深遠なる摩擦力
「ちょっと君に聞きたいことがある。このまま一緒に来てくれ」
と、ロイ・マスタング大佐に要請され、久しぶりに東方司令部に足を踏み入れたエドワード・エルリックは、勘弁してくれよ、とぶつくさ言いながらも、弟のアルフォンスとともに執務室へと向かった。
徹夜明けの頭をゆっくり休めてからイーストシティに到着するはずだった列車の旅が「青の団」のトレインジャックに遭遇し、ドタバタの銃撃戦の挙げ句、終結した後となっては、睡眠不足も手伝ってか、ついつい文句も出る。
が、その不平不満を制して、ロイはごくさりげなく切り出した。
「ユースウェル炭鉱へ行っていたそうだね」
「ああ」
それがどうかしたのか、と言わんばかりに、勧められたソファにどっかりと腰を降ろしたエドワードは、コートから手を出すと腕を組んだ。相変わらずの警戒心丸出しのポーズに、しかし、ロイは気にした風もなくトレイの一つから何かの書類を取り出した。
「この人物を見なかったか」
すっ、と抜き取った写真を目の前に突き出され、エドワードは面倒臭そうに視線を落とした。
「知らないな」
一瞥しただけで、即座にエドワードは応えた。
「お前は見たか」
背後に立つアルフォンスに写真を渡すとエドワードは確認を求めたが、しかし、こちらもすぐに首を振った。
「見てないですね。この人がどうしたんですか」
写っているのは平服を着た青年だった。何らかの公式の写真なのだろう、表情から緊張した様子が窺える。
「ユースウェル炭鉱へ向かったという情報を最後に消息を絶ったんだ。そちらで見かけたのなら、足跡が見つかったと思ったんだが……」
「ふーん」
興味なさそうに、エドワードがアルフォンスの手から写真を受け取り、もう一度被写体に目を落とす。年齢は二〇歳前後だろうか。寝癖を無理に梳かしつけたような微妙な髪型が愛嬌だった。顎にぽつんとある黒子が特徴と言えば特徴だろう。
「やっぱり見た覚えはねーな。で、こいつ、何でユースウェル炭鉱なんかへ行くことになったんだ」
あんな寂れたところに。その質問に、ロイは肩を竦めるようにため息をついた。
「実は、先月採用されたばかりの憲兵だ、彼は。今度、憲兵隊本部に赴任してきた特高課の課長がやる気満々の御仁でね、着任早々自分の部下を全員市井に放り込むという壮挙を成し遂げたんだ。憲兵が市井の事情を知らなくてちゃんとした仕事ができるか、市民の生活を体感して来い、ということだな。期限を三日と決めて実行に移したわけだ」
「そりゃまたご大層なことをやる人がいたもんだ」
「兄さん」
慌ててアルフォンスが嗜める。が、どこか嫌味ったらしい態度を、エドワードは崩さなかった。
特高といえば、軍事特別高等警察の略で、一般の刑事警察と違い、思想犯や政治犯まで取り締まる、言わば、秘密警察的なセクトを担当する部署である。本来、憲兵は軍部内の犯罪を取り締まるために設置されてはいるが、軍人が民間人と関係を保ったまま違法行為に手を染める事件もあるため、このようなセクションが必要とされていた。
が、捕縛の対象が軍人だけでなく、民間人にも及ぶことから、一般には余り快く思われていない。かてて加えて、個人の思想や信条にまで干渉してくる輩というのは、どこの世界でも歓迎されない。直接エドワードが特高に目を付けられたことはなかったが、幾許かの錬金術師が研究内容を没収されたり、封印されたりしたという話は聞いている。自由な研究を志す者にとって、特高は目の上のこぶ以外の何ものでもなかった。
もっとも、そんなエドワードの不快さなど一切無視して、ロイは話を続けた。
「その趣旨自体は理解できる。私個人としてはいい考えだと思う。特高は司法警察とも連携して治安維持に当たる部署だからな。市民生活を肌で感じ取るのは捜査上も重要だ。三日後、課員達は汗と泥にまみれて戻って来たそうだが、一人だけ帰還しなかった下士官がいた」
「それが、この人なんですね」
納得したように、アルフォンスが言う。
「そういうことだ。一緒に行動していた同僚の話によると、いい仕事を紹介してやるからと口入屋に誘われて、ある宿舎に泊まっていたら、そのまま監禁されてしまって外との連絡を絶たれてしまった。そのうち仲買人がやって来て、言語道断なことに、単純肉体労働者として売り飛ばされてしまうところだったそうだ。一人は寸でのところで命からがら逃げ出して何とか戻って来れたが、この男は連れ戻されてしまって。何とかユースウェル炭鉱へ連れて行かれたらしいところまでは追跡できたんだが、その後は全くの消息不明だ」
苦笑するロイに、エルリック兄弟は顔を見合わせるしかなかった。
今、あの炭鉱は混乱の真っ只中だろう。炭鉱の利権を握っていたヨキ中尉はエドワードの策略で失脚し、町の連中に袋叩きにされて追放状態である。今後の運営は、権利書を買い取ったホーリングが請け負うことになるだろうが、委譲の手続きはまだ終わっておらず、しばらくごたごたすることは間違いない。
もしかしなくても、そんな町の様子を見て、労働者の補充に来た仲買の業者とやら――恐らくは、ヨキが手配したもの――は途中で引き返してしまったに違いない。別の買い手を捜して元来た道をUターンしたとしたら、エドワード達に咎がないとは言えない。
何となく気まずく、エドワードとアルフォンスは、活気付いて夜通し騒いでいた炭鉱夫達の喜びようを思い出した。
とんだとばっちりである。
「しかし、そうか。見なかったか……」
がっかりしたように、ロイが写真をファイルに戻す。
「今どき、人身売買ってのも驚くけどな」
「そんなものに引っ掛かる憲兵がいるというのは、もっと驚きだ。ここまで本部は人材不足なのかと問い質したいくらいだよ、私としても」
嘆息しながら執務机に戻るロイを横目に、エドワードはこれで用は済んだとばかり、そそくさとソファから立ち上がろうとした。
「それじゃあな、大佐。そろそろ俺達は行くぜ。しばらくはこっちにいるから、何かあったら宿の方へ連絡してくれ」
「もう宿は取ったのか」
「前に来た時と同じところにな」
連絡先は判っているだろう? と言いかけた時、不意にノックの音がした。
「大佐、参謀本部からアグニス大尉が来られました」
ハボック少尉の声に、ロイが頷く。
「入れ。――鋼の、悪いが、もうちょっと付き合ってくれ」
そう言い置くと、ロイはエドワードを押し留めた。
「まだ何かあるのかよ」
「兄さん……」
不機嫌に不貞腐れるエドワードを、アルフォンスが宥める。さっさと退室したいのは判るが、一応上官の前である。ジェスチャアだけでもとればいいものを、舌打ちしながらエドワードは立ち上がりかけた足を行儀悪く組んだ。
「参謀本部第二部のキルリア・アグニス大尉であります」
と、軍人特有のきびきびした声とともに、一人の女性士官が入って来た。黒髪をショートカットにしたその女性は、ロイの前でぴしりと敬礼し、ふと気付いたようにエルリック兄弟に視線をやった。が、すぐにロイへと視線を移し、型通りの挨拶をした。
「バルドーを引き取りに参りました。彼は今どこに?」
「医務室だ。ちょっと怪我をしているので、治療している。それがすみ次第、君に引き渡そう。バルドーの部下達も同様だ」
「ありがとうございます。ところで……」
「ああ、この二人はエルリック兄弟。名前ぐらいは聞いたことがあると思うが」
と、ロイはエドワードとアルフォンスをキルリアに紹介してくれた。どうやら、青の団の捕縛に協力してくれたということで、その存在をアピールしておきたかったらしい。
「エルリック兄弟……」
キルリアは知っているのかいないのか、それとも全く興味がないのか、二人をちらりと横目で見ただけで、それ以上何も言わなかった。
参謀本部第二部と言えば、ずばり情報部である。情報収集からその裏付け、工作や管理まで一手に統括する部署であり、諜報活動の要でもある。知り合っておいて損はない。ちなみに、参謀本部は国家錬金術師と同じく大総統直轄機関で、帷幄上奏権を持つ軍令トップのエリート集団である。
それだけに軍機には最も近いところにいる。特に情報部は、謀略本部と陰口を叩かれるほどに、裏で何をやっているか判らないという裏暗さがあり、ある意味、特殊なセクションだった。
「事件の報告書は、いつまでにいただけますか」
「一両日中にはまとめる。連中の尋問は君に任せるから、詳しい事情は直接聞いてくれ」
「はい」
尋問、と聞いたその顔が、酷く嬉しげに歪むのを、エドワードは見てしまった。獲物を手にした肉食獣とでも言うべきか、思わずぞっと背筋が凍るような笑みだった。なまじ、ホークアイ中尉とは違った趣の整った面立ちであるだけに、切れ長の双眸を細めての意味ありげな微笑は、隠し持っていた欲望をそのまま露呈するかのように淫靡ですらある。
推測するまでもなく、この大尉は筋金入りの尋問官、否、拷問吏なのだろう。どういう手段で被疑者にゲロさせるのかは知らないが、酷く手荒で凄惨な光景がエドワードの脳裏に浮かぶのは止められなかった。情報部という部署からして、あながち的外れではないはずである。
「承知しました。それでは、私はこれで」
「ああ」
と、言いかけ、ふと思い出したようにロイは付け足した。
「ハクロ少将もこちらで治療を受けているが、会って行くか」
それへ、更にキルリアは笑みを深くした。
「そうですね。せっかくですから、陣中見舞いぐらいはしておきましょう」
やはりどこか嬉しげにキルリアが微笑を返し、軍律通りきっちり踵を返すと、執務室を出て行こうとした。
タイミングよく、そこへホークアイ中尉が入って来た。
「失礼します」
「あら……」
と、お互いがはっとしたように顔を見合わせる。次の瞬間には、エドワードがぎょっとする勢いで室内の空気が張り詰めた。
「お久しぶりね、中尉」
「ええ。まさかあなたが来るとは思わなかったわ」
知り合いだというのはすぐに判ったが、どうやらわけありのようだった。からかうように、キルリアが首を傾げる。
「私に会うのは不愉快かしら」
「そうでもないわ」
「まだ二挺拳銃を使ってるの」
「もちろんよ」
当然の如く応えたホークアイ中尉に、キルリアは冷ややかに言い放った。
「最低ね」
「……っっ」
ぎょっと身を硬くしたのは、ロイとエドワード達の方だった。ホークアイ中尉は無表情のままキルリアの驕慢そうな顔を見つめたまま、目を反らそうともしなかった。
「何が言いたいの」
それへ、キルリアは臆した風もなく応えた。
「一流のスナイパーなら、ターゲットを一発で仕留めることを考えなさい。無闇やたらに撃ちまくって無駄弾を使うなんて、ずぶの素人のやることよ。プロの仕事とは言えないわ。あなたのプライドはどこへ行ったのかしらね」
「どういう手段を使おうとも、ターゲットを仕留めることができればそれでいいのよ。一発必中と言えば格好のいいものだけど、成功率が下がったんじゃやってられないわ。戦場で失敗は許されない」
「だったら、せいぜい失敗しないように腕を磨くことね」
キルリアが紅いルージュの乗った唇を不遜に歪める。が、それ以上は反駁しようとはせず、大人しく執務室を退室して行ってくれた。
ぱたんと扉が閉まり、エドワード達はほっと一息ついた。
「俺、今すげー怖いもん、見たような気がする」
「僕もだよ」
「私もだ」
ロイの声はぼそっとしていて聞き取りにくかったが、ホークアイ中尉に聞こえてしまったらしい。くるりと執務机の方へ足を向けると、未だ剣呑な雰囲気をまとう声で釈明した。
「すみません、大佐。彼女とは狙撃兵の訓練で一緒だったものですから、つい……」
「ライバル意識が出るか。そう言えば、成績の順位を争っていたと言っていたな。……それより、どうした?」
「はい、ハクロ少将から伝言です。治療は終わったので、家族と宿舎の方へ戻る、と。後の処理は大佐に一任するそうです」
「逃げたな」
「敵前逃亡もやむなしでしょう」
二人の会話に、エドワードが首を傾げる。
「逃げたって?」
「天敵なんだよ、大尉が。以前、ちょっとした事件があってね」
と、ロイが面白そうに語る。
「あるテロリストの隠匿に手を貸したという人物を大尉が取り調べていた時、ハクロ少将がその様子を視察と称して見物しに来たことがあったんだ。少将にとってはほんの好奇心からだったらしいのだが、尋問室にずかずか入って来て、こいつがそうかとばかり被疑者に触った。それが大尉の逆鱗に触れたんだ」
――貴様、私の獲物に何をするっ。
との、泣く子も黙るような激しい罵倒の声とともに、片手に持っていたスパンキングロッドがうなった。
――このチンカス野郎がっ!
