、不穏な情報がロイの元には届いていた。そのメモをそっと隠すように書類をずらすと、どうでもいいようなことを口にした。
 「反抗期が長く続いて荒れているのだろう。はしかみたいなものだから、しばらくすれば、借りて来た猫のように大人しくなる」
 「そうですね。他に御用は?」
 「私が呼ぶまでここには近付かないようにしてくれ。ハボックからの報告書、いや、始末書は今日中に提出するように言っておこう。副官部にそう伝えておいてくれ」
 「了解」
 敬礼して、ファルマンは踵を返し、執務室を出て行こうとした。その刹那、視界の端に何かが見えたような気がして振り返った。
 「大佐、これは何です?」
 先程、ロイがメモを触った時にずれたのだろう、書類と書類の隙間から、執務室に似つかわしくないものが覗いていた。
 それは、カラフルなスーツと帽子を身に着けて、品よくポーズを取った女性のカラー写真で、何かの本の表紙のようだった。軍司令部で使う色気のないレポートパッドや厳ついだけの綴じ込みファイルの中にあって、それは華やかに、いかにも場違いな雰囲気を放っていた。
 「通信販売のカタログだそうだ。本来なら女性士官が回し読みしているはずのものだが、どういう手違いか、こちらに回って来た。後でホークアイ中尉にでも渡せばいいと思っているが」
 「この会社なら知ってますよ」
 と、ファルマンは書類の下に埋もれていたカタログを掘り出すと、表紙に印刷された社名を読んだ。
 「無店舗販売で最近業務を拡張した会社ですね。以前は女性をターゲットにした服や小物だけを扱っていたそうですが、最近は男性用のネクタイや靴なんかも販売しているそうです。私のところにもダイレクトメールが来たことがありますよ」
 「そうなのか」
 博識なところを見せて、ファルマンはこの会社についての説明をしたのであるが、通販そのものに興味がなかったのか、ロイの反応は鈍いものだった。しかし、何気なくカタログをめくろうとすると、いきなりそれを止められてしまった。
 「何です?」
 「いや。そろそろ食事に行ってはどうだ。すぐに食堂が混んで食いっぱぐれてしまうぞ」
 そうですね、とファルマンは納得し、カタログを置いた。ロイが、余計なことをせずにさっさと出て行って欲しい、と言いたげなのはすぐに判った。それを読み誤るほどファルマンはボケていない。
 「では、失礼します」
 特に気負った風もなくドアを開け、廊下に出たファルマンは、地下の食堂に降りるまでに、件の会社が売りにしているのがアウターではなく、インナーであることを思い出した。種類もサイズも豊富、値段も手頃で、プライベートブランドの評判は上々、女性の間では知らない者はいないと言われるほどに有名な企業だったはずである。
 が、男であるロイには関係ない。もちろん、自分にも関係ないし、用もない。下着を送るような親密な間柄の女友達がいない、という侘しくも寂しい現状もあったが。
 故に、ファルマンは己れが退出した後、ロイが楽しげにカタログを一ページ一ページめくってはそこに写っている女性のあられもない姿を眺めては感心していたことを知らない。
 無論のこと、その三〇分後に執務室のドアをノックしたハボックにもエドワードにも与り知らぬ秘事だった。
 「待ちくたびれたぞ」
 真冬の曇り空よりもと鉛色に打ち沈んだハボックの顔を見て、ロイは詰まらなそうに足を組んだ。
 「少々お時間いただけますか」
 先程とは打って変わって丁寧な言葉遣いでハボックが神妙に口火を切る。エドワードに何を言われたのか知らないが、上手く説得されたらしい。なかなかいいコンビではないか、とロイは内心北叟笑んだ。
 「これから私は昼食に出かけるところなのだが。貴様らはもうすませたのか」
 「いえ、まだ……」
 「だったら、一緒に来い」
 そう言うと、ロイはちらりと時計を見遣り、ハンガーにかけてあったコートを手に取った。
 「どこへ行くんだよ」
 不安なくせに強がっている口調でエドワードが問いかける。ロイはそれを無視した。
