そのうちに






 合鍵はハボックが持っていた。事前に、何かあった時のために、と直接ロイから渡されていたものだという。
 「ま、自宅っつっても官舎だがな。軍が借り上げた家屋に住んでるってわけだ。見てくれは普通の一軒家」
 と、ハボックがドアの鍵を開けるのを、エドワードは頷きながらただ見ていた。
 今朝、聞いたばかりの話は、まさに鬼の霍乱、もしくは青天の霹靂だった。優男風の見かけによらず、頑健な体の持ち主であるロイが昨日から寝込んでいるという。恐らくは、今流行りのインフルエンザに罹患したのだろうが、ハボックから聞いた執務室での出来事は、なかなか豪快だった。
 「朝っぱちから顔色が悪いなー、とは思ってたんだ。全然食欲なかったけど、朝食はムリヤリ食ったって言ってたが、それがまずかったんだろうな。朝イチで書類にサインをもらいに行ったら、よろっと立ち上がって手を伸ばした、次の瞬間だった」
 うっ、と口を押さえたロイはいきなり足元にあったゴミ箱を引っ掴むと、その中に盛大に嘔吐したのである。
 いきなりの衝撃映像にハボックは咥えていた煙草を床に落としてしまったが、すぐに気を取り直すと、寧ろ平然として言ってのけた。
 「医者を呼んで来ます」
 そのまま執務室を出て地階にある医務室を尋ね、軍医を呼んで診察してもらったところ、即座に三日間の自宅療養を申し付けられ、クルマに乗せて強制送還と相成ったとのことだった。
 後始末をさせられた従卒が気の毒だ、と話を聞いたエドワードは心底同情した。仕事とはいえ、一等兵や二等兵は辛い。そう嘆くエドワードに、ハボックは言った。
 「見舞いに行くか」
 「陣中見舞いみたいだな」
 「軍医から薬を渡すよう頼まれてんだ。だが、素直に大人しく言うことを聞いてくれるかどうか判んねぇからな。丁度いいから、大将、介添え役、やってくれ」
 「抵抗したら、力ずくでってことか」
 「まぁな」
 ハボックは惚けたが、ことによっては二人がかりで強引に、ということだろう。それを含みおき、ハボックはポケットから薬包を一包取り出すと、エドワードに渡した。
 「お前さんが持っててくれ。なくすなよ」
 「OK」
 ごそっとそのままコートのポケットに突っ込んだエドワードは、ふとその感触に疑問符を浮かべた。手の内にあるそれは、明らかに散剤ではなく、錠剤でもなく、ハードカプセルのような固くて丸い感触を伝えていた。
 が、しかし、知らないものではない。否、その特徴的な形には覚えがある。
 一瞬にして、エドワードはそれが何なのか、悟ってしまった。
 「少尉、これってまさか……」
 視線を上げると、己れより遥か頭上にある青い双眸が悪戯っぽくウィンクしていた。
 「ぬかるなよ」
 「判った」
 それだけで意思疎通を果たし、二人はロイの家の玄関ドアを開けた。
 「失礼します、大佐」
 一応声をかけ、ハボックとエドワードは目の前から伸びる長い廊下の奥を見遣った。まるで何日もの間、無人だったかのように屋内はシンと静まり返っており、どこからもロイの応答は返って来なかった。
 「眠ってるみたいだな」
 「俺、廊下に点々とゲロの跡があったらどうしようかと思った」
 「まぁ、そうなったら、従卒を呼んで大々的にハウスクリーニングだな。……えーと、大佐の寝室は確かこっちのはず」
 と、ハボックは玄関先から見える二階へと続く階段に足をかけた。そこで、エドワードは土足で踏みつけるのがもったいないような豪奢なマットを目にした。踊場に敷かれていたそれは、よく見るまでもなく、薄い床の色とマッチしておらず、妙な違和感を醸し出していた。
 男は普通、色彩感覚がおかしいと言われる。故に、センスが悪い者が多い。ロイにもその兆候があるのだろうか、とエドワードはどうでもいいことを考えてしまったが、よく観察する前にハボックに促され、後を追って二階へと駆け昇った。