と、廊下にまで響き渡るような声とともに容赦のない殴打が加えられたという。罵声に驚いたロイ以下、数人の士官が駆けつけた時には、常にない修羅場が展開されていた。
「将官クラスの軍人を床に這い蹲らせた尉官など彼女以外、いないだろう。あんな惨めな姿、初めて見たぞ」
「四つん這いになってひぃひぃ言ってましたね」
あんあん言ってたら怖いが。
だいたいスパンキングロッド所持の尋問など、口で諭すような穏当な取り調べをしていたとは思えない。恐らくは、拷問紛いの殴る蹴るの過激な尋問をしていたのだろう。そういう場合、尋問官と容疑者は一対一の真剣勝負になる。
拷問は自白を強要させるのにかなり有効だが、被疑者を怖がらせ過ぎると、あることないこと嘘八百を滔々と並べて喋り出し、どこまでが真実かまがい物か、見分けがつかなくなることが多い。故に、被疑者に苦痛を与えながらも懐柔してやり、一種の信頼関係を築く必要があるのである。
故に、無関係の、それこそハクロ少将のような興味本位でその聖域に入ることは、仕事の邪魔である以上に到底許し難い侵犯行為だったのである。足蹴にされても文句は言えない。
「それ以来、ハクロ少将はできるだけ、彼女には近付かないようにしている。ついでながら、女性に打ち据えられたなんて恥ずかしくて表沙汰にできないから、大尉の暴行は有耶無耶にされてお咎めなしとなった」
「もしかしたら、その辺も計算していたのかもしれません。あれでいて、彼女は冷静な判断で行動してますから」
「まぁ、ともかく大した女性だよ。職務にかける情熱は尊敬に値する。――ところで、鋼の」
「何だよ」
「さっきの件だが……」
「断る」
皆まで聞かず、すかさずエドワードがソファから立ち上がる。
「まだ何も言ってないよ」
「どうせ、もう一回ユースウェル炭鉱に行って、行方不明の憲兵を探して来いってんだろ。やなこった」
「つれないね」
やれやれとロイが肩を竦める。
「こっちはちゃんと引き換えにするものを用意していたというのに」
「何だよ、それ」
興味なさそうに、それでいて好奇心をくすぐられたのか、エドワードがロイを睨む。が、簡単に受け流されてしまった。
「等価交換できるものがあるということだ。この件を引き受けてくれたら、君に披露してもいいんだが」
もったいぶった口吻が気になったが、しかし、何を用意しているのかは気にはなる。それを読んだかのように、ロイは続けた。
「『禁河の書』の写本が手に入ることになったんだ。ずっと閲覧を希望していただろう。君に優先的に回してあげてもいいのだが」
「う……」
「禁河の書」、それは、門外不出の書籍の代名詞のような文献だった。ある地方の領主の家系の者が代々所蔵していた書物なのであるが、内容に著しい問題があるとかないとかで、余人の閲覧を数世紀に渡って拒否し続けていたという曰くつきのものだった。その領主の土地は一本の川で区切られていたため、川を越えての持ち出しを禁じるという意味で、「禁河の書」と呼ばれていた。
原本はさすがに持ち主が出し渋ったため、写本のみ貸し出しという形になったのであるが、それでも内容が判明するならば、目を通したいという者は多かった。これまで全く表に出てこなかった、話だけの本が白日の元に晒されるとあっては、興味を持つなという方がおかしい。
はっきりきっぱり、エドワードとて読みたい。噂では、ウェットな生体の練成ではなく、兵棋上の人工生命体について、基盤となった理論の記述があると言われていたのである。人体練成に繋がる情報ならば、何でもどれでも見ておきたかった。
もっとも、そのような希少性、珍奇性のある文献は、当然のことながら閲覧希望者も多く、いくら貸し出しを希望しても順番待ちとなるため、実際に公開されていても、自分で本を開くことができるのは、半年先、一年先、もっと先になるかもしれなかった。それが優先的に閲覧できるのならば、ありがいことこの上なかった。
目の前に突き出されたエサに、しっかり、エドワードは抗し切れなかった。
「判ったよ。行けばいいんだろ、行けば。ユースウェル炭鉱だな」
「そう言ってくれると思ったよ」
にっこりと笑うと、ロイはホークアイ中尉と目配せをした。
「それでは詳しい説明をしよう。資料を渡すから、一緒に来てくれ」
「俺だけ?」
「アルフォンス君はちょっとここにいてくれ。悪いが、佐官以上の軍人でないと入れない場所に移動しなくてはならないんだ」
「そうなんですか」
アルフォンスがしゅんとしたように肩を落とす。常に行動をともにする兄弟にとっては、互いの立場の違いを見せ付けられる瞬間である。が、物分りよく、アルフォンスはエドワードを見送った。
「じゃあスタッフルームで待ってるから」
「すまねーな」
気にした風もなく、エドワードはロイに連れられ、執務室を後にした。
二人が向かったのは、機密に準じる資料をファイリングしてある書庫だった。確かにここは、佐官以上しか入室を認められていない。
「入りたまえ」
と言われ、エドワードは何の備えもなくドアの向こうへと入って言った。
が、しかし……。
行方不明になっている下士官の名前はギャレット・ワイリー。階級は軍曹。素行はいたって良好で、これまで喧嘩沙汰などの問題行動を起こしたことは一度もない温厚な性格で、特に目立った振る舞いはなく、友人も付き合いもごく普通。一言で言えば、純朴で一途などこにでもいるような青年だった。
それだけの情報をもらうのに、エドワードは酷い目に遭った。
無人の書庫に入るなり、ロイがいきなりエドワードの肩を掴み上げるや、乱暴に壁に叩きつけたのである。
「何すんだよっ」
痛みと驚きで声を荒げるエドワードに、しかし、ロイは全く動じなかった。
「さっきのは何だ」
底冷えのするような低い声に、エドワードは反射的に顔を背けた。バレたか、と瞬時にして悟る。が、素直に認めるタマではない。
「何のこと言ってんだよ」
「惚けるな。さっき、嘘をついただろう? 私が気付かなかったとでも思っているのか。ギャレットの写真を見た時、いや、アルフォンスに写真を渡した時だ」
咄嗟のアイコンタクトだった。ほんの一瞬の意志の疎通を、アルフォンスはしっかりと汲んでエドワードと同じように「知らない」と応えてくれたのであるが、そんな小細工などロイには見破られていたらしい。さすがに、伊達に大佐などやっていない。
「ギャレットに会ったんだな」
その詰問に、エドワードは肩をそびやかした。
「知らねーってんだろ。俺が誰と会ってようが、あんたに関係ないじゃんか」
が、その台詞を言い終える前に、エドワードはロイの平手打ちを受けた。スナップのきいたそれは、音こそ鈍く響いたが、無駄口を封じるには効果的だった。
「関係ないかどうかは私が決める。君の決めることではない。それに、軍の不祥事を見逃すような態度が通用すると思っているのかね」
「不祥事?」
打たれた頬と口元を拭いながら、エドワードがロイを見上げる。
「不祥事だ。たった一人とは言え、下士官を行方不明にしてしまったのだからな。特高課長も頭を、いや、心を痛めている。それを隠匿するのは何故だ、鋼の」
「……」
ぷいっとエドワードがそっぽを向く。どうやら話したくないらしい。反抗的で可愛げのない態度に、ロイは大きく嘆息した。特に自分に不利になるから黙秘しているという損得勘定ではなく、意地のようなガキっぽい感情で口を噤むエドワードに手を焼いたことがこれまで何度あったことか。そのたびにロイはエドワードを手酷く扱った。
「まぁいい。君にはもう一つ確認したいことがある。ヨキのことだ」
「何だよ、今更」
「勝手に追放しただろう? 奴を。君のやったことは、戦時下なら利敵行為と見做されても仕方のないことだ。とても、軍の狗のすることではないと思うが、こちらはどうなんだね」
すでに、ユースウェル炭鉱でのひと悶着は、ロイの耳に入っているらしい。詳しい報告も連絡もしてないはずだが、エドワード達の行動は良くも悪くも周囲の耳目を引く。
言い訳してみろと言わんばかりのロイに、エドワードはかっとなった。
「利敵って、そんな言い方はねーだろ。だいたい、あれはヨキが悪いぜ。軍の権力をバックに鉱山の人達を搾取してたんだ。暴動が起こりそうなくらいやばい雰囲気だったんだぞ」
「だから、それを穏便にすませた君を褒めろと? 冗談ではない。ヨキが握っていた利権が民間人に委譲されたということは、軍が利権を一つ失ったということだ。理由はどうあれ、炭鉱という軍需に直接繋がる資源の供給を絶つような真似は致命的にもなりかねない。この落とし前はどう着けてくれるのだね」
「どうって……」
「少なくとも、我々がヨキを更迭するまで待って欲しかったね。彼の良からぬ行状はこちらでも掴んでいた。収賄に応じた者をリストアップしてそれなりに内偵もしていたのだよ。君はそれを悉くご破算にしてくれた」
「要するに、俺があんたの手柄をかっさらっちまったってこと?」
言い終える前に、ロイの右手がぴくりと動いた。が、さすがにエドワードは顔の前に両手を上げ、降参するように首を竦めた。
「ま、待てよ、暴力反対。だけど、こっちにだって事情があったんだ。それに、あんたから何も聞いてなかったんだから、しょうがねーだろ」
「だったら、マメに連絡ぐらい入れたまえ。こちらからは君がどこにいるか把握できない以上、横取りされる可能性の計算など繰り入れられないのだからな」
「判ったよ、判った。俺が悪かったって。これからは移動のたびに連絡入れればいいんだろ。俺だってわざとあんたの邪魔をしたいわけじゃない」
と、そこまで言って、ふとエドワードは気付いた。
「もしかして、行方不明の憲兵って、この関係で姿をくらましちまったのか。それで、探してる、とか」
「いや、これは本当に偶然だ。ヨキが失脚した後だからな、ワイリー軍曹が消えたのは」
「そうか……」
「だから、余計に気になる。あそこで何が起こったのか。いや、起こっているのか」
