其ノ目的タル事項



 東方司令部に戻ると、エントランスで咥え煙草のハボックが立っているのが真っ先に目に入った。否、ロイが帰還するのを待ち構えていたらしく、その姿を認めるや駆け寄って来た。
 「どうした」
 「エドワード・エルリックが来てますよ。大佐と直接話したいことがあるとかで、ずっと待ってますが」
 「珍しいこともあるものだな」
 足早に歩きながら、ロイは手袋を脱ぎ、コートのボタンを外して肩から滑り落とした。それを片手に持ち、エントランスを抜けたロイはハボックとともに二階にある執務室へと向かった。
 昼下がりとは言え、今朝からずっと雨模様だったせいか気温が上がらず、吐く息も白い。さっさと暖かなストーブに当たって凍えた手足を弛緩させたかった。
 「で、用件は何と」
 「それが、大佐と直接話したいの一点張りで、それ以上口を利かないんスよ。スタッフルームで待ってると言ってましたが、資料室か文書管理室へ行っちまったかもしれませんね」
 ハボックの説明に、ロイは首を捻った。
 賢者の石探しで国内を駆けずり回っているに等しいエルリック兄弟が、軍管区内の管理者であるロイの元を訪ねて来るのは、規定の報告書の提出という公務である場合が殆どで、それ以外の用事で東方司令部に顔を出したことなど皆無と言っていい。それだけに、何か余程のアクシデントに遭遇したのか、とロイは思案を巡らせた。
 が、士官の休憩所兼溜まり場でもあるスタッフルームの前を通り過ぎ、執務室に入ってコートをハンガーにかけ、革張りの椅子に腰を降ろしても、心当たりには行き着かなかった。エドワードが気を惹かれるような事件も事故もここのところ起こってはいないし、とんでもない揉め事を起こしたという不穏な情報も入って来ていない。
 「それじゃ、エドの奴を呼んで来ますんで」
 「アルフォンスは一緒じゃないのか」
 「エド一人スよ」
 「そうか。まぁ、いい。呼んで来たまえ」
 手にしていた封筒を未処理のトレイに放り込み、ロイは留守にしていた数時間の間に溜まった書類の束に手を伸ばした。
 が、何枚も目を通さないうちに、ドアがノックされた。
 「入れ」
 「失礼します」
 声と同時に、ハボックがドアを開け、赤いコートを脱いだエドワードを室内へと入れた。
 最後にその姿を見たのはいつだったか。一ヶ月前だったか、二ヶ月前だったか、定かではないが、相変わらずの小柄な外見は、実際の年齢よりも幼く見えた。
 司令部へ来て、機嫌のいいエドワードの顔など見たことのないロイだったが、今日はいつにも増して不機嫌な、否、いくぶん緊張した面持ちだった。
 自分の知らない不測の事態でもあったか、と思ったものの、内心の動揺を一片も表に出すことなく、ロイは椅子から立ち上がった。
 「久しぶりだな、鋼の」
 いつも通り、ロイは平静そのものの、冷淡とも言える落ち着いた声でエドワードに手前のソファに座るよう促した。が、しかし、そんな建前的な仕種などきれいさっぱり無視した素振りでつかつかと執務机の前に進み出ると、エドワードはいきなり口を開いた。
 「あんたに聞きたいことがあるんだ。それさえ終わったら、すぐ帰る」
 手間は取らせないと言いながら、まるで果し合いでも申し渡すような口調だ、とロイは思った。微かに上擦った声に気付かなかったわけではなかったが、立ったままエドワードと対峙することとなった。
 向き合うと身長差がはっきりしてしまうため、エドワードはこの位置関係を殊更嫌がっていたが、どうやらそんなことも意に介さないような、深刻な事態が起こったらしい。当然、ロイは興味を引かれた。
 「いいだろう。言いたまえ」
 「……」
 が、どうしたことか、とたんにエドワードは困惑したようにロイから視線を外した。
 「あ、あのよ……」
 室内には、まだハボックがいる。立会人か護衛のようにドアの前に立っていたのであるが、エドワードはそれが気にかかっているらしい。
 そうか、とロイはすぐに察した。
 「ハボック少尉、悪いが、鋼のと二人にしておいてくれないか。用があれば呼ぶ。それまではここへは誰も近づけないように」
 「了解」
 上官命令である。即座にハボックは敬礼して執務室を後にした。
 「さて、人払いはしたぞ。君の質問とやらを聞かせてもらおう」
 ドアがきっちり閉まったのを確認してから、ロイは改めてエドワードに問いかけた。どこかほっとしたような、しかし、緊張の度合いはますます高まったような風情で、エドワードは口を開いた。
 「イエスかノーで応えてくれ。あんたが言ったことを、俺は信じるから」
 「言ってみたまえ」
 もったいぶらずに。そう唆すと、エドワードはロイを睨むように唇を噛んだ。そして、予想もしなかった単語を口にした。
 「治安維持法が、復活するってのは本当か」
 「……」