 「ハボック、クルマを出してくれ。二人とも付き合え」
 「だから、どこへ……」
 「昼食だと言ったはずだ」
 そう言い切ると、ロイはさっさと執務室を出て行ってしまった。慌てて二人は後を追い、車両部に行ってクルマのキーを出してもらった。
 「『銀の罠』へ行ってくれ。あそこは深夜喫茶だが、昼間は軽食喫茶で、簡単な食事もできるそうじゃないか」
 「はぁ……」
 仰せのままに。ハボックは余計なことは言わずにドライバーズシートに乗り込むと、ロイをリアシートに、エドワードをナビシートに乗せ、すぐさまエンジンを回した。
 東方司令部からピラカンサ通りまで約一〇分。
 その間に、ハボックは今日のロイは午後から代休を取っていることを思い出した。要するに、食事をしたら帰宅するということである。それまでに昨夜の件を片付けておこうと企図しているのだろう。でないと、せっかくの骨休みがフイになる。
 「で、どういう情況だったんだ」
 『銀の罠』に入り、二階のボックス席についたとたん、ロイはいきなり問うた。が、そうなることを承知していたのか、エドワードもハボックも動揺する素振りは見せなかった。
 「俺とエドがここに入ったのは酔いを醒ますためでした。結構出来上がってましたから、ここでコーヒーでも飲んで行こうってことになって……」
 「ここが同伴喫茶まがいのことをやっているということは?」
 「入ってから気がつきました。一階はともかく、二階はアベックだらけでしたから」
 ありがたいことに、ボックス席とボックス席の間は無論のこと、通路とボックス席の間にも移動式のパーテーションが置かれ、カップルが椅子やテーブルの下で何をやっているのかは殆ど見えないようになっていた。
 「『本番はご遠慮下さい』って、二階の入り口に書いてあったぜ。それで、回れ右して出ようかと思ったんだけど、すぐにウェイトレスさんがオーダーを取りに来たから、ちょっとだけ時間を潰そうと思って座ったんだ」
 妙な囁き声に気がついたのは、注文した紅茶を飲んでいた最中だった。不審げに顔を上げたエドワードは、しかし、すぐに同じように険しい表情をしたハボックの視線とぶつかった。
 「少尉、これって……」
 「しっ」
 と、ハボックが耳を欹てる。ぼそぼそと声を潜めているのは、隣のボックス席に座っている者達のようだった。連中はボリュームを下げているつもりだったのだろうが、時々興奮したようにやばい商品の名前を口にし、値段がどうだとか、どういう交渉がいいのか、というような会話を交わしていた。
 「スピードとかメリージェーンなんて単語が聞こえたから、てっきり売人が商売の相談をしてるんだと思ったんだ。メリージェーンってのは、隠語で麻薬のことだろ。スピードってのは、神経亢進剤、つまり覚醒剤の一種だよな」
 「その通りだ」
 一五歳の少年がそういうことに詳しいのは忌むべきことだが、平然と口にしているのはもっと嘆かわしい。ロイは内心の苦衷を敢えて押し殺し、話の続きをさせた。
 「で、少尉がどういう奴なのか見てやろうって、パーテーションの上から覗いて見たんだ」
 ハボックならば、ちょっと背を伸ばしただけで隣のボックスの中が見えただろう。そして、そこにパークロードの息子を含むヘヴィメタ衣装の悪ガキが三人がいたわけである。しかも、何かを確認するように掌サイズの小箱を手渡しにして回していた。
 やばそうだ、とハボックは即座に判断した。このような喫茶店やラブホテルのような客の無名性の高い店が反体制派の集会や犯罪組織の打ち合わせ場所として使われているのは周知の事実で、店自体がその組織のメンバーの手で経営されているという場合もある。「銀の罠」がそういういかがわしい店であったのかどうかは判然としなかったが、ハボックは見過ごせないと思った。
 「エド、憲兵隊本部の場所を覚えてるか」
 「二、三人、連れて来いっての」
 「俺はここで見張ってる」
 「判った」
 店の連中に気取られるなよ、と言い交わし、エドワードはそっとボックス席を離れて階段を降りて行った。
