ノールテの件
目が覚めると、昼が近かった。日が高く昇り、嫌が上でも己れの寝過ごし加減を知る。昨夜は、宿屋に戻るなりベットに転がり込んで、そのままくたばるようにばったりと寝入ってしまったのである。その後の記憶はない。
どこか霞がかかったような頭を動かすと、まだ乾ききっていない髪の毛が鬱陶しく頬や額に張り付いていた。軍司令部を出る前にシャワーを浴びて来たため、びっしょりと濡れたまま戻って来た己れの姿を見て、アルフォンスがやたらと驚いていたのをぼんやりと思い出す。
そのアルフォンスの姿もすでになく、中央の図書館へ出かけた後のようだった。恐らくは、起こしても起きなかったため、そのままにしておいてくれたのだろう。
が、しかし、この宿屋の一室には、エドワードの他に闖入者と言うべき人物が一人、いつからか居座っていた。
「やーっとお目覚めか」
猫のように大きく伸びをしていると、いきなり近くで声をかけられ、息が止まるほどて驚いた。
「ヒューズ中佐……?」
声のした方に目をやると、サイドボードの脇の壁にもたれた軍服姿の男がにやにやしながらこちらを見ていた。
「死んでんのかと思っちまったぜ。爆睡ってやつだな。ほら、食え」
と、起き上がったエドワードに紙袋が突き出される。
いったいいつ来たんだ、何故ここにいるんだ、という質問よりも先に、つい紙袋を受け取ってしまったエドワードは疑問を口にするタイミングを逸してしまった。
紙袋を開けてみると、中には三角形に切ったサンドイッチが山ほど入っていた。ここに来る途中、そこらの売店で無造作に手当たり次第買って来たのだろう、切り口に青いセロハンが張ってあり、製造元と賞味期限が印刷されていた。
「腹減ってんだろ。どうせ、昨日から何も食ってないんじゃないかと思ってな。調達して来た」
遠慮するなと言いながら、紙コップに入った紅茶を差し出してくれるヒューズに、エドワードはため息をついた。
「全部、お見通しってわけか」
ロイとの情事がばれていないはずがない。いくら昨夜はやり過ごすことができたと言っても、その目をいつまでも欺けるわけがない、と用心深く思いながら、しかし、この手の好意はありがたく受け取っておくことにしているエドワードは袋からサンドイッチを取り出すと、豪快にかぶりついた。卵とレタスにハムが挟まれたオーソドックスなそれは、噛めば唐子がきいてつんと鼻の奥が痛くなったが、構わず飲み込んだ。
何でもいいから、己れの中にこびりつく情欲の残滓を紛らわせて欲しかった。あれ程までに、あの行為が淫靡で生々しいものだとは思わなかった。ハボックとの戯れとは明らかに違う。肌を合わせるなどという生易しい感覚では到底言い難いロイとの交接は、文字通り貫かれ、繋がるという愛戯そのものだった。いっそ自虐的なまでに、あの男の触れた皮膚を引き裂いてやりたくなる。
「ちょっと確認しておきたいんだがな」
「……」
ちらり、とヒューズの方を視線だけで見遣り、エドワードは敢えて頷かなかった。もっとも、相手の反応がどうであろうと、ヒューズは勝手に口を開く。
「昨日、奴と一緒にいたのか」
「……」
エドワードは無視するようにただ黙々とサンドイッチを咀嚼した。言うまでもなく、他者に話すようなことではない。況や、いちいち報告することでもない。酷く億劫で、できれば放っておいて欲しかった。
「俺にまでだんまりを決め込まなくてもいい」
どうせ全部知っているのだ、と匂わせてやり、ヒューズはやれやれとため息をつきながら声を潜めた。
「寝たんだろ、奴と」
「……」
「エド?」
「……」
無言のまま、サンドイッチの残りを紙コップの紅茶で流し込み、エドワードはそっぽを向いた。それ以上、この件に触れるなという意思表示のつもりだったのだが、ヒューズはあっさり無視してくれた。
「そりゃあな、大きなお世話ってのはよーく判ってるぜ。馬に蹴られて死んじまえってもんだがな、しかし、元の情人のやることってのはやっぱ気になるもんなんだよ。別に、奴が誰と懇ろになろうと一向に構わねぇよ。俺が文句を言う筋合いじゃないからな。お前さんに何か仕掛けてやろうってわけでもない。そこのところは判ってくれよ」
言いながら、エドワードの襟首の辺りに触れる。
「キスマーク、ついてるぞ」
「……っ」
殆ど反射的にエドワードが項を押さえ、飛び退るように身を引く。それと同時に、一気に頬に血が昇った。
「な、何しやがるっ」
その慌てふためく姿に、ヒューズは声を立てて笑った。エドワードの余りにも正直な過剰反応は、見ていて可愛らしいほど初々しい。この塩梅では、かなりしつこく嬲られ、さんざん喘がされたのだろう。その様子が手に取るように判るだけに、ヒューズはしばらく笑い続けた。