 咄嗟に、ロイは応えられなかった。否、何かの聞き間違いかと耳を疑った。が、エドワードは負けん気の強い瞳でこちらを見上げている。根も葉もない噂や流言蜚語の類を頼っての確認ではなく、明らかに何らかの根拠を持った問いかけであるのは、すぐに判った。
 いったい、どこから聞き及んだのか。
 しかし、ロイはその回答をするわけにはいかなかった。余裕じみた笑みを浮かべると、嘆息するようにエドワードを見返し、その問いを跳ねつけた。
 「また物騒なものを持ち出したな。もう半世紀も前に制定されて、わずか一〇年ほどで廃止された法律じゃないか。君も私もまだ生まれていない頃の弾圧と抑制の――」
 「そんな御託が聞きたいんじゃない。応えろよ、復活するってのは本当なのか」
 エドワードが声を荒げる。が、ロイは眉一筋動かさなかった。
 「誰に聞いた」
 「聞いてんのは俺の方だ」
 「悪いが……」
 と、ロイは困ったように首を振った。
 「私はその質問に答えられる立場にはない。治安維持法など軽々しくそこらで口にしないよう、厳重に忠告しておく。以上だ」
 くるりとロイが体を反転させる。もう帰れ、ということである。が、それで引き下がるほど、エドワードは大人しい性格をしていない。
 「っざけんなっ。もったいぶってねーで、応えろよ。こんなもんが復活しちまったら、俺は、いや、あんただって無事でいられるかどうか判らねーんだぞ。いいのかよ」
 激したようにエドワードがロイの背中に怒鳴る。が、ロイの冷淡な態度は変わらなかった。否、急激に寒気すら漂わせてエドワードに報いた。
 「それは私が関知することではない。鋼の、今すぐ自分の言ったことを忘れたまえ。それが一番の保身になる。我が身が可愛いのならな」
 「言われなくても判ってる」
 そんな返事が聞きたいのではない、と言わんばかりにエドワードが噛み付く。が、ロイは憎らしいほどに己れのペースを崩さなかった。腹の立つことに、その超然とした態度にエドワードが太刀打ちできた試しはない。もっとも、だからと言って簡単に引けるものではなかった。否、余計にムカ腹が立った。
 「許せるのか、あんなもんを。軍はいったい何を考えてるんだ。治安維持法で治安の回復が望めるとお気楽なことを本気で思ってるのか」
 「鋼の、言い過ぎだぞ。それ以上言ったら、軍への批判になる」
 「そうかよ」
 苛立たしげに、エドワードが怒号を上げると同時に、机を叩く。バン、と派手な音がして、書類を入れたトレイが飛び上がったが、やはりロイは動じなかった。
 「落ち着け」
 「うるさいっ。……どうなんだ、治安維持法は復活するのか」
 これでは話にならない。内心、ロイは肩を竦めながらも、あくまで冷然と言い放った。
 「同じことを何度も言わせるな。君の質問には答えられない」
 「大佐――」
 「何度聞いても応えは同じだ」
 「……っ」
 エドワードが息を呑むように絶句する。もっとも、それは一瞬だったようで、一拍置いた後、反駁するように怒号を上げた。
 「イシュヴァールでやったことを国内全部でやるってのか。冗談じゃねーぞ」
 「鋼の」
 不機嫌に、ロイが振り返る。が、エドワードは口を閉じなかった。
 「判ってんのか。あれは、証拠がなくても、容疑があると推定されただけで、逮捕の対象になる。いくらでも拡大解釈が可能な条文になってんだからな。俺とアルがやった人体練成は証拠隠滅されてるが、誰かがこれをどこかで四方山話の中で喋って、それが特高の耳に入ったりしたら、俺だけじゃない、それを知ってて黙ってたあんたにも火の粉が降りかかるんだぞ」
 そうなれば、軍歴に傷がつくどころの騒ぎではなくなる。最悪、軍法会議にかけられ、全ての地位と特権を剥奪されて軍界から追放されることになるだろう。否、それだけですめばいい。半世紀前は、捕縛された時点で人権そのものが消失し、特高による執拗な尋問や拷問が行われ、それで発狂し、廃人になり、挙げ句に死の床についた無実の人々は千人単位に昇った。
 「シラ、切り通せるのかよ」
 挑発的に、エドワードが問いかける。が、ロイはそれには応えなかった。
 「君の方こそ、耐えられるのか。当時の拷問は、ゴムホースで殴り続ける程度のものではなかったそうだ。殴る蹴るの暴行は無論のこと、ガスバーナーで焼く、錐で足に穴を開ける、体内に針金を入れて電気を通す、ゆびを一本一本切り落として行く、皮膚をうろこ削ぎにする、汚水に鼻まで沈める……。同胞の死体を背中に括り付けて何キロも歩かされるというのもあったな。実にバリエーションに富んでいる。酷刑のオンパレードだ」
 うっすらと笑みさえ浮かべるロイに、エドワードの方が話を振ったことを後悔した。言うまでもなく、軍人は暴力のプロである。人はどこをどうすれば、脆弱さを露呈するか、陥落して口を割るか、テクニックもタイミングも熟知している。それは取りも直さず、対処方法も心得ているということである。