「で、調査に俺を差し向けたいわけだ」
弱みに付け込んで、とまでは言わなかったが、含んだような口調に、ロイが憤然と肩を揺らした。
「その前に、ユースウェル炭鉱での一連の出来事を報告書として提出したまえ。一言一句漏らすことなく、詳細に。片言隻句見逃さず、私が直々にチェックを入れてやろう。それで上への弁明にしてやる」
「ありがとさん。嬉しくて涙が出るぜ」
どうやら、逃げ道はないらしい。となると、違法の金の練成も白状しなくてはならなくなるのか。そう思うと、気が重かった。どれだけロイがその手の柔軟性を持っているか不確かではあったが、四角四面の判らず屋ではないはずである。
「では、言いたまえ、ワイリー軍曹とはどこで会ったんだ」
その、確信を持った質問に、エドワードはやれやれと嘆息した。やはり誤魔化しきれなかったか、と思うと、何だか悔しい。
「ユースウェル炭鉱の隣町だ。賢者の石の目星い情報はありそうになかったけど、東部を虱潰しに歩いてたから、一応そこも寄ってみようってことになって、アルと二、三日ぶらぶらしてたんだ。その時に見かけた」
一階以上が宿屋で、地階が酒場兼食堂になっているという店に落ち着き、地図を広げて今後の踏破ルートをアルフォンスと相談していた時だった。
カウンター席でユースウェル炭鉱の話をしている二人の男がいるのに気が付いた。そのうちの片方がギャレット・ワイリーだった。顔の造作は無個性だったが、顎にあった黒子は覚えている。二人の話の内容は断片的だったが、行こうかやめようかと迷っているのは察せられた。
「やめた方がいいぜ」
と、お節介と判っていながら、エドワードは二人に声をかけ、かいつまんで昨日までの出来事を話してやった。
「そうか……」
二人とも残念そうに、否、明らかに困惑し、落胆した表情でがっくりと項垂れてしまった。
「どうしたんだよ。あそこに行けないとまずいのか」
「買い付けに来たんだ、石炭の。あそこは結構質のいい物が掘れると聞いて。ヨキ中尉にも話を通してあったのに……。このままじゃ俺は大損だ」
「炭鉱の利権を買ったおっちゃんがいるから、そいつと交渉したらどうだ」
「いや、それが……。買い付けた石炭はさる人の流通ルートに乗せて売りさばく約束だったんだ。それが中尉の口利きだったから、仲介役が不在となると、物が手に入ったとしても引き取ってもらえるかどうか……」
「別の業者を当たればいいじゃないか」
「ルートを押さえているのが、当地の顔役でね、奴の顔を立ててやらないと、とんでもないことになる。商売の縄張り争いで、先月死傷者の出るような騒ぎがあったばかりだから、余り刺激したくないんだ。それに、俺自身、片方のグループから睨まれてる」
それは確かにまずい。
あれこれやりとりするうちに、この男がビクターという名前だと知ったが、結論としてはエドワードが紹介してやったホーリングに一度会うということとなった。後のことは話し合うなり新たな契約を締結するなりすればどうにかなるだろう。
それでエドワードは二人の前から立ち去り、それっきり姿を見ることはなかった。
「妙だな」
と、ロイは顎に手をやりながら首を捻った。
どう見ても、二人は人買いとその売り物という関係ではなかった。地回りの連中に見つかりたくないから、俺がここにいることは誰に聞かれても黙っててくれ、とは口止めされたものの、犯罪者というには、余りにも平々凡々とした商売人風情だった。
「何か、別の事情があったとか、もっとややこしい事件に巻き込まれたか、そういうことなんじゃねーのか、このギャレットって軍曹は」
「そうかもしれない」
それならば、ますます行方を追う必要がある。
「鋼の……」
「判ったよ、行くよ。行けばいいんだろ」
「今回のようなふざけた真似をしてくれるな。余計なこともするな」
ただ行くだけではダメだとばかり、ロイが釘を刺す。こちらに成果が残る結果を出さなくては何にもならない。エドワードは煩そうに、その傲慢とも言える要求を払いのけようとする。が、それへ、ロイは声を潜めて言い含めた。
「君が私のものだということを忘れるな」
「……っ」
びくりとエドワードは肩をそびやかした。怯えたような、それでいて強気の瞳をロイに向けると、エドワードは無理に声を張り上げた。
「へ、変なこと言うなよ」
「本当のことだろう。それで? どうなんだ?」
ぐいっと体を押し付けて来るようなロイに対し、エドワードは首を振った。
「そればっかしは約束できねーな。あっちで何が起こるか判らないし……」
「では、溢れんばかりの始末書を覚悟したまえ。地位の保全を確認する嘆願書も用意した方がいいかね。用紙なら束になって在庫があったはずだ」
「……ヤな奴」
ロイに聞こえないように、エドワードが呟く。が、これで明日からの行動は決まった。休む間もなくエルリック兄弟は翌日宿を引き払い、ユースウェル炭鉱を目指して旅立つこととなった。
「もう一度、あの隣町の方へ行ってみる? 兄さん」
「そうだな。あの二人はどっか遠くへ行っちまった後だろうけど、行き先ぐらいの情報はとれるかもな。行商人だったら商売のルートはだいたい決まってるし、仲間もいるはずだ」
座席に腰を下ろし、エドワードがうんざりと応える。ロイが関わる仕事にろくなものはない。それは重々承知の上だが、利敵行為とまで断じられ、剰え詰られるのは業腹だった。下手をすれば、国家に対する反逆行為でもある。最高の重罪であることは言うまでもない。さすがにそこまでロイは指摘しなかったが、内偵をしていたのならば、どこかの部署から文句を言われているのかもしれない。
となれば、それなりの責任をとってもいいか、と思う。
列車で移動すること、半日。夕刻になってエドワード達は目的地に降り立った。
どこにでもある田舎町。そんな佇まいのメインストリートとでも言うべき、駅からの通りを歩いていると、躊躇いがちにアルフォンスが口を開いた。
「大佐に言わなくてもよかったの? ギャレットさんから預かってる物があるって」
それへ、エドワードはため息混じりに応えた。
「別にいいだろ。今度戻って来た時にご注進してやっても遅くはねーよ。あの二人もあれをどうこうしろとは言ってなかったし」
そうは言いながら、ロイの不機嫌さを思い出すと、あの場でそんなものを持ち出すのは憚れた。東方司令部がユースウェル炭鉱に対し、どういう動きに出るのか判然としない限り、迂闊な言動は避けた方がよさそうだった。
「やっぱり、ギャレットの失踪とヨキの件は関係してると思うんだよな……」
ロイは否定したが、エドワードはそうぽつりと零した。確かな根拠はなかったが、何となく気にかかっていた。
取り敢えず、以前ビクター達に会った店に行って見ることにして、ともかく二人は今夜の宿を決めるためにも歩く速度を早めた。ぐずぐずしていると、野宿する羽目になる。
運のいいことに、すぐに見覚えのある宿屋が見つかり、ぎりぎりで部屋をとることができた。
「あら、もう戻ってきたのかい」
と、経営者でもある女将が陽気に話しかけて来た。
「ちょっと忘れ物があるのを思い出して……」
適当にエドワードは誤魔化し、さりげなくビクターについて聞いてみた。
「ああ、あの二人ね」
すぐに女将は思い出してくれた。否、覚えていたというより、常連客だったようで、いつ、どこから来て、どこへ行くのか、どこを回っているのか、という細かなことまで親切にも教えてくれた。もっとも、連れのギャレットに対しては、全くの初対面だったらしく、前にも後にも見たことのない顔だと言った。
やはり、ここでも二人はどう見ても旅の道連れという風情で、逆立ちしても人買いと商品という雰囲気には見えなかったという。客商売の長い女将の感想である。その観察眼は信用してもいいだろう。
「妙なことになってきたな」
翌朝、飛び乗った列車の中で、エドワードは欠伸を噛み殺した。
「ビクターは本当に石炭の買い付けに来ただけで、ギャレットは一緒に行動してたにすぎないって感じだな」
「もしかしたら、同行を頼んだのは、軍曹の方だったのかもしれないね」
「そうだとしたら、軍曹は最初から失踪することを計画してたのかもしれねーってことになる」
「何故だろう」
「俺に判るかよ」
不貞腐れたように、エドワードが座席の背凭れに背を預ける。次の目的地まで丸一日かかると聞かされ、気が重くなったせいか、口調が乱暴だった。本来ならば、イーストシティの図書館に篭っているはずだったのである。それをモロに潰してくれたロイに恨みが募っていた。
「兄さん、そんなに怒らないでよ。これでビクターさんの先回りをして捕まえることができたら、事情も判るじゃない」
そうすれば、こんな苛々するお役目もご免である。弟に慰められ、エドワードはますますふくれっ面を晒した。
「上手くいけばの話だ」
「……」
処置なし、と判断してアルフォンスはそれ以上話しかけるのをやめた。こういう時はいくら希望的観測を述べ奉っても受け付けてくれない兄の性格を知らないわけではない。
ともかく、早くビクターに会うことだった。
が、エドワードの苛立ちにも関わらず、その男はいともあっさり見つかった。
石炭や鉄鉱石をはじめとする鉱物の売買を行う交易関係の施設へ向かったところ、その途上でばったりと再会できたのである。
「やぁ、君達は……」
と、ビクターは暢気に二人に話しかけ、施設内にある喫茶ルームへと誘ってくれた。各地を廻る商売人らしく、初対面から愛想のいい顔が、やはりどう見ても人身売買などという裏の世界の仕事と結び付かなかった。
「前置きなしで悪いんだが、前に会った時にあんたが連れていたギャレットって奴、今どこにいるか、知らないか」
いきなり切り出したにも関わらず、ビクターは驚きもせずに応えてくれた。
「南部へ向かったが、その後は知らないな」
「南部?」
「何でも、友人がいるからそこを頼るとか言ってたな」
その言葉に、エドワードとアルフォンスは顔を見合わせた。
友人? 頼る?