 ロイの寝室は突き当りの奥とのことだったが、その途中、いくつものドアが廊下に沿って並んでおり、一人で住むには広い家だ、とエドワードは何となく思った。
 「大佐、眠ってんのは知ってますが、ここ開けますよ」
 普通は、「お休みのところ、失礼します」だろうが、と内心でエドワードは突っ込んだが、取り敢えずのノックの後、ハボックは躊躇いもなくドアを開けて中へずかずかと入って行った。どうやら、何度かここを訪れたことがあるらしい。
 「大佐、ご機嫌いかが……って、それどころじゃないスよね」
 室内は薄暗かった。遮光性のカーテンをきっちり締めているせいだろう。その、天井まで届くような出窓のすぐ近くにセミダブルのベットが置かれ、誰かがぐったりと横たわっていた。
 「軍医から色々言付かって来たんスよ。ちょっと起きて下さい」
 そう言うや、ハボックはお世辞にも病人に対するものとは言い難い勢いと潔さで、思いっきり乱暴に上掛けを引き剥いだ。
 当然、ベットの上には夏場の猫のように手足を伸ばして眠っていたであろう男が淡いコットンブルーの敷布の上に取り残された。
 「お、お前は……、もっと優しくできないのか」
 反射的に飛び起きてしまったロイの抗議に、しかし、ハボックは飄然としたままだった。
 「あー、凄い声ですね。自慢の低音が台なし。かなり重症じゃないスか。目も潤んでるし、顔も赤い。結構、熱あるでしょ」
 ちらっと横目でヘッドボードを見遣ると、水差しとコップのほか、白い錠剤が二錠、ぽつんと置かれたままになっていた。
 「飲んでませんね。せっかく、今朝早起きして届けたっていうのに……。相変わらず、人の労力を無にしてくれますね」
 本当に困ったもんだ、と言うようにハボックが大仰に肩を竦めて見せる。それへ、ベッドの上で胡坐をかいたロイがばらばらに乱れた黒髪を無造作に掻き上げながら、面倒臭そうに言い捨てた。
 「熱が出たからと言って、安易に下げればいいというものではない。ウィルスは高熱によって死滅するんだ。体は防衛反応として体温を上げる。だから――」
 「だから、薬は飲まないってんですか。余り高熱が続くようなら薬を飲め、と軍医から言い付かってます。偉そうにもっともらしく御託を並べてないで、さっさと飲んで楽になって下さい。ちゃんと見届けるまで戻って来るなと言われてますからね」
 他に炎症を起こしているかもしれないし、それが悪化して治癒が遅れたりしたらどうするのだ、とハボックは続けた。たかがインフルエンザではあるが、毎年死亡者が出ているのである。決して侮ってはならない流行病だった。
 正論である。
 ロイが心底嫌そうな顔をする。軍医の命令には軍司令官であろうとも無視することはできない決まりになっているが、承服しかねているのはよく見なくても判った。
 「何だよ、早く治したくないのか」
 と、エドワードが横から口を挟むと、ロイは今気付いたように視線を向けて来た。
 「何だ、鋼の、いたのか。ハボックの影に隠れて見えなかった」
 「何だと――っ」
 一気に激昂するエドワードをハボックが背後から抱きかかえるようにして押し留める。
 「まぁまぁ、大将、落ち着いて。相手は高熱で頭ちーぱっぱの病人なんだから」
 「誰がちーぱっぱだ」
 苦々しくロイが唸る。
 「お前ら、騒ぎに来たのならさっさと帰れ。私は休暇中だ」
 「重々承知の上ですって。だから、わざわざこうして様子を見に来たんじゃないスか。休暇が長引かないように」
 どうやら、ロイの机の上には未決済の書類が溜まっているらしい。処理が遅れればそれだけ下位の者や関係部署にしわ寄せがいく。仕事が滞れば、休み明けの恐怖が待っていた。
 「で、軍医からですが、食欲はどうですか」
 「昨日から何も食べていない。水を少々飲んだくらいだ」
