安全な場所 Safe House








 向かい合った座席の背凭れに凭れてうつらうつらしていたエドワードは、車掌がすぐ近くに来るまで、その気配に気がつかなかった。
 「エドワード・エルリック様ですね」
 そう声をかけられ、はっとしたように顔を上げたエドワードはさして驚くでもなく、猫のように大きく伸びをした。
 「何だよ、俺に何か用か」
 「伝言が届いております」
 車掌の声は低く沈んで、くぐもっているように聞こえた。声を作っているのはすぐに判ったが、正面に座っているアルフォンスに目配せすると、エドワードは何も気付いていないかのように肩を竦めた。
 「誰からだ」
 「申し訳ありません。最後尾の車掌室までご同行願えませんか。そちらでお渡し致します。そうしろとのご依頼ですので」
 「ずいぶんと持って回ったことをするな。ここじゃ渡せらんねーってのか」
 「先方のご意向です」
 しれっとして車掌はエドワードの異議を躱す。いったい何なんだ、と思わなかったわけではないが、それだけのやり取りで、エドワードはこんな面倒なことをする「先方」がどこの誰なのか、見当がついてしまった。
 ならば、余計な抵抗は時間の無駄だろう。
 「判った。あんたについてけばいいのか」
 「はい。ご案内致します」
 車掌が幾分ぞんざいに顎をしゃくる。
 座席から立ち上がった刹那、目深に被った帽子のつばの下から幾分傷んだ金髪が覗いているのが見えた。客相手の職業にしては不揃いで長い前髪だった。
 「伝言の発信源はマスタング大佐か」
 からりと車両と車両を区切る連結部のドアを締め、二人っきりになったところで、エドワードはうんざりと問いかけた。
 「さぁ、どうでしょう」
 がたごとと振動を伝えながら列車は平原を突っ切るように真っ直ぐ走っていた。次の駅まで約三〇分。しばらく、この平坦な道は続く。が、このすぐ先には東部と南部を仕切る第一級河川が流れており、岸から岸まで長い吊り橋形の鉄橋が架かっていた。全長一〇〇m以上を誇るそれは、乗り込んで来る車両をゆったりと待ち構えている。
 「心当たりがあるようですね」
 と、車掌は足を止めると、通路側の窓を背に顔を上げた。向き合って立つと、かなり上背のある男だというのが判る。己れのよく知っている男もこれくらいの身長だったな、とエドワードは思った。
 車掌の背後の車窓からは、遠く金鳳花の咲き乱れる土手が見えていた。群生しているらしく、一面黄色い絨毯のようにも見えるのがいかにも春らしい光景を演出していたが、今はそれを愛でるような気分ではなかった。
 「心当たりってほどのもんはねーけど、こういう強引なことをやりそうな奴は一人しかいないからな」
 「でしたら、自分がどういう立場にあるか、ご存知ですね」
 「いいや」
 すげなくエドワードは首を振った。覚えている限り、この最近は東方司令部に君臨する「大佐」の手を煩わせるようなドジは踏んでいない。スカーの件が収束して以来、連絡も取っておらず、しばらく滞在した中央でも軍令側の意向に逆らうような真似はしていないはずだった。
 が、それ以上に、エドワードは己れの行動に気をつけていた。呼び出しを喰らって嫌味交じりのお説教を頂戴したり、冷ややかな眼差しの集中砲火を浴びたりするのはもうご免だった。
 「さっさとそのメッセージってヤツを見せろよ」
 挑むようにエドワードが言う。それへ、車掌が面白がるように微笑った。
 かたん、と車両が揺れ、心なしか車体が傾いたような気がした。列車が土手を乗り越え、鉄橋に踏み入っただらしい。
 ちらり、と車掌が視線を窓の外へやる。何を見ているのだろうか、と思ったとたんだった。
 いきなり車掌に肩を掴まれて、エドワードはぎょっとした。が、戸惑う間もなく、己れの胴体に強靭な片腕が回され、抱き寄せられた。
 「だったら、覚悟を決めてくれ」
 「何……っ」
 いきなり通路側のドアが引き開けられ、どっと冷たい風が吹きつける。咄嗟に目を瞑ったエドワードの長い髪やコートの裾がばたばたとはためいた。
 と同時に、エドワードは問答無用とでも言うべき強い力で車外へ引き出された。無論、足の下に地面はない。
 「――っ」
 息を呑む間もなかった。エドワードは車掌に片手で抱かれたまま、急転直下、一五m下の河へと自由落下して行った。