それはどう考えても拉致監禁された男の吐く台詞ではない。やはり、ギャレットは自分の意思で身を隠したのである。イーストシティから姿を消したのは、予定の行動だったらしい。
「で、いったいどうしたってんだ。奴が何かやらかしたのか」
「それを、僕達も知りたいんです」
「奴は追われてるみたいだったからなぁ……」
困ったように、ビクターが腕を組む。
「そうは言っても、俺も詳しいことは判らないんだ。奴には、東部から連れ出してくれと頼まれただけで、その目的も何も聞いてなかったからな。ちょうどユースウェル炭鉱に用事があったから、途中まで一緒に行こうってことになって」
「東部にいちゃまずいことでもあったのかな」
首を捻るアルフォンスに、エドワードが横から口を挟んだ。
「ギャレットが憲兵だってことは知ってたのか」
「え……」
ティーカップから紅茶を飲みかけていたビクターがぎょっとしたように手を止める。
「憲兵…なのか」
「新任だけどな」
「そうか、成る程。だからか」
「何がだ」
わけ知りに合点しているビクターに、エドワードが首を傾げる。ビクターはにこりと笑うと、ポケットから一枚の金属片を取り出した。鈍い赤銅色を放つそれは、軍人ならば誰でも身につけている認識票だった。金属の表面には個人を特定するナンバーが刻印されており、それを照会すればすぐに身元が判明するという身分証のようなものである。戦地で死亡した場合は、これを回収して戦死公報を作成し、遺族に届ける。
「これを処分しておいてくれと渡されてたんだ。てっきり退役したのかと思っていたが、現役だったとはな」
処分という単語がエドワードとアルフォンスの心に肉薄する。身分証を捨ててまで身を晦ましたということは、完璧に逃亡兵である。言うまでもなく、軍法会議にかけられる軍規違反だった。任務の途中で逃亡したとなれば、その罪は更に重い。
つまるところ、それほどまでギャレットは追い詰められていたということになる。
「いったい、どういうことだ……」
いったん宿に戻ったエドワードは寝台に寝転び、目を閉じて考えた。
「こりゃ、ギャレットが売り飛ばされたって証言した同僚って奴も怪しくなってくるぜ。追及した方がいいかもな。共犯かもしんねー」
単に、そういうことにしてくれと頼まれただけにしても、納得できるだけの理由がなければ、規律の厳しい軍の中で、逃亡の手助けなどできない。何らかの事情を知っているとしたら、こいつを問い詰めた方が手っ取り早い。
「――成る程」
と、エドワードからの電話を受けたロイは頷いた。
「恐らく、君の推測は正しい。ギャレットは逃亡するチャンスをじっと待っていたに違いない。それを周囲は全く気付いていなかったというのは考えにくいからな」
不穏な言動があれば、全て上司に報告するという厳然としたルールが軍界にはある。律儀にも誰かがその義務を果たせば、ギャレットの計画は即座に頓挫したはずである。恰も、緘口令を敷くように、慎重に、巧みに同僚達を巻き込んだのだろう。
それにしても、そこまでして逃亡しなければならない理由が何なのか、判らない。
「そうだな、それについてはこちらから憲兵隊本部に問い合わせてみよう。例の課長とは顔見知りだからな。それで埒があかなければ、私も動こう」
「あんたが?」
「おかしいか」
電話の向こうでロイが笑う。
「私だってやらなきゃいけない時はやるよ」
「あんたはそんな腰が軽い奴じゃねーだろ」
「何とでも言いたまえ。ではな」
そう言って電話は切れた。
「相変わらず、スカした奴」
受話器を置くと、エドワードは憎々しく零した。ロイと話していると、会話が噛み合わないような苛立たしさを感じる。根本的に相性が悪いというか、気が合わないのだろう。
が、同じく東方司令部で受話器を置いた後のロイの言葉を耳にすることができたなら、更にエドワードは眉間の皺を深くしたことだろう。
執務室の机の上で腕を組むと、ロイはソファの方へと目をやった。
「やはり、彼はアレを持って逃亡したようだ。まずいな。誰かの手に渡る前に阻止せねば」
「そうですね」
と、ソファに座っていた女が口元から煙草を取り、ふうっと煙を吐く。
「エルリック兄弟は、今どこに?」
「ランドットという町に明日移動するそうだ」
「……」
無言で煙草の火を消すと、女はソファから立ち上がり、敬礼もせずに執務室から出て行こうとした。
「キラ、頼みがある」
「何でしょう」
「彼らが何か騒ぎを起こしたとしても、放っておいてやってくれ」
意味ありげな要請に、しかし、アグニス大尉はにやっと笑っただけだった。
ランドットは、東部と南部の境界線上に跨るような町だった。元々あった町の中を横切るように軍管区が設定されてしまったため、町の三分の二が東部で、三分の一が南部という入り組んだ形になっていた。
「ここからなら、さっと南部へ行けるね。そうなったら、東方司令部の軍人は手が出せない」
「軍管区が違うからな」
それだけに、逃げ込まれてしまっては、ややこしいことになる。ギャレットの逃亡はまだ南方司令部へ通報していないため、無断で捕縛などすれば、事情聴取だの何だのと煩わしい手続きの嵐がやってくる。かと言って、南部に応援を依頼すれば、密かに動いている意味がない。
「で、行くの?」
「行くしかねーだろ」
ビクターから渡された紙片をポケットから引き出し、エドワードはそこに書かれた住所と名前を見遣った。
「奴を探すのなら、こいつに会えばいい。ランドットに出入りする人と物の動きを把握しているのは、こいつだからな」
と、ビクターは教えてくれた。商品の流通は、公的なものがあれば、私的なものもある。後者の場合、昔ながらのまとめ役がルートや縄張りを仕切っていることが多い。しかも、表の動きだけでなく、密輸などの不法な取り引きも把握していることもあり、全般的な情況を見張るには打ってつけだった。
駅舎から直接その住所に乗り込もうとしたエルリック兄弟は、しかし、そこに建っている広大で壮麗な邸宅に目を見張った。
「こ、ここかよ」
「凄いね、駅ビルの二、三倍はありそう」
「えらく儲けてんだな……」
しかも、かなり古い。前世紀以前から脈々と続いている家柄だと聞いてはいたが、あながちデタラメではなさそうだった。
遥か彼方に見える花壇の奥に玄関がある。その遥か手前にある門扉にいた守衛に身分を告げ、取次ぎを頼むと、すぐに執事らしい人と会うことができた。
「申し訳ありませんが、主人はただ今仕事に出ておりますので、そちらの方へいらしていただけませんか。場所はお教えします」
そう言われ、エドワード達はまたもや一筆書きの紙片を渡された。
「でも、これって……」
地図の指示する場所へ行ってみると、そこは砂利山とそれを囲む木枠が無造作にいくつも点在する、建設関係の資材置き場だった。
「こんなところで仕事? 全然人の気配がないんだけど」
と、アルフォンスが周囲をきょろきょろと見回す。いったいどれくらいの広さがあるのか、見渡す限りの平地はダブリスの廃工場よりも閑散としていた。
「引っ掛けられたか」
「そうかもしれないね。戻る?」
「仕方ねーな」
と、エドワードが回れ右をした刹那だった。
消音された、空気を切り裂くような銃声が頬を掠めた。
「な、何だっ」
動揺する前に、勝手に体が動く。さっと二人は別方向に飛びすさぶと、砂利山の一つに身を隠し、木枠の影から様子を窺った。
明らかに、エドワードとアルフォンスを狙った銃声は、しかし、かなりの遠距離から聞こえて来た。それならば、弾に当たる確率は低い。低い位置で動き回る標的を狙撃するのは、言われるほど簡単ではない。距離があれば尚更である。威嚇だったのかもしれない。
そう判断して、エドワードは砂利山から飛び出した。
案の定、銃声は酷く間遠に、的外れの方向に聞こえた。よっぽど腕の悪い射手が撃っているのか、それとも本気を出していないのか。どちらともつかなかったが、冷静にスナイパーの場所を探ると、そちらへと視線をやった。
「いた」
ちらりと、ライフルらしい銃を構えた人影が動いたのが見えた。
「一人か」
ならば簡単だ、とエドワードは思った。数m離れた場所に身を屈めているアルフォンスにブロックサインで、自分と同時に走り出すよう指示する。アルフォンスが頷くのを見てから、エドワードは立ち上がった。
スナイパーが一人なら、二つの標的を同時に撃つことはできない。反対方向へ自分達が散開すれば、狙いをつけかね、迷いや隙が生じる。ダブルアクションの銃を相手が持っていないことを祈りながら、エドワードは砂利山から姿を現わし、ひたすら走った。
思った通り、銃声が聞こえなかった。アルフォンスの足音がジグザグを描くように遠回りしながらこちらに近付いてくるのを感じながら、エドワードは資材置き場を抜け出ることにした。
「何だってんだよ、いきなり……」
息を切らしながら、それでも一応背後を窺い、エドワードはアルフォンスを連れて町中へと続く道路へと出た。
「ここまで来りゃ大丈夫だろ」
「そうだね」
いくら何でも、間歇的に自動車が通るようなところでいきなり発砲することはないだろう。
「何て、連中だ」
「僕達のこと、知ってたのかな」
「軍の狗が来たから、始末しようって? 要するに、あいつら、口封じするほどやばいことやってたってことだな」
しかし、土地の顔役ならば心当たりなどいくらでもあるだろう。その中のどれだと思われたのかが問題だった。裏暗い仕事にいくつも手を出しているのなら、ギャレット以外のことで攻撃された可能性もある。そうだとしら、どうしようもなく理不尽である。
「取り敢えず、戻ろうぜ」
出直そう、とのエドワードの言葉に、アルフォンスは頷いた。戻って作戦の立て直しである。が、ふと嫌な予感がして、聞き返した。
「戻るって、どこへ?」
「決まってんだろ」
と、エドワードはしっかり据わった目でアルフォンスに報いた。
「あの執事を締め上げるに決まってる」
「やっぱり……」
どこか嬉しそうにばきばきと指を鳴らす兄の後ろ姿を見ながら、アルフォンスはがっくりと肩を落とした。これでまた派手な騒ぎが起こってしまう。これまでエドワードがこういう台詞を吐いて穏便に物事が解決したことなど一度もない。
そして、その懸念は、全くありがたくないことに、ものの見事に的中する。
数時間後、東方司令部のロイの元へかかってきた電話を取ったハボック少尉は、相手の言葉を聞くや、咥えていた煙草を吹き出した。
「大佐、エドワードがランドットの旧家の邸を半壊させたそうです。現地の憲兵分隊から照会が来てますが、どうしますか。呼び戻しますか」
「いや……」
思わず額を押さえたロイは、しかし、しばらく考えた後、首を振った。
「いくら帰還命令を出しても戻って来ないだろう。すでに乗りかかった船だからな。構わん。鋼のには、好きなようにやれと言っておいてくれ」
「いいんですか」
「旧家の者が何か危害を加えるようなことをしたのだろう。ならば、気の済むまでやればいい。でないと、もっと暴れるぞ」
「先方にそう言っておきます」
凶暴とまでは言わないが、かなり派手好きのエドワードの性格をハボックとて知らないわけではない。それを効果的に宥める方法は限られていた。
「ま、アルフォンスがついてるなら大丈夫だろ」
安穏にそう思う。実際、気性の荒い、否、感情表現豊かなエドワードとはいいコンビだった。
今回もまた、逃げ腰の怯えた執事の襟首を掴み上げる兄を、まぁまぁと押さえるのはアルフォンスだった。
「さっさと言え、いったいどうして俺達を殺そうとしたっ」
「こ、殺そうだなんて滅相もない。私はただ、言われた通りのことをしただけで……」
「誰に言われたって?」
「ご主人様です」
「ここの当主のことか」
言わずもがなだろう。執事はこくこくと頷いた。
更に締め上げてやると、やっと執事は当主が裏組織とも言えるあるグループの長として活動しているという事実を吐いた。どうやら、それを軍に嗅ぎつけられたと思ったようだった。
「そのグループの拠点はどこにある」
「六丁目の『コレット』という店です。そこの地下室が足溜まりになっています。集会場にもなっていまして……」
それだけ聞けば充分である。エドワードは執事を離し、アルフォンスとともに「コレット」を目指した。
もっとも、その店は、所謂盛り場のど真ん中にある酒場だった。風俗店も混じる繁華街そのものの並びにあり、どうやってしても一四や一五のガキが出入りできる雰囲気ではない。
「ど、どーする、兄さん」
「どーするって……、乗り込むしかねーだろ」
さすがに、エドワードの口調も澱む。折りしも、店内では酒場独特の賑やかで猥雑な歓声がひっきりなしに聞こえてくる。ちょうど仕事帰りの男達が一杯やりに来る時刻だった。娼婦兼用の女給を侍らせて札束を切る客もいるのだろう、華やかな嬌声も聞こえてくる。
「裏口に回ろう」