 「結構。水は一日に二リットル以上を目安に取って下さい。快方に向かえば汗が出ます。発汗した分、水分が失われますから、水の補給だけは忘れないように。下手すると、脱水症状でER行きですよ。食いもんは、食いたくなければ食わなくてもいいです。無理に食ったら、胃に負担をかけますから、却って体に悪い」
 また人前でゲロしたくはないでしょう? とやんわりとした脅しをかけられ、ロイは鬱陶しそうに、それでも頷いた。
 「貴様は優秀な衛生兵になれるだろうよ」
 「俺を兵卒に降格させる気ですか」
 「それもいいかもしれんな。安月給でこき使ってやれる。六ヶ月の兵役義務が終わったら、とっととお払い箱だ」
 「そんなんだから、あんた、従卒に人気がないスよ」
 痛いところを衝かれたのか、ロイがげっそりした顔をする。さすがに使い捨てとは思っていないが、はっきり指摘されると辛い。それでなくとも、つい先日、ゲロの始末をさせてしまったばかりである。これでまた新たなリスト項目が追加されて兵卒の間で情報交換されてしまうことだろう。
 二人のやり取りを眺めながら、珍しいものを見ているのかもしれない、とエドワードは思った。寝汗も拭き取っていないような寝巻きはくしゃくしゃでボタンが一つ二つ外れ、汗ばんだ胸元が見えており、そこに痒くて引っ掻いたらしい、蚯蚓腫れになった爪痕が幾筋も残っていた。普段の、きっちりと軍服を着込んだ颯爽とした姿からはかけ離れた、だらしなくも落ちぶれたような格好だった。
 それだけ余裕がなく、やっと生きている状態だったのだろう。見たところ、きちんと面倒を見てくれる者もいないようだった。従卒は士官の身の回りの世話をしてくれるが、病人の看護やハウスキーパーまではやってくれない。
 それを反映するように、ハボックが軍医からの注意事項をくどくどと言い立てている様は、部下が上司を心配しているというより、ちょっとシメに来た、という感じだった。
 「判った。判ったからもういい。さっさと帰れ」
 不意にロイが不機嫌な声を上げた。ただでさえ気分が悪くて苛ついているというのに、それを増長させるようなハボックの態度にいい加減、腹を立てたのだろう。いつになく、ロイの言動は刺々しく乱暴だった。
 「大佐、うるさがってないで少尉の言うことを聞いたらどうなんだ」
 と、忠告するエドワードの声音も多少呆れたものとなってしまう。病院嫌いで医者嫌いの奴に言われたくはない台詞ではあるが、ハボックはそれに調子付いた。
 「そうですよ。その薬を飲むところを見たら、大人しく退散しますって」
 「お前らがいなくなったら飲む」
 「それじゃダメです。こそっとゴミ箱に捨てようたってそうはいきませんからね」
 結構頑固にハボックは言い張った。絶対に譲らない、という態度に、ロイが舌打ちせんばかりに苦り切っているところを見ると、過去にも飲む飲まないで揉めたことがあるのだろう。この様子だと、ゴミバケツの中まで漁って確認を取りそうだった。
 「大佐、薬嫌いなのか」
 「煩い」
 「どうでもいいから、さっさとやっちゃって下さい。小学生のガキにでもできることスよ。どーしてそんな簡単なことができないんスかね」
 「言われなくとも判っている。だから、帰れと言っているのが判らないのか」
 「判りませんね」
 二人の言い争い――愚にもつかぬ応酬を聞き流しながら、エドワードは肩を竦めた。余りに不毛である。無意識にコートのポケットに手を突っ込むと、ふと何かの事故のように、預かったままの薬包が指先に触れた。
 「そういえば、これ、大佐に渡さなくてもいいのか」
 と、疑問に思った時だった。
 「そうですか。それならこっちにも考えがあります」
 ハボックの口元がにやっと歪むのが、エドワードからもはっきりと見えた。不穏な色を隠しもしないそれは、ロイとエドワードに、同時に次の行動を示唆した。
 「よせっ」