 ここまではよかったのである。そのまま憲兵隊本部に通報し、店に踏み込めば、薬を売買した間抜けな少年達が捕縛され、一件落着となっただろう。
 が、しかし、いつの時にも、番狂わせというものはある。一階のフロアに出ようとした時だった。階段を駆け上がろうと息せき切って来たスキンヘッドの男とエドワードは正面衝突してしまったのである。かなり派手に。
 どんがらがっしゃんと、もの凄い音がした。突き飛ばされたに等しい男が別の客が座っているテーブルにぶつかり、その上に並んでいた皿やカップやピッチャーが床に落ちて割れ、続いて男の怒鳴り声が響いた。
 「何しやがるっ」
 というドスの聞いた声は、二階にまで響き渡った。まずいことに、ヘヴィメタ連中がその声にぎょっとしたように席を立ち上がり、周囲を見回した。そして、軍服姿のハボックに気付いたのである。
 瞬時にして三人は己れの立場を悟った。後で判ったことなのであるが、エドワードがぶつかった男もパークロードの仲間だった。別行動をとっていたらしい。
 ハボックは脱兎の如く逃げ出した三人を追って一階へ降り、そこでスキンヘッドの男に胸倉を掴まれているエドワードを目にしたのである。
 「おい、よせ」
 と、言うが早いか、仲間が血相を変えて現われるのに遭遇した男はエドワードをハボックに向けて投げつけ、そのまま店の外に走り出した。しかし、夜中とはいえ、繁華街である。道行く人は途切れない。少年達は雑踏の中に消えようとしたものの、上手く行かなかった。押し返されるように道端でよろめき、ハボックが一人を取り押さえると、通行人の何人かが手を貸してくれた。
 もっとも、大人しく少年達がお縄を頂戴するわけもなく、力の限り抵抗して暴れた。エドワードも少年の一人を押さえようとしたのであるが、口汚く罵られると同時に、強かに殴られてしまった。
 それを目の当たりにしたハボックがキレてしまった。それでなくとも、酒が入って気が大きくなっていたのである。
 大人しくしないのならば、大人しくさせるまでだ、とばかり少年の顔面を殴打し、文字通り口も聞けないような状態にしてしまった。恐らく、怪我が完治しても、鼻が曲がったままだろう。人相も人生も変わってしまったに違いない。
 この時、ハボックの上衣のポケットから封を切った煙草が一本、滑り落ちた。エドワードがセントラルの近くの町で見つけて、土産として買って来た地域限定の銘柄だった。が、それに気がつかないまま、道路に突っ伏する少年の一人を引き摺り起こすと、ハボックは脅しを込めて言った。
 「貴様ら、どこのグループのもんだ」
 普通、売人というのはシマを守るために複数で活動する。威勢良く己れのグループ名や通称を誇示する者もおり、それが判れば、憲兵達も裏付け捜査がしやすくなるだろう、と思ったのである。が、少年達は怖いもの知らずだった。血の混じった唾をハボックに吐きかけようとし、あくまで言いなりにはならなかった。
 ある意味、骨のある連中だったのであるが、むかっ腹を立てたハボックは少年が身に着けていたワッペンを無理矢理剥ぎ取り、それを証拠品として自分の懐にしまったのである。少年達は同じデザインのものをジャケットのどこかしらに着けていたため、何らかのシンボルマークであることは確かだった。
 「……成る程」
 話を聞き終わって、ロイはため息をついた。
 「で、そのワッペンはどうした」
 「これです」
 と、ハボックが普段は煙草の箱を入れている胸ポケットから黒地に赤と黄色の模様が描かれたワッペンを取り出し、ロイの方へ差し出した。
 「『GHQ』か。総司令部という意味だな」
 チンピラ風情がその名を冠するとは、世も末である。運ばれて来た「今日の定食」を横目に、ロイは軽く首を振った。
 「パークロード少将のご子息が薬の売人をやっている、と貴様は言いたいようだが、それは確かなのか」
 「い、いえ、ちゃんと確認したわけじゃないんですよ。ですから、断言はできないんスけどね」
 「少将の息子はがりがりに痩せていたのではなかったか」