そこから地下に入り、じっと待っていればそれらしき人物も現われるのではないか、とエドワードは期待した。
普通、店舗の裏側は厨房の出入り口になっている。コレットも例に漏れず、裏口らしき扉の前には生ごみを入れてあるらしいポリバケツがいくつも置いてあった。
その影に身を潜め、そっと二人は開けっ放しになった窓の向こうを窺った。
「人数はそんなにいないみたいだな」
「食べるより、飲むところだからね」
ひそひそと話していると、やがて、がちゃりと音がして扉が開いた。反射的に頭を低くする。
「それじゃ、俺はこれで」
という陽気な声が聞こえる。どうやら、上がりの者が出てきたらしい。
「お前は、ここで待ってろ」
早口でそう言い捨てると、エドワードはドアが閉まる直前に男の背後をかい潜るように厨房の中へと入って行った。
その後、エドワードがどうやって地下へと侵入して行ったのか、どうやって探索したのか知らないが、アルフォンスが大人しく待っていると、やがて地鳴りのような轟音が足元で起こった。
「また何か壊したかな」
賠償請求が来たらどうしよう、口座を封鎖されてしまうかな、などと暢気なことを考えていると、エドワードの怒鳴り声が聞こえて来た。
「おら、さっさと来いっ」
多々羅を踏む音、何かにぶつかる音、食器かガラスが壊れる音、厨房の何も知らない従業員の悲鳴や怒号。
「あーあ……」
また派手な暴力沙汰になってしまったらしい。
程なくエドワードは一人の青年を引き摺るようにして厨房の扉を蹴り開けた。よく見るまでもなく、ギャレットだった。
「アル、引き上げるぞ」
いくぶん息を切らし、それでも疲れた様子の見えないエドワードがアルフォンスを促す。
「引き上げるって、どこへ?」
「あそこだ」
言うなり、エドワードはよろめく青年の襟首を掴んだまま通りへとどかどか歩いて行った。
行き先は、例の砂利山だった。ここならば人目にはつかない。さすがにこの暗闇ではスナイパーもいなくなっているだろう。赤外線スコープはまだ存在していないし、GPSもこの時代にはまだない。
「ふざけたことやってくれたな。探したぞ」
言うなり、エドワードはギャレットの体を地面に突き放すように投げ出した。見かけの割りに腕力のあるエドワードの所作に、青年は驚いたようだった。
「き、君達はいったい……」
「通りすがりの国家錬金術師だ。理由あって、あんたの身柄を拘束する」
「……っ」
はっとしたように、ギャレットが身を起こす。逃げようとしたその片足を、エドワードはこともなげに薙ぎ払った。呆気ないほど簡単に、ギャレットは地面に転がった。
「み、見逃してくれ、俺はまだ死にたくない」
「別にこの場であんたを殺そうなんて思ってねーよ。俺はあんたを捕まえて来いって言われてるだけだからな。あんたの処分は憲兵隊本部がやってくれるんだろ」
「その前に口封じされてしまう」
そう言うと、パニックに陥ったようにギャレットはもがきながらに立ち上がり、エドワード達からできるだけ離れようとした。もっとも、すぐに足をもつれさせて転んでしまった。その無様な様子に、エルリック兄弟は互いに肩を竦めるしかなかった。
「だから、落ち着けよ。俺達は殺し屋じゃねーってんだろ」
「それよりも、聞きたいことがあるんです。こんなところに隠れてるのは、わけがあるからなんでしょう?」
「あ、ああ……」
周囲に自分達三人しかいないと判ると、いくぶん頭が冷えたのか、ギャレットが地面にへたり込んだままエドワード達を見上げる。
「だったら、頼む、見逃してくれ。俺は、明日には南部へ抜けられる手筈になってる。あんた達には迷惑をかけないから、頼む」
拝むようにして懇願され、エドワードとアルフォンスは困惑した。
「見逃せって言われて、はいそうですかってできねーのはあんたが一番よく知ってるだろ。逃亡兵扱いなんだぜ、今のところ。いくら東部から逃げたって今度は南部の連中に追われるぜ」
「いや、すぐに国境を越える。そこまでは連中も追っては来れない」
その一言に、二人は仰天した。南部戦線がどれだけ緊張し、生々しい戦場になっているか、軍人ならば知らないわけがない。そこを越えて外へ出れば、どうなるか。
「あんた、国外逃亡するつもりだったのか」
「それは危険……じゃなくて、そこまでする必要があるんですか」
「あるんだ」
ギャレットは体勢を立て直すように胡坐をかいて座ると、やっと冷静に話し始めた。
「俺は見てはいけないものを見てしまった。あれじゃ殺生与奪件を握られたも同然だ。チクショウ、連中の言いなりになるのは死んでもご免だ」
「そのわりに、死に急いでるようなことやってるぜ、あんた」
「あのままじっとしていても危なかった。それなら、自力で逃げ延びる方法を探った方がまだマシじゃないか」
それもそうである。つい納得してしまったエドワードは、しかし、聞き返さずにはいられなかった。
「何を見たんだ」
エドワードが片膝を折り、ギャレットと視線を合わす。それへ、青年はあっさりと白状した。
「ブラックリストだ」
「何の」
「つまり、特高が握っている情報を基にした、軍内部の反主流派、もしくは思想的に問題のある者。大総統の地位を脅かそうとする可能性のある者。そういう危険分子のリストだ。上級、下級に関わらず、な。ごく少数だが、民間人の名前もあった」
「何だって……」
エドワードが眉を寄せる。軍が決して一枚岩ではなく、様々な派閥や出身、力関係などの権力構造で形成されていることは周知の事実だったが、それが致命的な対立になったという話はまだ聞いたことがない。深刻化する前に分裂、消滅させるという上層部の策が比較的上手くいっていたからである。
しかし、軍界内で不満らしい不満を上げる者をわざわざリストアップしているということは、粛清でも行われるのではないかという不安を煽る。
単に公職追放のような処分が下されるのならまだしも、流血を伴う強制的な排除となると、穏やかではない。
「まさか、あんたそのリストを持ち出したなんて言うんじゃねーだろうな」
「そのまさかだ」
開き直ったのか、ギャレットは躊躇いもなく認めた。
「そんなことして、ただじゃすまないぞ」
「だから、逃げたんだ。危ないって言っただろ。この情報をしかるべき組織に渡せば、その見返りとして身の安全を保証してくれる。俺はまだ死にたくない」
きっぱりと言い放つ台詞に、エドワードは絶句した。そんなことをしたら、余計に軍に命を狙われるのではないか。地の果てまでも追いかけて来て、何が何でも抹殺されるに違いない。各司令部にはそういう追跡の部署もあると聞いている。
「いくら死にたくないってもな……、それはちょっとやり過ぎなんじゃねーか。そう上手くコトが運ぶと思ってんのか」
「そうですよ。そんなものを持って国外へ出たら、国家反逆罪になります。言い訳はできませんよ。一生、国には戻れないし、絶えず軍に追われる生活になる。そうなってもいいんですか」
「覚悟の上だ。こんなところで犬死しろってのか。それよりは一矢報いてやる。このリストは爆弾みたいなもんだ」
「心意気は立派だがな……」
破天荒すぎる。余りに破れかぶれの言い分に、エドワードとアルフォンスは顔を見合わせた。逃亡の最中に自暴自棄になるようなことでもあったのだろうか。
「まぁ、落ち着こうぜ」
ため息をつきながら、エドワードがギャレットの肩をぽんぽんと叩く。このままギャレットの居所をロイに通報して連れ戻すのは簡単だったが、それでは余りにも芸がない。抵抗する者を無理矢理押さえつけても、また同じことをするだろう。
「さっきも言ったように、俺達はあんたを殺しに来たんじゃない。事情があるなら聞くつもりだぜ。俺は軍属って言っても司令部に上司がいるわけじゃない。国家錬金術師は大総統の直轄だ。直接命令できるのは、大総統だけ。もしくは、権利を委譲された奏任官。だから、東方司令部の意向は関係ねーよ。今回のこれはボランティアみたいなもんだ」
軍令を中心とする命令指揮系統とは別のラインに属しているのだ、と示唆しながら、エドワードはギャレットの前に腰を降ろした。背後でアルフォンスも膝を折る気配がした。
「ブラックリストを見たからってすぐ始末されることはねーだろ。見たことを忘れる、口外しないって誓約書を提出すればすむことだ。どうして逃亡する羽目になったんだよ。理由があるんだろ」
「あ、ああ……」
問答無用で捕縛される危険性がないと悟ったのか、ギャレットの表情が戸惑ったように緩む。警戒を解いたわけではないが、幾分ほっとはしたようだった。
「俺がそのリストを見たのは、三日間の市井調査の半月くらい前なんだ。見たというより、見せられたと言うべきだな。俺の他にもあと何人か、見せられた」
「見せられた? 誰に?」
「特高課の課長だ。俺の上司」
「ああ、あの……」
今回の市井調査を自ら立案した新任の憲兵少佐である。いや、課長になって進級したと、出発前に聞いたから、今は中佐だった。
「何で、そんなことをしたんだ」
「俺達を特工にするつもりだった」
「特工ってのは、特殊工作員?」
「いや、特務工作員の略だ」
そう言われても、ぴんとこない。エルリック兄弟は互いに首を捻った。それに苦笑しながら、ギャレットは説明してくれた。
「アドホックな組織だからな。そういう名前の部署があるわけじゃない。必要があればその都度、メンバーが指名され、召集される。終われば、即解散だ。元々、独裁者が邪魔者を黙らせるための、要するに、国家が認めた斬り捨てご免の制度だ」
「切捨てご免?」
ますます判らない。国家が不都合とする者がいれば、特高なり警察なりが動けばいいことであって、その他の制度がまだ必要なのか、と疑問に思う。それへ、ギャレットは恐ろしげなことを言った。
「特高も警察も表の組織だ。被疑者を逮捕したら、公開で処断しなければならない。軍法会議だって情報は公にされる。しかし、世の中には表沙汰にできない事件もあるんだ。それを秘密裏に始末したい場合、目障りな者を闇に葬りたい時、この特工が暗殺という形で消してくれる」
つまり、軍政界にとって都合の悪い事態を公表せずに口封じするためのセクトである。斬り捨てご免というのは、言い得て妙だった。
「そんなこと、本当にやってんのか……」
信じられない、とエドワードがアルフォンスに視線を向ける。アルフォンスも初耳のようだった。
「やってるんだ。しかし、その存在自体が秘密にされているから、誰がそのメンバーなのか、リーダーなのかは、軍界でも少数の者しか知らないはずだ」
「それじゃ、あんたの持ち出したブラックリストってのは、近い将来、暗殺する人物のリストってことになるな」
「その通りだ」
それは、政治上の粛清よりも性質が悪い。粛清は、一応その理由が国民に提示され、説明される。しかし、斬り捨てご免では、その機会は永遠に訪れない。容疑者不明、ことによっては身元不明の殺人事件として片付けられてお仕舞いである。もし、誤認だったとしても、その名誉の回復が行われることもない。
「俺は、そんな暗殺者にはなりたくない。会ったこともない人物を問答無用で殺せると思うのか。いくら何でも無理だ。まともな神経じゃない。それに、場合によっては、自分の同僚や後輩すら手にかけることもあるかもしれないんだ。連隊の訓練で一緒に行軍して助け合って、同じ釜の飯を食って、一緒に夜通し騒いで酒を酌み交わした連中を、任務だからと言って手にかけられると思うのか。俺には絶対できない。父親のように面倒を見てくれた連隊長だってそうだ。それを考えたら、怖くて……」
「だから、逃げたのか」
「……」
ギャレットが無言で頷く。確かに、それでは逃亡兵となってもいいから脱走したいと思ってもやむを得ない。敵兵を殺害することには容赦がなくても、友軍を攻撃するのは、誰しも躊躇うことだろう。しかも、それが私的な理由ではなく、軍の一方的な命令だったとしたら、余りにも理不尽である。
もっとも、こんな真似をしなくてはならないのは、政治がよろしきを得てないからだと言える。現政府を批判するほどエドワードは政治力学に通じてはいなかったが、国情が絶えず不安定に揺れ動いている根本的な原因くらいは知っている。
イシュヴァールの内戦に始まるオーバーキルと言われても仕方のない戦略が破綻を見せ始めているのである。
何事も、力ずくでの対処では解決できない。特に、ゲリラやレジスタンスの類は根絶することができない。ほぼ不可能と言ってもいいだろう。必ず支援する輩がいて、それは市井に潜んでいる。そんなシンパを片っ端から検挙していたら、人口が半減する。
「俺は、人の命を弄ぶことはしたくない」
低く、独白するように、ギャレットが呟く。その台詞に、エドワードとアルフォンスはどきりと胸を衝かれた。
「なに……」
「誰かが言っていたな。命を軽んじる者は、自分も誰かに命を弄ばれている、と。特工なんて、欺瞞だ」