 と、瞬間的にロイが逃げを打つ。が、その前にハボックがタックルするように抱きつき、圧し掛かり、ベットの上にロイを引きすえた。跳ね除けようとするのを巧みに押さえ込み、俯せにさせる。
 「やめろっ」
 ロイの抵抗をよそに、ハボックが言う。
 「エド、あれを寄越せ」
 「あ、あぁ」
 咄嗟に、ポケットから薬包を取り出す。が、慌てていたせいか、包の紙が剥がれ、中に収まっていた緑色のカプセル状のものだけが出て来た。構わず、エドワードはそれをハボックに放ってやった。
 「いい子だ」
 ぱしっと片手で受け取ると、ハボックは容赦なくロイの寝巻きのズボンを下着ごと剥ぎ取るように脛まで引き摺り下ろした。いきなり目の前にロイの裸の尻が披露される。
 思ったより白くて、熱のせいでピンク色に上気していた。
 恐らく、ロイにこんな無体な真似ができるのは、ハボックの他にいないだろうな、と動揺しながらもエドワードは思った。
 「やめないかっ」
 上官命令だ、とでも言い出しそうなロイの剣幕をよそに、ハボックはどこか手馴れた手つきでロイを俯せのまま膝を立てさせ、その中心部にカプセルを埋め込んだ。
 「……っ」
 「座薬です。これで熱が下がりますよ」
 指先でぐいっと奥まで突っ込むところを見てしまったエドワードは、さすがにいたたまれない気分になった。即座にくるりと回れ右をすると、二人から目を離し、とんでもない光景から遠ざかろうとした。
 「ついて来るんじゃなかった……」
 と思ったが、後の祭りだった。背後では、二人がぎゃんぎゃん言い争う声が聞こえていたが、この隙に立ち去りたい気分になる。
 そっと後ろを見遣ると、ロイがハボックに枕を投げつけたところだった。さっきまで高熱で寝込んでいたとは思えない元気さである。
 「も、いいよな」
 そう判断し、エドワードはそろっと忍び足を踏み出し、出入り口の方へと向かった。しかし、なかなか目にすることのないものを見せてもらった。帰ってアルフォンスに面白おかしく話してやろう、と密かに思う。
 そんな不埒なことを考えていると、いきなり呼び止められてしまった。
 「どこへ行く」
 「……っ」
 思わず、四肢がびくつく。明らかに憤慨したロイの声だった。
 「いや、もう用は終わったみたいだから、そろそろ宿屋に戻ろうかなー、と」
 「だったら、その前に水差しの水を取り替えて来てくれ。昨日からずっとここにあるヤツだから、不衛生極まりない」
 「そ、そうだな」
 何で俺が従卒のようなことをしなきゃいけない、とむっとはしたが、ここは逆らわない方がいいだろう。相手は病人だ、病人なんだから、病人なんだし、と繰り返し自分に言い聞かせ、不満は残ったものの、言われるままエドワードはベットに近寄ると、サイドボードの上に載った水差しを手に取った。赤と黄色のグラデーションで彩られた容器はシンプルなデザインにも拘わらず洒落た作りをしていたが、言われて見てみれば、埃っぽいような気がする。
 エドワードはそれを持ってとっとと寝室を出て行った。
 その後ろ姿を見送り、完全に気配が消えてから、ハボックはロイに向き直った。
 「さて、あんたに一つ聞きたいことがあるんスけど、いいですか」
 「何だ」
 苛々とロイが毛布を引き寄せる。さっさと不貞寝してしまおうというハラだろうが、ハボックはそれを許さなかった。
 「階段の踊場に敷いてあったマット、あれは何のお呪いですか」
 前に来た時は、なかったはずである。というか、居間のマントルピースの前に敷いてあったはずである。それが、どうしてあんなところまで移動していたのか、甚だ疑問だった。まさか、そこだけ一ヶ所模様替えなどということはないだろう。
 「エドの奴は気付いてなかったようですが、微かに消臭剤の匂いもしてましたっけ」
 どこか惚けたようにハボックは指摘した。むっつりとロイは黙ったままだったが、その沈黙は暗にハボックの想像を肯定していた。