 「あ……」
 と、エドワードが今気付いたように声を漏らす。
 「売ったんじゃなくて、買った方か。覚醒剤を打つと神経が興奮するから、目が冴えて食欲がなくなる。当然、がりがりに痩せちまう」
 「その通りだ」
 この作用を誤解して、覚醒剤をダイエット薬に使うというバカもいる。気がついた時には体も神経もズタズタである。
 「実は、少将にはこう依頼されている。あの息子はもう私の手には負えないから、少年院でも監獄でも、地の果てでもどこにでもやってくれ、私は息子を殴れなかったが、殴ってくれた人物がいることに感謝する、と」
 「親バカなのか、高潔なのか、よく判らない人だな」
 「高潔な人だということにしておいてくれ。……ハボック、貴様のしでかしたことは褒められたことではないが、今回はヤク中患者を取り押さえるためにやむを得ない処置だったということにする。治安維持上、必要な手段として、な」
 しておいてやる、の間違いじゃないのか、とエドワードは思ったが、口には出さなかった。
 「それじゃ、俺の処分は……」
 「憲兵隊本部から事情は聞かれるだろうが、訴追の対象にはならない。私の方に始末書を提出したら、それで終わりだ」
 よかったー♪ とほっと胸を撫で下ろす二人に、しかし、ロイは喜ぶのはまだ早い、という一言を付け足した。
 「ただし、私に隠し事をしていたことに関しては責任を取ってもらうぞ」
 「責任?」
 つい、ハボックの声が裏返る。それへ、ロイは上機嫌に言った。
 「まだ私に黙っていることがあるだろう?」
 「そんな……、全部ゲロしましたよ」
 「鋼の、君のことだ」
 「お、俺?」
 いきなり話を振られ、氷水を飲んでいたエドワードは素っ頓狂な声を漏らした。
 「俺が何したって?」
 「少年四人のうち、二人は顔に怪我がなかった。腕がそこまで届かなかったんだろうな」
 にやりとしたロイに、エドワードが心底嫌そうな顔をする。が、憎まれ口は後回しにして、素直に白状した。
 「判ったよ、言えばいいんだろ。俺がのしちまったって」
 「まだあるだろう?」
 「あー……」
 と、決まり悪くエドワードが言い澱む。
 「そうだな……。少尉がキレるちょっと前、いや、キレた後もだけど、『やれやれ、やっちまえ!』ってさんざん煽ったのは俺だよ。ナチュラルハイってヤツかな」
 それで、ハボックがいい気になってしまった面もある。少年達の負傷具合を改めて聞くまでもなく、正当防衛とは程遠い暴力沙汰だった。
 「要するに、俺も始末書書けって?」
 「もちろん。二人とも、今日中に提出したまえ。それと……」
 と、ロイはここでいったん言葉を切って、息を呑む二人の顔を見た。
 「表立った処分はないが、全くの無罪放免というのも憚れる。よって、私が独自に設定する罰を受けてもらう」
 いいな、とロイの目が有無を言わさぬ迫力で二人に圧し掛かって来た。
 「返事は?」
 「Yes,Sir」
 二人は同時に頷き、否応なく承諾せざるを得なかった。



 そして、その夜、始末書を副官部に提出したエドワードとハボックは揃ってロイの自宅へ直行し、そこで下された罰に絶句することとなった。
 翌日、ファルマンはロイの執務室で見かけたカタログがゴミ箱に捨てられているのを見つけ、ほんの好奇心で拾い上げた。
 誰がつけたのか、インナーのページのいくつかに折り目がつけられており、開いてみるとかなり可愛い系の、恐らくは新婚さん用と思われるレースのフリルがついた白いエプロンがずらっと並んでいた。そのいくつかの商品番号に赤丸がつけられているのを目にしたファルマンは首を傾げた。
 「こんなの、ホークアイ中尉の趣味じゃないよな」
 しかし、捨てられているということは、もう用はないということだろう。ファルマンは元通りカタログをゴミ箱に突っ込むと、提出書類をトレイに放り込み、執務室を出て行った。
 かくて、その夜に起こった出来事を、エドワードもハボックも頑として口を閉ざし、決して他言することはなかった。



了 二〇〇六年二月二五日