それが判らないのか、といきなり突きつけられた命題に、二人は言葉を失った。人体練成は、まさにそれそのもの。弄んだつもりはなかったが、結果的にそうなってしまった。それはどう言い訳しても否定できない禁忌だった。
「兄さん……」
どうするのだ、とアルフォンスが窺うように尋ねる。ロイに引き渡してしまえば、先は見えていた。とかく、軍は裏切り者を許さない。ギャレットの命はエドワードの手の内に握られている。
「あんたの言い分は判った。だけど……」
「俺を連れ戻すのか」
ギャレットが半ば諦めたような口調でエドワードを見る。
「その前に教えてくれ。そのリスト、もう先方に渡しちまったのか」
「いや、ちゃんと持っている。切り札みたいなもんだからな。リストは南部に抜けてから渡す手筈になってるんだ」
「渡す相手は?」
「コレット」
さっきの酒場の名前じゃないか、と問い返そうとしたエドワードは、しかし、すぐにそれが組織の名前だと悟った。店の名前をカモフラージュにして活動しているのだろう。
「あの旧家の当主がボスなのか」
「そうだ。地元の顔役だからな。かなり広範囲に顔が聞いて、あちこちに拠点を持っている。南部よりもっと南方の土地にもな」
「それは……」
「誤解しないでくれ。決して反社会的な組織じゃないんだ。れっきとした商業ルートを駆使して活動している、言わば、貿易商人の共同体だ。口の悪い連中は闇カルテルとかマフィアなどと言っているが、不法なことはしていない」
だから、思想的にも信条的にも、無論、ビジネス的にも問題はなく、テロリストのパイプ役なども一切やっていない、とギャレットは強調して説明した。それは信用してもいいだろう。自由な交易まで国家は制限しない。経済活動が停滞してしまっては、国力の衰退に繋がってしまう。だいたい、金がなければ、戦争はできないのである。
「あんたは国外に出たらそれっきり、こういう軍に関わるような、きな臭いことにはタッチしないつもりなのか。つまり、リストを盾にして大総統に歯向かう用意をするとか、外から交戦を煽ったりするとか、そういう……」
「きな臭いことはしない。絶対に。俺はできるだけ軍から離れたいんだ。コレットともこれっきり接触することもないだろう」
その場限りの嘘とは思えなかった。エドワードはしばらく考えた後、呟くように言った。
「だったら、決まりだな」
言下にエドワードは立ち上がった。ズボンについた土をぱんぱんと払い落とすと、アルフォンスに顔を向けた。
「戻ろうぜ、あのクソ当主のところに。交渉する相手はどうやら、あっちのようだ」
「兄さん、大佐への報告はどうするの」
エドワードの意向を汲み取り、アルフォンスが慌てて手を振る。言葉尻から、ギャレットを連れ戻す意図のないことはすぐに察せられた。
「間一髪で逃げられちまったってことにしておくぜ。別に、俺がトチったってお咎めがあるわけでなし」
始末書は書かされるだろうが、とエドワードは笑う。いや、査定に響くかもしれない。が、後のことは後で考えればいい。
「行けよ。俺はあんたに会わなかった。そういうことにしとけ」
「あ、ああ……」
当惑の表情のまま、それでもギャレットは腰を上げると、そのまま背を向けて走り出した。どこに身を隠すのかは知らないが、今日と明日逃げ切れば、取り敢えず、命は助かる。
ざくざくという足音が聞こえなくなってから、エドワードとアルフォンスは砂利山を後にして、来た道を戻ることにした。
「あーあ、骨折り損のくたびれ儲けだな」
「仕方ないよ」
いつものことである。もう慣れた、とアルフォンスが肩を竦める。
「しかし、つくづく実感するよな。軍ってのは、人の命なんざ何とも思ってない。戦場でがんがん殺しまくってるうちにおかしくなっちまうのか。そういう感覚が麻痺しちまうって聞いたことはあるけどな」
「よく判らないけど……」
「ま、考えても仕方ないか」
自分達とは違う世界に住んでいる人々なのだ、と無理に思い込む。埒もないことを言い合いながら、二人はその場を離れ、夜の闇の中へと消えて行った。しばらくは少年らしい甲高い声が聞こえていたが、すぐに聞こえなくなった。
砂利山の敷地はシンと静まり返り、元の無人の場となったが、しかし、その片隅にある倉庫の影からそっと身を起こした人物がいた。
「ふーん」
と、腕を組んだまま、面白そうに鼻を鳴らす。
そして、ギャレットの消えた方向を見定め、ゆっくりと歩き出した。
もったいぶってやった方がいいだろう、とのエドワードの意向で、ロイへの電話連絡は翌朝の、かなり遅い時間になった。
「……って、わけで、一歩遅かったみたいだ。ここから先は南方司令部の管轄になっちまうな。どうする? 俺から一言言っておこうか」
もう国外に出てしまったかもしれない、という状況を匂わせるその惚けた台詞に、案の定、ロイは不機嫌な声で報いた。
「いや、いい。事情は判ったから、引き上げてくれて構わない。後はこちらで手配する。準備ができ次第、君達は戻って来てくれ」
「戻るのかよ、そっちに」
「当たり前だ。これでも君の行動に責任を負う立場なのだよ、私は」
ついむっとするが、仮にも命令授与者である。取り敢えずイーストシティへ帰還すべく、エドワードはアルフォンスに切符を買うよう指示した。もっとも、時間稼ぎのため、ずるずると過ごしたせいで、東方司令部のロイの執務室のドアをノックしたのは、それから二日後のことだった。
「要するに、任務に失敗したということだね」
エドワードの差し出す報告書を一読し、ロイが盛大にため息をつく。
「残念だよ」
「仕方ないだろ。管轄外なんだし……」
不貞腐れたエドワードに、しかし、ロイは意外な台詞を吐いた。
「本当に残念だ。君は売国奴を取り逃がしたのだからね」
「売国奴?」
ぎょっとするような単語に、エドワードはどきりとロイの方を見遣った。背後でアルフォンスがはらはらしているのが判るが、しかし、口出しはしなかった。
「ギャレットは持ち出したデータを『コレット』に売るつもりだったのだ。『コレット』は国外のテログループとアマルガムで結び付いているからな、あっという間に大事なリストは流出して海の彼方にまで広がってしまう」
「や――」
「売国奴以外の何だというのだ」
ぴしゃりと決め付けられ、エドワードは歯を食い縛った。
「コレットはランドットの商人達の団体なんじゃないのか。何でも寄り集まっていたら、即テロリストだとでも言わんばかりの言い方するなよ」
が、その抵抗を、ロイは苦もなく捻じ伏せた。
「コレットは、そういう皮を被ったテログループなんだよ。疑うなら、これを見たまえ」
そう言うと、ロイは側の書棚から一冊のファイルを取り出し、所定のページを開いてエドワードに突きつけた。
引っ手繰るように受け取ると、エドワードはアルフォンスと二人で中身を確認し、すぐに我が目を疑うこととなった。コレットは商業ルートを利用して密輸を常習的に行っている国際テロリズム組織の一団だったのである。数年にも渡る監視報告といくつもの物証の提示がそれを裏付けていた。アマルガムの事実があるとすれば、青の団より遥かに性質が悪い。
テログループは単独で存在している間はさして恐ろしくもないが、別のグループと結び付くと、組織的なバックアップを得て活性化する。しかも、アマルガムとは、本来別々の金属を融合させる現象を意味するが如く、全く異質な主義主張を唱えるグループが結び付くことをいう。相容れないポリシーを持つグループが理解し合えるはずはないはないため、その接点は、唯一テロリズムという非合法手段によると言われている。
結果、テロの肥大化と国際化を招く。そうなれば、取り締まりは酷く難しくなるばかりか、手に負えなくなる。特に、商業ルートを利用するとなれば、マネーロンダリングの役割を果たすとも考えられ、資金の流出という甚大な被害をも発生せしめる。
経済的な打撃も、立派なテロだった。
「そんなバカな……」
「納得したか」
「……」
「さて、この始末、どうつけてくれるんだね」
執務机の上に、ロイが組んだ手を載せる。その仕種に、エドワードは息を呑んだ。
これは、まずい。
非常にやばい。
口先三寸で誤魔化し切れる事態でないことは容易に察せられた。元より、ロイにそんな小手先の小細工が通用しないことは、数日前の詰問で身にしみている。
言うべき言葉を必死で探すエドワードを横目に、ロイは平然と、しかし、有無を言わさぬ口調で言った。
「アルフォンス君、申し訳ないが、君は席を外してくれないか。ここから先は、鋼のと二人だけで話したい」
「え……、でも……」
エドワードに何か危害でも加えられるかもしれない、とでも言いたげな様子で、アルフォンスが躊躇う。その不安はよく判るが、機密に関する事項に部外者を交えたくない、というのがロイの本音だった。
「ハボック少尉、アルフォンス君をスタッフルームへ案内してあげたまえ。私が呼ぶまで、ここには誰も入れないように」
「はっ」
扉の近くにいたハボックが応答する。上官の命令は、絶対だった。
「悪いことは言わないから。アル、行こうぜ。大丈夫だって」
そう宥めるように言い含め、ハボックはアルフォンスを執務室から連れ出した。多少逡巡したものの、結局は立ち去らざるを得なかった。
ぱたん、と扉が閉まり、エドワードはらしくもなく心臓の鼓動が不用意に高鳴るのを押さえられなかった。自分は今、ギャレットと同じ立場に立っているのである。その事実が、思ったより酷いプレッシャーとなって肉薄していた。
が、それを揶揄するような台詞を、ロイは吐いた。
「安心したまえ。機密は守られた」
「何?」
顔を上げると、ロイが一枚の写真を封筒から取り出すところだった。指先で目の前に突き出され、エドワードはそれを目にすることとなった。
「……っ」
瞬時にして、息を呑む。
そこに写っていたのは、一人の青年の射殺体だった。頭部を撃たれ、血塗れで力なく地面に横たわった姿勢でも、その相貌は識別できた。否、はっきりと確認できるよう撮影したのだろう。動かぬ証拠として。
「ギャレット……」
光の入り方からして、夜明け前に殺害されたようだった。要するに、ギャレットはエドワードと別れてから数時間しか生き延びられなかったのである。
「あんたがやったのか」
きっとロイを睨みつけ、エドワードが問い質す。が、ロイはうっすらと笑った。
「私はずっと司令部を離れなかったんだよ。列車で半日以上かかるランドットへ、どうやって行くというのだね」
「じゃあ、刺客を放ったのか」
ロイの机に手を突いて身を乗り出したエドワードは、しかし、そこまで言ってはっとした。ギャレットの言っていた「特工」という単語が頭を過ぎる。人知れず、不都合な人間を始末するというのは、こういうことなのではないだろうか。が、ロイは取り合わなかった。
「刺客というのは、また穏やかじゃないね。そんな面倒なことはしない。……それよりも、鋼の。人のことより、自分の心配をしたらどうだ」
脅しにも似た問いかけに、しかし、エドワードは昂然と胸を反らした。
「俺とアルを告発するってのか」
やれるものならやってみろ、と言わんばかりの態度に、ロイは鼻先で笑った。
「早合点するな。君と取引きしたいと言っている」
「取り引きだと?」
すっかり喧嘩腰で、エドワードが応える。もうどうにでもなれという気分が湧き上がってくる。自分は逃げられないのである。
「ギャレットから預かっているものがあるだろう。それを渡したまえ」
それへ、即座にエドワードは首を振った。
「ねーよ、そんなもん」
「本当か」
「ないって言ってんだろ」
それとなく視線を反らすエドワードの所作に、ロイは困ったように椅子から立ち上がると、机を回り込んでエドワードの前に立った。
「正直になった方が身のためだぞ、鋼の。彼から、何か預かっているだろう」
うんと言わなければ、取り引きができない、それでいいのか、とロイが言い募る。エドワードは唇を噛んだ。
「それを手に入れて、あんたはどうするつもりなんだ」
「どうもしない。私は、流出した情報を回収するだけだ。アレは君が持っていても何の役にも立たない。まさか、どこかの誰かに売り渡すつもりではあるまい」
ギャレットと同じように。言外の唆しに、エドワードは大きく肩を揺らした。
「あん――」
と、何か言いかけたエドワードの言葉を制するように、ロイが口を開く。
「それとも、君が軍を脅迫する材料にでもするかね」
「じ、冗談じゃない」
慌ててエドワードが首を振る。いくら目的のためには手段を選ばないと言っても、そんな危ない橋は渡らない。誰かを脅すということは、それと同等、もしくはそれ以上の報復があることを覚悟しなくてはならないのである。さすがにそこまでエドワードは無謀ではなかった。
「……っ」