 マットの下を捲ってみたい気はするが、やっぱり見たくない、と思う。無様に汚しておいて、それをマット一つで隠して放置しておくという神経がよく判らない。
 冗談で言ってはみたが、マジに後で従卒を呼んで大々的にハウスクリーニングを決行した方がよさそうだ、とハボックは思った。マットを被せているのがあそこだけとは限らない。
 それに、どうせろくに普段から掃除などしていないのだろう。そろそろここらでクリーンアップでもしなければ、せっかくの官舎が絢爛たる蜘蛛の巣の展示場と化してしまう。住居の手配をしてくれた総務部の連中を嘆かせるのは、余りにも気の毒である。
 「ま、それはいいです。それより、その寝巻き、着替えましょう。下着も。替えはどこです」
 「あっちのカラーボックスの中だ」
 「取って来ます」
 「着替えを置いたら、さっさと帰れ」
 着替えぐらい自分でできる、と言いたいのだろう。が、赤や黄色に着色されたカラーボックスの中から適当に紺色の夜着を持って来たハボックはこともなげに言った。
 「汗を拭きますから、全部脱いで下さい」
 「私の言ったことが聞こえなかったのか」
 「聞こえませんでしたねぇ」
 にやり、とどこか嬉しそうにハボックが笑う。ここで下手に嫌がれば、日頃の恨みとばかり、嬉々として服を剥ぎ取られるに違いない。思い返すまでもなく、これまでがそうだった。人に言えないことまでされてしまったこともある。
 「……」
 言いたいことも罵りたいことも山ほどあったが、ここで睨み合いをしていても始まらない。観念したように、やがてロイは着ていた寝巻きのボタンを外した。
 「湯を汲んで来ます。シャワールームは隣の隣でしたよね」
 まだ戻って来るなよ、と心の中でエドワードに呼びかけながら、ハボックは勝手知ったる他人の家で、洗面器にぬるま湯を張って戻って来た。片腕にタオルがかけられているのを見て取り、ロイは鼻を鳴らした。
 「強引だな、相変わらず」
 「優しい顔して遠慮してたら、いつまで経っても進展がないということが判ったんで」
 賢明な判断である。是非とも女の扱いにも応用して欲しいものである。そうすれば、少しはもてるだろうに。
 「好きにしろ」
 そう言うと、ロイは上半身裸の状態で、ハボックがするに任せた。
 「男前が台なしスよ。仕事に復帰する時はちゃんと無精髭、剃って来て下さい。ついでに散髪も」
 「判ってる」
 「ここの蚯蚓腫れ、爪痕みたいスね。誤解されないようにしないとやばいかも」
 「それはお前がつけたんだろうが」
 「まだ消えてなかったスか。そんな敏感肌でもないでしょうに。あーあ、はっきりくっきり残ってますね」
 「もう少し、加減するということは考えないのか」
 「夢中になると我を忘れてしまうもんで」
 悪びれることもなく、ハボックはしれっと言い抜けた。ロイにとっては忌々しい限りだったが、その報復は復帰後にすることにして、今はインフルエンザの熱から来る気分の悪さと怠さをどうにかして散らすのが先だった。起き上がろうとすれば、眩暈で立ち眩んで満足に歩くこともできず、不自由極まりなかった。
 ぐだぐだ無駄口を叩いているわりには、結構丁寧にハボックは濡れタオルでロイの体を拭い、昨日も一昨日も入浴していなかった肌をさっぱりとさせてくれた。
 「下も脱いで下さい」
 「ここはいい」
 「そっちの方が汗、かいてんでしょ」
 「股間には触るなよ。今はそんな気分じゃない」
 「鼠蹊部には触りますよ」
 言うなり、ハボックはロイを押し倒し、履き直したばかりの下衣を引き降ろした。やはりと言うべきか、関節部分や膝の裏はびっしょりと汗に濡れていた。
 「これ、気持ち悪くなかったんスか」
 「全然気がつかなかった」
 構うだけの余裕がなかったということだろう。毛布や敷布にまで汗が染み出しそうな勢いだったが、それすら気にならなかったらしい。
 「次は寝具を全部替えましょう。夜か、明日の朝、また来ますよ」