 不利な立場にいるのは、エドワードの方だった。元より、ロイとは対等な立場にはない。それが酷く悔しかった。
 「俺は片腕を引き千切られても大丈夫だ、という顔をしているな。それもいいだろう。……以前、私が見た死体は凄かったな。両腕も両足も切断されていた。達磨にされて、首に縄をかけられ、雪の中を引きずり回されて凍死したんだ。体中が傷だらけでずたずただったのは言うまでもない。何十日にも渡って拷問を受けていたんだろう」
 「……っ」
 さすがに、エドワードが口を噤む。が、ロイは容赦しなかった。
 「ちょうど君と同じくらいの年の少女だった」
 軍や警察がその気になれば、これくらいのことは造作もない。容疑者は死んでくれてもいっこうに構わないのである。拘束したという事実があれば、特高の仕事は終わったも同然だった。
 もっとも、このままでは魔女狩りになる、と警察権力の肥大化に恐れをなした各界の有識者や軍の圧力により、治安維持法は僅か一〇年でその使命を終え、実働部隊となっていた特高は憲兵の特務課に吸収される形で消滅した。
 「だから……、そんなの、あんただって望んでねーだろ」
 苦しげに、エドワードが独白のように問いかける。イシュバールの内乱では、もっと酷い弾圧が加えられたと聞いている。現場にいたロイが知らないはずがない。が、その訴えもロイには届かなかったのか、呆れたような嘆息が返って来た。
 「君は私に何を望んでいるのかね。ノーと言って欲しい。そういうことか。治安維持法の可否ではなく……」
 「違うっ」
 即座にエドワードは否定したが、全くの的外れではないのだろう、僅かに目を逸らしたのを、ロイは見逃さなかった。
 「しかし、君の杞憂も判る」
 「それじゃ――」
 「だから、このことは一切、忘れたまえ」
 「俺が聞いてんのはそういうことじゃねーよ。応えてくれ、大佐。どうなんだ」
 機先を制せられ、エドワードはいい加減にしろとばかり、ロイに詰め寄った。が、ロイの態度は変わらなかった。
 「私は応えられる立場にない。まだ言わせる気か」
 飽きもせず、同じ台詞を繰り返すロイに、さすがにエドワードがキレた。
 「畜生っ。あんたに聞いた俺がバカだったよ。もういい、もっと親切な奴を探すぜ」
 踵を返そうとするエドワードを、しかし、ロイは呼び止めた。
 「良からぬことを言ってくれるな。いったい、私以外の誰を尋問する気だ。いや、それ以前に、治安維持法などという穏やかでないものの名前をそうそう不用意に撒き散らすのは感心できない。それこそ人々の不安を煽る」
 「……」
 無言で、エドワードは体を反転させた。
 「俺がテロリストと同じことやってるってのか。いくら大佐でも承知しねーぞ」
 「じょ――」
 「上官に向かって口の聞き方がなってねーってんだろ。先刻承知の上だぜ。どうせ、あんたは取り締まる側の人間だ。好き勝手やってればいい」
 そう言い捨てると、エドワードは行く手を阻むように体を動かしたロイを怒鳴りつけた。
 「どけよっ。帰る」
 「その前に約束しろ。治安維持法のことは二度と口にしないと」
 「知るかっ」
 忠告は、エドワードの耳には入らなかったらしい。殊更乱暴にロイを突き飛ばし、出口へ向かおうとした。その腕を、ロイが掴み上げる。
 「待て、鋼の」
 「離せよ。話はもう終わった」
 無理矢理ロイの手を振りきり、エドワードは背を向けようとした。が、しかし、それはがっちりと掴まれ、容易に離されることはなかった。
 「いい加減にしろよ」
 「いい加減にするのは君の方だ」
 「も、いいから、離せっ」
 強引に手を振り解こうとしたエドワードに、チッとロイが舌打ちをする。
 「鋼――」
 「うるさいっ」
 憎悪すら篭った感情的な罵倒に、ロイはかっと頭に血が昇るのを感じた。
 「エド――」
 「うるさいってんだろっ」
 が、その台詞が終わらないうちに、エドワードはロイの手が離されると同時に、振り上げられるのを見た。
 次の瞬間には、鈍い殴打の音が室内に響き渡った。
 「ぐ……っ」
 手酷く平手打ちされたのだと判る前に、小柄な体が勢いで吹っ飛んだ。壁に肩と背中が激しくぶつかり、息の止まるような激痛に襲われた。
 頭がくらくらする。そのままずるずると壁伝いにエドワードは床に座り込む羽目になり、しばらくは声も出せなかった。
 無様な形で沈黙せざるを得なくなったエドワードに、ロイは殊更冷たく言い放った。
 「もう少し、自分の立場をわきまえるんだな。二度と、私にさっきのような口をきくんじゃない」
 「……っ」
 「判ったな」
 「くそっ……」
 何とかそれだけを呟くように吐き出すと、エドワードは己れを見下ろすロイを悔し紛れに、ぎりっと睨みつけた。





To be continued