不意に、何をされるか判らない、という漠然とした恐怖感がエドワードを襲う。己れが、絶対に敵にしなくない相手と対峙しているのは余りにも明白だった。が、しかし、あくまでもその圧迫感を捻じ伏せてやると、エドワードは強気の口調で言い放った。
「勝手に邪推すんなよ。ハンギングツリーにぶら下がるなんて、絶対ご免だ」
「考えすぎだ、鋼の」
「どうだか」
悪態を衝きながら、それでもエドワードは片手でぱちんとジャケットの留め金を外すと、内ポケットに収めてあった一枚の紙を取り出した。きちんとに四つに折り畳まれたそれは、どこにでもあるような白色の上質紙だった。
「これが何なのか、俺には全然判らない。ただ、ギャレットは預かっててくれ、と。それだけえらくマジになって頼んで来たんだ。誰に渡して欲しいとか、特定の場所に持っていけとか、そういうことは一言も言われてないからな」
ここに来る途中、ゴミ箱に捨てようかと思ったくらいだ、と付け足し、エドワードはロイに差し出した。
「ほう」
紙を受け取ったロイは、それを開いてみた。が、何も書かれてはいない。文字や絵を消した跡もない。本当に、そこらにある白紙を折っただけのようだった。
が、ロイはそれを予測していたのか、当然のように言った。
「これは練成されて再構築されたものだな。元の形に戻さないと、何が書かれていた書類なのか判らない」
「だが、構築式がない。というか、ちょっとした仕掛けがある。パスワードみたいなもんが設定してあって、それをキーワードにするようになってんだ。だから、それが判らないと、俺だって手出しできねーよ。暇潰しにちょっとやってみたけど、ダメだった」
「君が手を焼いたのなら、これを練成した人物は、よほど根性のひん曲がった錬金術師だな」
「かもな」
軽く受け流すと、エドワードはロイから逃れるようにソファに腰を降ろした。
「で、それをどうするんだ」
「君は、これを見なかったことにしてくれ。無論、ギャレットからは何も受け取らなかったし、そんな話もなかった。私に渡さなかったのは言うまでもない。それと、この件の報告書だが、私の言う通りに記述したまえ」
「なっ……」
「当然だろう。そのままを書けば、どうなると思っている」
「……悪党」
「まず、君達がギャレットを見つけた時には、すでに殺されていたということにしたまえ。場所はあの砂利山の近くでいいだろう。犯人は不明。それから、彼がコレットと接触したのは金品目的で、買い取りを前提に取り引きをもち掛けたが、それがこじれてしまったようだ、と」
「挙げ句に殺されちまったってのか。浮かばれねーな。……それで? 俺が得るものは何だ」
「もちろん、今回の失態を握り潰してあげよう。君はちゃんと仕事をやった。イレギュラーなことだったのにね」
「それだけかよ」
「約束通り、『禁河の書』は近いうちに閲覧できるように手配する。それでいいかね」
「ユースウェル炭鉱の件もつけろよ。あそこには手を出さねーって。権利の委譲は正式な手続きで行われた。現在の利権者はホーリングだ」
「いいだろう」
大盤振る舞いだ、と思わなかったわけではなかったが、これでエドワードに貸しができる。いくら損得なしの取り引きだといっても、それで全てのやりとりの痕跡が消えてなくなるわけではない。割り切れない感情的な印象付けが、どうしても残る。
つまり、世話になったという負い目が感覚的に形成されてしまうのである。ロイが取り引きという手段を持ちかけてこなければ、自分の窮地は免れなかった、という。これが取り引きすら拒否する清廉潔白、謹厳実直な上官だったなら、どうなっていたか判らないのである。
恩を売るような行為を繰り返せば、いかにプライドの高いエドワードとて、懐柔される。そして、それこそがロイの狙いだった。等価交換という便利な言葉は、しかし、一面では真実ではない。
「では、取り引き成立だ」
そう言われ、エドワードは無言で立ち上がった。
「報告書は明日までに提出したまえ」
「判った」
肩をそびやかし、エドワードが扉に向かう。その背中に、ロイが声をかけた。
「一つ、言い忘れていた」
「何だよ」
「先程の構築式の件だが、恐らくはこれがヒントになるだろう」
そう言うと、ロイは上着のポケットから一枚の認識票を取り出して見せた。
「それは……っ」
窓からの光を浴びて、金属の鈍い反射が目を射る。つい数日前に見た覚えのあるそれは、確かにギャレットの認識票だった。表面に打刻されている数字とアルファベットを組み合わせ、それを暗号として何らかの文字列と対応させて解読すればいいのではないか、などとロイが言っていたが、エドワードの耳には入らなかった。
しかし、認識票はビクターに預けられていたはずである。どうして、ロイがそれを手にしているのか。当惑する前に、エドワードはぞっとした。
考えられることは、一つだけだった。
「……っ」
「下がりたまえ。明日、また来るように」
ロイの低い、しかし、明瞭な声がエドワードを打ちのめした。
戻って来たエドワードの厳しい、半ば強張った表情を見て、アルフォンスは酷く困惑した。
「ど、どうしたのさ、兄さん。大佐に何か言われた? それとも、処分……とか」
「アル……」
大きく息をつくと、エドワードはスタッフルームの長椅子に腰を降ろし、悔しげに俯いた。休憩時間ではないため、いつもならエルリック兄弟を何かと構ってくれるロイの部下も、室内に屯っている士官達の姿もなく、二人だけだった。
「俺達は嵌められた」
かなり長く沈黙した後、ぽつりとエドワードが漏らす。
「ど、どういうこと?」
「あのビクターって奴……、とんだ食わせモンだ」
「……?」
話の見えないアルフォンスは首を傾げてエドワードの言葉に聞き入っている。
「軍の意向を受けてたんだ。どの時点でそれを引き受けたのかは判らねー。だが、奴はギャレットをユースウェル炭鉱へ連れ出して、始末することになってたんだ」
「な、何で、そんなことをっ」
「ギャレットが持ち出した機密を回収するためだ。そのためには一人くらい口封じしてもいいってこと、いや、特工になるのを拒否した下士官を消さなければならなかった。……大佐の野郎、何てこすい手を使うんだ。これで俺が報告書を出せば、きれいに幕引きされちまう」
「兄さん……」
エドワードの吐き捨てるような口吻から察したのだろう、アルフォンスもギャレットがすでに闇に葬られたことを悟った。
そして、それを見届けるための道化として自分達が使われたということも。
エルリック兄弟が南部との境界近くまで乗り込み、例の如く騒ぎを起こしたとなれば、少なくともロイはちゃんと追跡の仕事をしていると周囲には知らしめることができる。始末書も報告書も提出されているとなれば、上層部も任務の遂行に疑いを挟む余地はない。努力及ばず、逃亡兵は殺害された後でした、との結論で終了である。
また、これを口実にコレットは軍の捜索を受けるだろう。マネーロンダリングの証拠品が押収されれば、東南部のテログループに大打撃が与えられる。ロイがその端緒を掴んだとなれば、上層部はそれを功績として無視できない。
「まるで、野良犬にエサを投げ与えてやるって感じだな。自分は、それ以上の報酬を受け取るって按配だ。それもこれも、ギャレットの持ち出したリストを回収するためだ」
「そこまでしなくても……」
「そこまでする必要があったんだよ、大佐には」
顔を上げ、怒鳴るようにエドワードが断言する。アルフォンスは口を閉じた。
「大佐は、恐らくリストを回収したことを憲兵隊本部にも参謀本部にも報告しねーだろうな。手に入れたリストは自分の懐だ」
将来の大総統の椅子を狙うロイにとって、不満分子や反主流派のリストは喉から手が出るほど欲しいものに違いない。アイズオンリー(披見のみの最重要機密のこと)の国家機密にも相当するデータであるばかりでなく、ピンポイントで自分に迎合する人物と接触することを可能にしてくれるのである。上手くいけば、ちょっとした勢力を形成することも可能で、軍内にロイ独自の派閥を打ち立てることも不可能ではないだろう。そのチャンスをわざわざ見逃したりはしない。ここまで手の込んだ仕掛けをする理由もそこにあった。
「ギャレットがあの紙を俺達に預けたのは、回収を恐れてのことだったんだ。少なくとも、リストのありかが判らないうちは、自分が殺されることはないからな。紙とパスワードを分離しておいて、身の安全を図ったわけだ」
しかし、肝心の同伴者だったビクターが軍の息がかかった者だったとは、さすがに知らなかったらしい。軍の方が上手だったということか。
否、それよりもロイがエドワード達の行動を読んでいたのが腹立たしい。多分において、自分達がギャレットを解放するという予測を考慮に入れていたのだろう。でなければ、後で始末するよう手配などしない。
「大佐のいいように使われちまったな……」
うんざりと壁に背中を預けるエドワードに、しかし、アルフォンスはふとした疑問を口にした。
「ギャレットはどうやって殺されたの」
「射殺されてた。一発で頭を撃ち抜かれて」
「……」
「どうした」
考え込むようなアルフォンスに、エドワードが声をかける。しばらくして、鎧がぎしりと音を立ててエドワードの横に腰を降ろした。
「実行犯はビクターさんじゃないと思う。あの人は本当に見た通りの商人だよ。手を下したのは別の人じゃないかな」
「何故、そう思うんだ」
「手の形だよ」
謎かけのようなことをアルフォンスが言う。エドワードはきょとんと己れの弟を見返した。
「あのね、銃を使う人は、あんなごつい手はしてないんだ。僕が知っている限り、もっとしなやかな、女性のような、ほら、何て言うのかな、白魚のような指……かな、そういう優しげな手をしてるんだよ。ホークアイ中尉がそうでしょ」
「中尉は女性だから……」
「大佐もそれに近い手をしてない? 銃撃の腕がどれくらいのものなのかは知らないけど、それなりのレベルだと思うよ。触ったことはないけど、多分、柔らかくてしなやかだと思う。銃を扱うには、微妙なグリップの握り具合や手首の柔軟さが必要不可欠だから、厳ついというか、皮の厚い手じゃダメなんだよ。以前、ホークアイ中尉が言ってた。一本の指の、ほんの数ミリグラムの力加減、ゼロコンマ数度の角度の差が明暗を分ける、って」
つまり、それだけ指先や掌が敏感でなければ、優秀なスナイパーではないということである。
ギャレットの遺体は射撃が下手な素人が何発も撃って殺害したような、見苦しいものではなかった。一発で仕留めるのは、洗練されたプロの仕事である。
「だから、ビクターさんは、本当に何も知らずに認識票を預かってて、軍の誰かに戻してくれと言われて返しただけかもしれないよ」
「確かにな……」
言われて見れば、アルフォンスの言い分ももっともである。ロイが認識票を持っているからと言って、ビクターが諜者まがいの人間だと決め付けるのは早急に過ぎる。
「それじゃ、いったい誰が……」
疑問が元に戻り、堂々巡りをする。が、それを打ち切るようにアルフォンスが言った。
「考えてもしょうがないよ。あの大佐が尻尾を掴ませるようなドジを踏むとは思えないし」
「まぁ、そうだな」
どこまでも冷酷で抜け目のない男である。ロイの優秀な手駒である限り、自分とアルフォンスは庇護されるが、いったん背を向ければどういう報復を受けるか判らない。もっとも、それは国家錬金術師の資格を取った時に、しっかりと警告されている。無論、同意することに吝かではないが、やはり面白くはなかった。
「それじゃ、ちょっと悪足掻きしてみるか」
不意に思いついたように、エドワードがスタッフルームのドアを開けながら言う。
「悪足掻き?」
「ちょっと寄りたいところがある。付き合えよ」
「え? 何?」
「いいから、来い」
強引に連れて行かれる形で、アルフォンスはさっさと歩き始めたエドワードの後を追った。
「どこ行くんだよ。いきなりなんだから、もー」
「来れば判る」
「兄さんってば……」
ぶつぶつ言いながらもアルフォンスはエドワードについて来る。
渡り廊下を通り抜け、エントランスから外へ出ると、エドワードはそのまま真っ直ぐ大通りの方へと歩いて行こうとした。
その途中、黒髪の女性仕官とすれ違った。
「あれ、あの人は……」
と、アルフォンスが足を止める。
「どうした、早く来い」
「あ、ご免。待ってよ」
慌ててアルフォンスは走り出し、歩哨兵の立つ門を潜った。
「行くってどこに?」
「この先だ。ゴードン商会ってとこがある……」
それとなく二人の会話を聞き流しながら、その女性仕官はエントランスに入ると、庁舎の脇にある射撃場へと向かった。
届出さえしておけば、いつでも利用可能なこの施設に、目指す相手はいた。
射撃の的は直径約二〇p。その中央の円の直径は三p。そこへ、寸分の狂いもなく三秒の間に最低三発の銃弾を撃ち込む。それができなければ、一流のスナイパーとしては認められない。