 病人は清潔にしているのが第一である。さすがに放っておけない、とハボックはため息混じりに肩を落とした。
 また余計な仕事が増えてしまった。
 「ああ、そうだ、ハボック。お前に頼みたいことがある」
 と、不意に思いついたようにロイがハボックを手招いた。
 「何スか」
 殆ど無防備に、ハボックはロイの前に身を屈めた。その金髪の頭を、ロイはぐいっと引き寄せた。
 そして、そのまま強引に口付けた。
 「ん……っ」
 すかさず舌先が唇を割り、ハボックの舌を絡め取る。いつもより熱っぽい感覚にどきりとする。が、二日ぶりのそれにゆっくり堪能する間もなく、ロイは素っ気なくハボックを突き飛ばすように離れて行った。
 その上で、無情な一言を言ってのけた。
 「エドに、このキスを届けてくれ」



 エドワードは一階のキッチンまで降りて行くと、冷蔵庫のドアを開けた。予想はしていたが、ドアポケットにペットボトルが何本か突っ込まれているだけで、あとは奥に特大のキムコが置いてあるだけという侘しい侘しい庫内だった。
 恐らくは、日々の食事は自分で作らず、外で全部済ませているのだろう。封を切った酒ビンのいくつかはホームバーの棚に並べられていたが、こちらも丁寧に扱われた形跡はなく、気が向いたら飲むという感じだった。
 他人事ながら、独身男の一つの典型だな、と一抹の寂寥感を感じながら、エドワードは適当に手前にあったミネラルウォーターを取り出した。
 が、ポケットから引き抜いたとたん、ペットボトルがするりと手をすり抜け、床にごとんと落ちてしまった。
 「うわ……っ」
 ペットボトルでよかった、と反射的に思う。ビンなら割れてしまっていたかもしれない。
 が、ほっとしたとたん、何故か虚脱感に襲われた。
 ぺたんと、どういうわけか、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。しばらくエドワードは限りなく空に近い殺風景な冷蔵庫の中を見つめ続けてしまった。
 嫌な感じがした。
 しかし、そこを動くことはできなかった。
 何がどうというわけでもないのに、すぐ戻ってはいけないような気がしたのである。漠然とした感覚に根拠などなかったが、ないからこそ無批判に従うことを潔しとしている自分に、エドワードは敢えて疑問を挟まないようにした。
 一〇分ほど、極めて台所らしくない台所で油を売って時間を潰し、やがてエドワードは水差しを手に階段を昇って行った。
 「遅かったな」
 「何ぐずぐずしてたんだ」
 ロイの寝室に入ると、二人から同時に文句を言われた。エドワードがいないうちに着替えたのか、元通りベットに横たわっているロイの夜着が先程とは違う柄になっていた。その顔色が幾分すっきりしたように見えるのは、いつの間に開かれたのか、開け放ったカーテンから差し込む明るい陽光のせいだろう。やはり、いくら眠っていたいからと言って、室内を暗くしてしまうのは良くない。
 「それじゃ、そろそろ引き上げるか」
 と、ハボックはエドワードが水差しを元の場所に置くのを見届けてからロイの枕元を離れた。
 「大佐、お大事に。また様子を見に来ますよ」
 「もう来るな」
 うんざりと、ロイが毛布を被り、しっしっと追い出すように手を振る。余程、人前で座薬を入れられるというのは屈辱的な出来事だったらしい。
 しかも、いくら小さくとも異物を突っ込まれると、その違和感が何時間も残って、不快なことこの上ない。かと言って、アナルの奥に入った物を自力で取り出すのは難しい。
 「何で、あんなに薬を嫌がったんだ。何か理由でもあるのか」
 玄関のドアを締め、クルマに乗り込みながら、エドワードは不思議そうに聞いた。あそこまで拒絶反応を示すのも珍しい。毒でも入っているかのような言いざまは、気にならない方がおかしかった。