 車掌の帽子が吹っ飛び、短く刈られた金髪が見えた。目の醒めるようなスカイブルーの双眸が楽しそうに歪められたのが判ったが、その次の瞬間、エドワードは冷たい水流の中へと呑み込まれた。
 「やっぱりあんたか……っ」
 と、言えたかどうか。その前に大量の水を飲んでしまった。
 エドワードは泳げない。カナヅチなのではなく、機械鎧が重いため、水に浮くことができずに沈んでしまうのである。故に、高所からの飛び込みの衝撃とも相俟って、水の中に潜ったとたん、悲鳴も上げられずに意識が遠のいた。
 その後は、何がどうなったのか全く判らない。溺れたような気がするし、すぐ水面に引き上げられたような気もする。
 はっきりと認識することはできなかった。ぐったりと伸びているうちに何人もの人間がエドワードを取り巻き、手早く動き回って応急処置をしてくれた。毛布に包まれてどこかにび込まれ、ベットらしきマットの上にそっと寝かされたのは、しかし、高飛込みから数時間後のことだった。
 ぼんやりと浮上し始めた脳裏には、しかし、かなり下らないことが思い浮かんだ。
 ――ダイビングはヴァージンを捨てる時に似ている。
 そう教えてくれたのはいったい誰だったか。背中を突き飛ばされるように一気に一線を越え、後戻りできない圧倒的なパワーを感じた刹那、目の前に新しい世界が開ける。後は身を任せて落ちるだけ。
 確かに似ている。一度決死の覚悟で飛んでみれば、何だこんなことだったのか、と躊躇って一歩を踏み出せなかった己れを情けなく思ってしまう。
 そういえば、士官学校では高所からの飛び降りという軍事訓練があり、それによって恐怖心を殺す、否、コントロールする術を覚えるのだとか。兵士によっては己れの恐怖心に勝てず、上官の命令に従わない者もいるため、不適格者を選別するテストにも使われているという。戦場に出れば、命令の不服従は軍規違反であることは無論、自分と仲間とを危険に晒す事態を招くのである。いくら手荒と非難されようと必要不可欠な訓練だった。
 ということは、これを教えてくれたのは軍人なんだな、とエドワードは取りとめもなく思った。思ったとたん、ずきりと疼くような切ない痛みを感じた。
 そうだ、ハボック少尉が言ってたんだっけ、と思い出す。
 「怖いと思うから怖いんだ。怖いと思うなら、それをよーく見てみろ。じっくり見返してやれば、そいつはだんだん正体を現わしてくる」
 とも言っていたな、とほろ苦く唇を噛み締める。つい最近までそんな軽口を叩いていたのに、もう近寄ることも許されない。
 「ん……」
 知らず、反射的に寝返りを打つと、近くにいたらしい誰かの手がエドワードの頬に触れ、張り付いていた金髪を払いのけてくれた。
 その指先の感触には覚えがあった。見た目よりごつくはなく、寧ろ、女のように柔らかで繊細、まっすぐ伸びた指は長かった。銃を扱う者に特徴的なそれを、エドワードはよく知っているはずなのであるが、眠りから醒める直前の夢うつつの状態では現実との境界が酷く曖昧で記憶が混乱している。あり得ないはずの出来事がまことしやかに現実味を帯び、どこからどこまでが想像の世界なのかそうでないのか、明確さを失い、浮遊していた。
 「くそっ」
 そのもどかしさを認識したとたんだった。酷く凶暴な衝動が胸を貫いた。
 己れを宥めるように髪を撫でていた手を掴むや、エドワードは思いっきり胸元に引き寄せた。
 「お……っと」
 と、持ち主である男が戸惑うのが判る。構わずエドワードは倒れ込んで来た体を受け止め、すかさず体を反転させて己れの下に敷き込んだ。
 「おいおい、穏やかじゃねぇな、大将。俺を襲う気か」
 困しゃくれた台詞を皆まで言わさず、エドワードは己れより遥かに大柄な男の腹の上に馬乗りになると上半身を倒し、まるで奪い取るかのように口付けた。逃げられないよう、がっちりと両方の頬を押さえ込んでやると、ため息のような声が漏れた。が、それを無視して、エドワードは強引に男の唇を割り、舌を差し入れて暖かな口内を弄った。
 「ん……」
 観念したように男が吐息を漏らす。鼻先に煙草の香りが掠めたが、余り気にならなかった。男の手がエドワードの背中に回り、抱き寄せるように動く頃には、互いの舌が絡まり合い、顎が交差するほど夢中になって吸い上げていた。
 頭がまだぼうっとする。眠気と夢の断片が払拭されたのだと現状認識するに従い、ずいぶんとあさましい姿になっていることにエドワードは気付いたが、いったん走り出した欲望は止められなかった。