射撃場のほぼ中央に立つホークアイ中尉は、それを完璧にこなした。的に空いた穴は一つだけ。満足そうな様子すら窺わせない表情で銃を下げた刹那だった。
「見事ね、相変わらず」
と、横合いから声をかけられ、ホークアイは反射的に振り返った。そこに見覚えのある顔を認めて、緊張を解くと、シューティンググラスを外した。
「もう帰って来てたの。ご苦労様、アグニス大尉」
「キラでいいわ。特工はクイックイン、クイックアウトが信条なのよ。いつまでも現場でぐずぐずするのは得策じゃないの。それより、私にもさせて」
「どうぞ」
シューティンググラスと銃を持ったキルリアに、何の気負いもなくホークアイは場所を譲った。新たな的を設置し、制式拳銃であるコルトを構える。セミオートマチックでありながら、四五口径でACP弾の装着ができるそれは、被弾者に甚大なダメージを与えることで半世紀以上も軍に採用されてきたモデルだった。
撃ち込んだ弾数は、ホークアイと同じ三発。中央に穴は一つ。
「二発目がちょっと右に反れたわね」
ちっと舌打ちするキルリアに、ホークアイは肩を竦めた。
「許容範囲内よ。これが人間の眉間だったら、きれいに頭が吹っ飛んでるわ」
「それは――」
「結果論だって言うんでしょう。ターゲットを仕留められればそれでいいのよ。でも、そういう話をしに来たんじゃないでしょう」
「そうね」
傍らに銃を置くと、キルリアは力を抜いたように笑った。
「私が送った写真、あれは満足できるデキだったかしら」
「勿論よ。あれなら、誰でも死体だと思うでしょうね。これで彼の軍籍は抹消されて、名実ともにデナイアブルな存在になる。……彼は、今どこに?」
「それは言えないけど、いつでも連絡は取れる状態にしてあるわ。特工がお気に召さなかったようだから、彼には地道な情報収集をやってもらうことにしたの。これから先、あなたとあなたの上司にとってもお役に立てると思う」
「恩に着るわ」
「その前に、仕損じた仕事の後始末をやってもらうけど。それにしても、番狂わせね」
と、キルリアがため息をつく。
「まさか初仕事でびびって逃げ出す特工がいるなんて、まだ信じられない。前代未聞ってわけじゃないけど、本来ならヨキの間抜けな死体を見せられるはずだったのがあんなことになってしまって、本当に残念だわ」
それへ、ホークアイは肩を竦めた。その件については、実に腹立たしいことに、エルリック兄弟が追放という形で殺害を回避してくれた。それがよかったとは言えない。確実な口封じを東方司令部は望んでいる。小物のやったこととはいえ、贈収賄は有耶無耶にしてしまえるほど軽い罪ではない。金権政治が罷り通っては、用兵や指揮系統の流れに支障を来たすことになる。
「それより、アレは手に入れた?」
「ええ、今頃は」
つい先程、エルリック兄弟がロイに渡した白紙がそうだった。これでロイは軍の機密の一つを手にしたことになる。大いに活用するがいい、とキルリアは思う。
「原本は私が焼却しておいたわ。上の指示通りに。エルリック兄弟が持っていたのは、コピーね。なかなか用意周到だわ、新米の憲兵にしては。あの子はいいエージェントになる」
「あなたの保障つきなら確かね」
「あなたの上司の私兵としても有用なはずよ」
「助かるわ」
そう言うと、ホークアイはやっと緊張を解いたように微笑した。それへ、キルリアはわざと大仰に嘆息するようなジェスチャアをして見せた。
「それにしても、男どもはバカね。私とあなたが、たかが見解の相違があるからといって、感情的に対立してる、公私混同してるって本気で思ってる。女は子宮で物事を考えていると信じてるんでしょうね。あのハクロなんか典型的だわ」
「仕方ないのよ。そう思いたいんだから。劣等感の裏返しね。あなたはいい虫除けになってくれたから、感謝してる。お陰で、あなたの仕事に嘴を入れることはなくなった。情報部と司令部が個人的に繋がっているとは誰も思わない。むしろ、仲違いしていると思われてる。いい隠れ蓑よ」
「そうね。元々、司令部のラインと参謀本部(スタッフ)とはかなりの確執があったから、疑問を挟む者もいない。ただ、あなたとあんな演技をしなくてはいけないのが辛いわ」
「目的のためよ」
それが第一優先だとホークアイは明言して憚らない。それに対して、キルリアは協力を惜しまない、と確約している。
「判ってるわ」
どこか不敵に言うと、キルリアはホークアイの肩に手を置いた。
「中央へ来る時は声をかけて。今度ゆっくり飲みましょう」
「ええ、是非」
ホークアイが親しい友人に対するように微笑する。それを確認すると、キルリアはシューティンググラスを手渡し、射撃場から出て行った。
後は、この件をどう闇に葬るか、ロイと相談するだけである。特高課長からはすでに事前の了解をとっている。面倒なのは書類の体裁だけだった。が、その辺を疎かにするマスタング大佐ではない。あのエルリック兄弟も上手くあしらったに違いない。
悠々と、アグニス大尉は階段を昇り、ロイの執務室へと向かった。
翌日、報告書を提出しに司令部を訪れたエドワードは、ロイから嫌味なくらいぞんざいな扱いを受けた。
「ビクターが行方不明になった」
いきなりそう切り出され、しかし、エドワードは平然とロイに書類を一式渡すと、興味も何もない表情で報いた。
「そうかよ」
これで用は済んだとばかりそのまま退室しようとするエドワードを、憤然とロイが呼び止める。
「驚かないんだな」
「やばい橋を渡ってるって自分で言ってたぜ。死傷者が出るような縄張り争いにも足を突っ込んでたそうだからな。いつこういうことになっても不思議じゃねーよ」
「死んだと思うか」
「さぁな。俺の知ったことじゃない」
惚けるエドワードに、ロイがため息混じりに問うた。
「君がやったのか」
「いいや」
先日のやりとりと同じ台詞だな、と思わなかったわけではなかったが、エドワードは皮肉を込めて、言い返した。
「俺はずっとイーストシティにいたんだぜ。それは大佐がよーく知ってることだろ。こんなもん書いてたんだからな」
と、提出したばかりの報告書を指差すと、それ以上、ロイも問い質すことはしなかった。問い詰めても無駄だと悟ったのだろう。確かに、言われた通りエドワードとアルフォンスはロイのお膝元にいたのである。
何かやったとしても、どういう手を使ったのか、追跡するのは至難の業だった。エドワードとてバカではない。迂闊に証拠を残すような真似はしない。
「ま、今頃はどこかで嵐が頭の上を通り過ぎるのをじーっと待ってんじゃねーの。そのうち、また出てくるって」
「彼には、南方近隣の情報を流してもらっていた。それが途切れてしまっては、あちらの情況が把握しにくくなる。トレースも難しくなるな」
「そりゃ困ったもんだな」
やはり興味なさそうにエドワードが相槌を打つ。他人事と言っていいほどに、その仕種はどうでもよさげだった。
「聞きたいことはそれだけか」
もう行くぜ、というニュアンスを含ませ、今度こそエドワードが踵を返す。が、不意に振り返ると、ロイに言った。
「追跡ってのは、ヨキのことか」
「君は知らなくていいことだ」
「そうかよ」
ロイの返事は素っ気ない。改めてそれを確認したように、エドワードはコートのポケットに手を突っ込むと、足音苛立たしく執務室を出て行った。
了 二〇〇四年五月二九日
エピローグ
ショウ・タッカーと娘のニーナが殺された時も、ロイ・マスタングはいつものスタイルを崩さなかった。
「風邪を引く。帰って休みなさい」
エドワードにかけた言葉はそれだけだった。
「お前な、あれはちょっと冷たいんじゃないのか」
と、さすがに口を挟んだのは、中央から差遣されて来たマース・ヒューズ中佐だった。もっとも、ロイがそんなお節介に耳を貸すはずもなく、まともに取り合おうともしなかった。
「私に何をしろと。暖かい言葉でもかけて慰めてやれとでも? そんなものを望んでいるとは思えないが」
馬鹿馬鹿しい、とばかり、ロイは右手の中のグラスを面白くもなさそうに揺らした。溶けかけた氷がからからとクリスタルガラスに当たっていい音を奏でる。
カウンターの明かりはクラシックなランプが一つ置かれているだけという薄暗い店内は、いつも通りざわざわとざわついているが、今夜は比較的空いていた。雨のせいで人出がないのだろう。
「ランドットの件だってそうだろ。報告書を読ませてもらったが、お前、ムチャクチャ言ってないか、エドに」
「そうだったか」
「ギャレットが生きてることくらい知らせてやってもいいだろ。あれじゃ、お前に対してだけじゃなく、人間不信になっちまうぞ。そりゃ、特工のことは伏せておくべきだが、欺かれてばかりじゃ軍に対してもいい感情を持たない」
が、その忠告に、ロイはしれっとして応えた。
「構わんさ。これで鋼のは簡単に私の言うことを信用しなくなるだろうな。いくらおいしい条件を提示されようとも、ハナっから疑ってかかるに違いない」
「だから、それじゃ信頼関係ズタズタなるって言ってんじゃないか。それでお前ら、やっていけるのか」
エドワードの命令授与者として、これから長い付き合いになるかも知れないというのに。しかし、やはりロイは堪えた風もなく平然としていた。
「あれはこんなことくらいでいじけたり凹んだりするようなタマじゃない。もっとアグレッシブな性格だ。私に嵌められたと思ったら、見返してやろうと、いや、仕返ししてやろうと必死になるだろうな。南方の方ではしてやられたよ」
もっとも、それこそがロイの望んでいたエドワードの行動だったのだ、と断言しかねない友人に、ヒューズは苦々しくため息をついた。
上官を出し抜くくらいの手応えがなければ、本当の意味で優秀とは言えない。惜しげもなくその才能を見せびらかすエドワードに、ロイは常にない満足感を覚えていた。下手をすると、自分が足を掬われかねないが、それさえも期待に摩り替わってしまう。従順なだけの部下など、見飽きている。己れと渡り合える者がいるというのは、一種快感だった。
「お前の頭の中は、歪んでるな」
「そうか? 可愛いものじゃないか、鋼のは。これから先、常に私が何を考えているか、何をしようとしているのか、あくまで真意を探ろうと四苦八苦するだろうな。どういう手を使っても知ろうと躍起にになる」
そこで何を思ったのか、ロイの頬に笑みが浮かぶ。ヒューズには何となく、ロイの意図するところが判ったような気がした。
常に、ロイのことしか考えていないエドワード。そんな状態を招聘したいとでも発言しそうな雰囲気だった。まるでエゴの塊である。が、ヒューズは敢えてそれを無視し、別の方向へ話を持って行こうとした。
「上司が部下を引き付けておくための一手段だな。そうやって自分は何でもお見通しだと誇示することによって部下が逆らわないようしっかりと囲っておくってわけだ」
しかも、その誇示できる部分は、ちらちらとちらつかせる程度がより効果的だという。一部分しか見えなければ、全てを見てしまうより空恐ろしさが募る。よく判らない、知らないが故の想像が勝手に広がってしまうためである。
それでなくとも、部下と上司では利害関係が対立することが多い。それをどうやって操縦するか、裏切らないように協力関係に置いておくか。組織運営におけるリーダーの、昔からの命題だった。
有効なのは、部下が裏切らないのを期待するのではなく、裏切れないような情況に追い込んでおくことである。
「そうやって、エドを手懐けておくってのか。今でも充分いい手駒になってるじゃないか。何だかんだ言って、奴は上手くやってるだろ。お前の期待に副わなかったって話はまだ聞いてないし」
半ば呆れるように杯を煽ると、ヒューズはロイを窺った。笑みは尚深くなっていた。
「まさか」
と、ロイがグラスを手の中で弄ぶ。
「あれが大人しく懐柔できるような奴だと思うか。せいぜい悪態をついて殴りかかって来るのがオチだろう。別に仲良くしたいわけじゃない。それに、上下関係で馴れ合いは禁物だ。嫌い合うくらいがちょうどいい。しかも、それは全てに応用されるようになる。元々警戒心は強いが、やはりまだまだ脇が甘い。今回のような目に遭いたくなければ、事前に回避するよう行動するようになればいい。そのためにはいくらでも痛い目に遭えばいい。でないと、思い知ることができない」
「口で言って判るような奴じゃないってことか」
「そうだな」
人間、痛い目に遭わないと実感することがない。口で言うより、身をもって体験しないと真に理解できないことが、この世は多すぎる。
「寝首掻かれるぞ、そんなこと言ってると」
不穏なことを口にするロイに、ヒューズは苦言を呈したつもりだった。こういう言い方をすれば、普通はお義理でも、「肝に銘じておく」くらいは返答してくれるはずだった。
が、ロイには通じなかったらしい。グラスに残っていたブランデーを喉に流し込むと、ぽつりと言った。
「それが私の愛し方だ」
了 二〇〇四年五月二九日