 「以前、酷い目に遭ったことがあったそうだ」
 特に隠しもせず、ハボックは教えてくれた。
 「化膿止めだか何だか知らないが、怪我をしたついでに飲んでおけと言われて飲んだ薬が体質に合わなかったらしくて、一昼夜、上から下から出して戻してえらい目に遭って往生したんだとか。それっきり薬嫌いになっちまったってわけだ。羹に懲りて膾を吹くってヤツだな」
 「それであんな強硬手段かよ……」
 少しばかりエドワードはロイに同情したが、その反面、医者嫌いの自分にあそこまで無理無体を強いる者がいなくて良かったとほっとした。意地を張って言うことを聞かないと、アルフォンスは怒るし、エドワードに手を上げることもあるが、それ以上のごり押しはしない。ごり押しをすれば、ますます頑なになる性格を熟知しているからに他ならない。
 「ま、薬ってヤツが結構いい加減に処方されてるってのを聞いて、怖くなっちまったってのもあるんだが……」
 と、付け足しながら、ハボックはサイドブレーキを解除してクルマを発進させた。エドワードを乗せて東方司令部に戻って来てから、ハボックは思い出したように言った。
 「エド、お前さんに渡すものがある。ちょっと寄ってってくれ」
 「渡すもの?」
 エドワードは怪訝な顔をしたが、ハボックは遠慮なく後部座席のドアを開け、子供のように手を引いて司令部のエントランスへと入って行った。
 「離せよ」
 通りすがりの士官が二人を見てくすりと笑ったのに気付いて、エドワードはハボックの手を振り払った。
 「逃げるなよ。ほら、来い」
 横柄に顎をしゃくられ、一気にエドワードは不機嫌になったが、ハボックの後にはついて行った。
 「これだ」
 と、主のいないロイの執務室で、ハボックから手渡されたのは、一通の書類だった。
 「何だ?」
 目を落とすと、そこには数冊の書籍の名前と所蔵図書館の名前、整理番号、分類ナンバーが一覧表になってまとめられていた。
 「お前さんが行方を知りたがってた本のリストだ。エルリック兄弟が来たら渡しておけって大佐から言われてたからな。役に立つか」
 「ああ。サンキュ」
 願ってもない。諦めかけていた本のタイトルもあり、久々にエドワードは気分が高揚するのを感じた。
 「発つ前に、礼の一つでも言っておけよ」
 「寝込んでるのにか」
 「あと二日で職場復帰する。それを狙って来い。熱さえ下がれば結構けろっとしてるもんだ」
 「判った」
 面倒だな、とは思ったものの、イーストシティには一週間ほど滞在する予定であったため、そのうちに行けばいい、と思い直した。
 「それから、もう一つ伝言」
 「何……」
 と、エドワードが顔を上げた刹那、いきなりハボックに背中に垂らした三つ編みをぐいっと掴まれた。自然、仰け反るように顎が上がり、口が開く。
 そこへ、狙ったようにハボックは口付けた。
 「……っ」
 すぐにそれは離れてくれたが、突然のキスにエドワードはパニクった。
 「なっ、何しやがるっ」
 ハボックの手を振り払い、野良猫のように牙を剥き出す。その威嚇に、しかし、ハボックは飄然と笑って見せた。
 「悪く思うな。俺は大佐にキスを届けてくれって言われただけなんだからな。インフルエンザがうつっちまったらコトだろう?」
 だからと言って、何故ハボックを間に挟む。
 しかも、ディープキスした後で。下手をすれば、粘膜感染である。
 ──粘膜感染。
 妙に淫靡な響きのある単語に、ついついハボックは肩を竦めた。病欠の間はさすがに禁欲生活だが、それが終わって解禁になったら大いに楽しもう。
 「これでお前にインフルエンザが移ったりしたら傑作だな」
 「うるさいっ」
 口元を手の甲でごしごしと拭いながら、エドワードはハボックを睨むと、憤然として執務室を後にした。
 「また来いよ」
 という能天気なハボックの声を聞き流しながら。





END 2004,12,28