 都合のいいことに、エドワードは全裸だった。恐らくは、びしょ濡れになった服を脱がされてしまったのだろう。が、肌に夜気の冷たさを感じても、ここがどこだか判らない場所であっても、不思議と気にならなかった。
 男がいつも軍服の上衣の下に着ている黒シャツをたくし上げてやると、エドワードは思ったより白い肌に歯を立てる勢いでキスマークをいくつも刻み付けた。
 「エド……っ、お前、こんな……っ」
 「黙ってろよ」
 反抗も抵抗も許さない、という口調で男を制すると、エドワードは軽く立ち上がった乳首をざらりと舐め、臍の辺りまで点々と紅い痕跡を残して行った。
 噛み付くように下衣のジッパーを引き下ろし、大人しく中に収まっているものにも口付ける。
 びくん、と男の体が波打ったのが心地よかった。
 それはまだ柔らかく、眠っているように項垂れたままだった。しかし、そこには凶暴に息衝く蛇がいる。下腹部に大胆に刺青されたそれは、記憶にある通りゆっくりと鎌首を擡げ、触れる者を威嚇しようと怒気を放つ。が、エドワードは根元に手を添えて立たせると、躊躇いもなく先端を口に含み、舌先でしゃぶるように舐め上げた。
 この男の喜ぶことは全て判っている。エドワードは尖らせた舌で鈴口を突付きながら裏筋を指で辿り、付け根にある双球を転がすように愛撫した。ここにまで蛇の刺青が続いており、のたくっているような絵が酷く凶悪だった。
 「この……っ、容赦ねぇな、お前」
 上手くなったなどと褒められたくはないが、舌の感触をわざと残すように竿に舌全体を押し付けるようにして上下させてやると、男が何度も息を詰めるのが判る。嬉しい、否、楽しかった。己れがこの行為の主導権を握っているようで。
 やがて、雄のシンボルは熱く怒張し、口を開けた蛇が挑むようにエドワードの指と手に確かな手応えを寄越した。刺青がむくりと大きさを増したようにも見え、初めて目にした時と同じく、ため息が漏れた。
 「すげ……」
 こんなところに墨を入れたのは、一〇代の頃の若気の至りだったとハボックは言っていたが、何度見ても禍々しくも逞しいシロモノだった。己れの未熟なモノとは比べものにならない。同性として悔しくもあったが、これを自由にできるのだという情欲の引力も強烈だった。
 「いい感じ……。あんたの……」
 と、言いかけ、しかし、エドワードはごく近くで靴音がしたような気がしてびくりと顔を上げた。普通の革靴ではない、鋲を打った、独特の甲高い音には聞き覚えがあった。
 まさか、と思う。が、気付くのが遅かったようである。
 「私の部下を誘惑しないでくれと言ったはずだが」
 もう忘れたのか、と馴染みのある、冷然とした男の声にエドワードは心臓の凍る思いをした。いったい、いつからそこにいたのか。見慣れた紺青色の軍服を身に着けた男がベットから半ば死角になっていたアームチェアに座ってこちらを見ていた。
 「大佐……」
 エドワードがぎりりと唇を噛む。
 「何であんたが――」
 ここにいるのだ、と言い掛け、エドワードは口を噤んだ。今、自分の下にはハボックが寝転がっているのである。列車から強制下車させられた時点で、ロイの意思が働いていたことは考えるまでもなかった。
 「お、俺に何の用だよ」
 そろそろとハボックから身を離し、引きずり出されたままのそれをシャツの裾で隠してやると、エドワードは今更のように毛布を手繰り寄せた。
 「いい恰好だな」
 ぎしりと音を立て、ロイが椅子から立ち上がる。
 「君に重要な話があってここへ呼んだのだが、それより先にお楽しみとは、開いた口が塞がらない。……ハボック、貴様も簡単に流されるのではない」
 「はぁ、すみません」
 どこまで申し訳ないと思っているのか判らないが、さすがに気まずいのだろう、ベットから起き上がるとハボックは手早く身繕いをした。
 「わざわざここまで来た理由を忘れたわけではあるまい」
 言い訳のしようもない醜態にも拘らず、平然とロイは寝台に近付いた。
 「何故、こんなところへ連れて来られたのか判っているのか、鋼の」
 「いや、全然」
 正直にエドワードは首を振った。その肩にハボックがローブをかけてくれた。それでほっとしたのか、エドワードはいつも通りの口調で問いかけた。










To be continued