「まぁ、勘弁してやれ。やっと手に入れた、なんて言って喜んでたんだからな、あいつは」
「誰が何を手に入れたって?」
「ロイがお前さんを」
「冗談言うな」
「何だ、気持ちよくなかったのか」
「そういう問題じゃない。殆ど強姦だったぞ」
真っ赤になりながらもエドワードは乱暴に口元を拭い、ベットから飛び降りた。アルフォンスがかけておいてくれたハンガーから引き剥ぐようにジャケットを取ると、ヒューズを無視するように手早く身につけ始めた。
「おいおい、どこへ行こうってんだ」
まだ話は終わってないぞ、とばかりヒューズはエドワードを手招いた。
「あんたに付き合ってバカやってる暇なんかないんだ。俺は図書館へ行くからな。勝手にそこでほざいてろ」
目上の者に向かって酷い言いざまではあったが、ヒューズは大して気にしない。寧ろ、やっといつもの調子が戻って来たとばかり北叟笑んだ。
「まぁ、待てよ。お前だって聞きたいことが色々あるんじゃないのか。例えば、ロイの腰の刺青のこととか」
「……っ」
びくり、とエドワードが動きを止める。
「見たんだろ、あれ」
「……」
「見たんだな」
確信を持ってヒューズが壁から身を起こし、エドワードに近付く。あの刺青が何を意味しているのか、今更問われるまでもなく、よくよく判っている。エドワードほどの錬金術師ならば、読めて当然の暗号、否、構築式だった。
「聞いてけ。変な誤解されたら困るからな」
背後からエドワードの両肩に手を置き、ヒューズが宥めるように言う。
「最初に言っとくぜ。奴はカルプ・ジンとは何の関係もない。シンパでも何でもなけりゃファンでもない。お前と同じだ。人体錬成の方法を追っていたらぶつかっちまった。それだけだ」
「だったら、どうして刺青なんか彫ったんだ。あれじゃダレルって奴と同じだ。仲間を探してると思われても仕方がないぞ」
「それは重々承知の上なんだがな……」
と、ヒューズは困ったように前髪を掻き上げた。言いにくそうに、それでもあっさりと白状してくれた。
「彫れって言ったのは、俺だ」
「な……っ」
思わず、絶句する。反射的に振り返ると、ヒューズは体裁悪く頭を掻いていた。
「いきさつを聞きたいか」
聞きたいなら、そこに座れ、とベットを指差され、エドワードは戸惑った。長い話になるのは目に見えている。
「いいのかよ。あんただって忙しいんだろ。こんなところで油売ってるヒマ、あるのか」
「今は昼休みだ」
のほほんとして、ヒューズは壁に立てかけてあったパイプ椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。どうやら、簡単には帰ってくれないらしい。
「聞く気はない。あんたらの過去に興味はねーよ」
苦々しくエドワードは首を振り、できるだけ素っ気なく言い捨てた。今はまだロイの求愛を受け入れる気になれない。余りに展開が性急で、戸惑いの方が強い。まだハボックとの別離も納得していないというのに、なし崩しに既成事実を詰め込まれ、抜き差しならぬ関係が成立してしまうのは、厄介事を背負う以上に苦痛だった。が、ヒューズは見逃してくれない。
「いいから聞け。俺からロイを奪って行ったんだ。それくらい判ってんだろ」
だから、義務なのだ、とヒューズは強調した。そんな義理はないと突っ撥ねてやろうとしたエドワードは、しかし、代わりに憎まれ口を叩いた。
「だったら、伸しつけて返してやる。あんな身勝手で強引な奴、こっちからお断りだ」
「悪いが、返却不可だ。よりを戻す余地はないからな。感情の冷めてしまった奴を相手にしたって面白くも何ともない」
「何だ、捨てられたのはあんたの方だったのか。ハボック少尉の話だと、大佐の方が見限られちまったってことだったぜ」
「どっちもどっちだ。ちょうど別れ話の時期が重なっちまっただけで……、いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、座れ」
「……判ったよ」
根負けしたようにエドワードはソファ代わりのベットに腰を下ろした。が、正面から向き合うと、やはり気まずい空気がひしひしと圧し掛かってくる。ロイを挟んで、かつての男と新しい男が対峙するなど考え及びもしなかった。無意識にエドワードはヒューズから視線を外し、できるだけ平気なふりを装おうとした。
「いきさつってのは何だよ」
「お前が軍司令部から借り出して行ったカルプ・ジンのファイルだが、あれには補足の資料があってな、別のファイルに収納されてる。言うまでもなくレベル二にご指定のシロモノだ。それなんだが、そいつを書いたのはロイなんだよ」
「え?」
カルプ・ジンの根城であったスールーという町が住民の手で焼き打ちされたのは、半世紀以上も前のことである。当然、ロイはまだ産まれていない。時間的なズレに、エドワードは首を傾げた。それへ、ヒューズは答えてやった。
「カルプ・ジン本体と直接の関係はない。奴が関わったのは、ノールテの闇カルテルの方だ」
「ノールテ?」
「スールーの隣町だ。どっちも南部じゃ名うての……、いや、国内でワーストワンを争う無法地帯で、治安の悪さはピカイチだったって話だ。地回りの連中がしょっちゅう縄張り争いやってて、血で血を洗うような抗争を繰り返してたそうだ。戦争やるより大量の死人が出たとか、街中に死体がごろごろしてたとかって伝説もある」
「物騒な町だな。しかし、聞いたことのない名前だ」
何より、語感がアメストリスのものではない。外国語のような違和感に、エドワードは首を傾げたが、それを見越してヒューズは説明を入れてくれた。
「スールーもノールテも、我が国の南部地方に正式編入された時点で名称自体が消滅しちまってる。今は別の町名になってるが、旧名で呼ぶ奴もまだ多くて、現地じゃスールーとノールテで通ってる。所謂、通称ってヤツだ」
スールーにはカルプ・ジンのような胡散臭い集団が住み着いていたが、ノールテにはそれに勝るとも劣らない、闇カルテルが支配者として君臨していた。
スールーもノールテも南方の国境に接する町であったため、そこを通る行商人から通行税を徴収したり、自らが交易を行ったりして莫大な利益を上げていたのであるが、それだけに両者の対立は激しく、殆ど内乱かと思われるような騒動も何度か起こしていた。
が、スールーに蟠居していたカルプ・ジンがノールテの闇カルテルの構成員の一人を狩ったことをきっかけにして、例の焼き討ち事件が起こってしまった。直接的には、闇カルテルの報復を恐れた住民がカルプ・ジンの根城を襲撃したのが騒動の発火点となった。
知らせを受けたカルテルの面々は、これを絶好の機会と見てスールーに押し寄せ、侵略者さながら町をさんざん踏み荒らして焼け野原にした挙げ句、怒濤の如く縄張りを広げた。それ以来、スールーは名のみの存在となり、ノールテの搾取を受けることとなった。
当時、隣り合った町や村同士が水争いのような利害関係を突端にして暴力沙汰の諍いをすることは珍しくなく、場合によっては地名が地図上から消えてしまうこともあった。治安制度も警察機構も幼稚であったせいもあるが、地縁としての結束が強く、自分達のことは自分達で解決するという自立自尊、自己救済の考えが一般的だったためである。
「で、この闇カルテルだが、ずいぶんと古くからノールテで商売をやってる連中でな、殆ど領主か名主のような存在だったそうだ。例によって例の如く、表の商売だけでなく、様々な非合法取引きにも関わってたってわけだ。かなり大々的にな。昔は国境地帯にまで手が届かなかったからそんな不法行為も見過ごされちまってたが、現代じゃ通用しない。ってんで、軍が実態を調べることになった。手始めに人口とか地形とかの把握をしようと。が、最初に派遣された下士官は行ったっきり戻って来なかった。一緒にいた通信兵もだ。町に到着する前にどこかへ行っちまった。その一帯の治安も悪かったが、元々経済的に潤っていたせいで国家権力の支配を嫌う風土があったんだな。追跡のため住民を尋問しようとしたら、地域ぐるみで庇い合ってくれたよ。地図を作るってのはつまり、その土地に税金をかけるってことを意味するわけだから、えらく警戒されちまって……。結局は行方不明で捜査は打ち切り。喫緊の要件ってわけでもなし、しばらく調査は中止されていたが、ノールテを通過してアエルゴに出かける予定だった旅行者が消息を絶つ事件が三件連続して起こった。しかも、そのうちの一人は軍のお偉いさんのご子息だった。で、放置できなくなったってわけだ」
「その時、ノールテに派遣されたのが、大佐だったってことか」
「当時は少佐だったがな」
ということは、すでに国家錬金術師の資格を持っていたということである。時期としては、イシュバールの内乱前後といったところだろう。
行方を追っているうちに、ちょっとした事件に巻き込まれてしまったのだ、とヒューズは言った。無視して通り過ぎてしまえばよかったものを、強引に引き込まれ、すったもんだの挙げ句、前にも後にも引けない事態に陥ってしまい、そこから脱出するためにカルプ・ジンの名前を騙ることとなったのである。
「ところが、そこで思わぬものを見つけてしまった」
to be continued 