うわべだけ魅力的な報酬
喉が、ひりひりと焼け付くように痛い。
足も腕も重く、痺れたように怠い。
荒い息遣いで肩が激しく上下し、背中や首に生暖かい汗がつぅっと流れ落ちるのを鬱陶しく思いながら、エドワードは正面の闇を睨みつけた。
大振りの長槍を握り締めた左手がぬるついていたが、構っていられなかった。
「チクショー……っ」
まさか、こんなところに生き残りがうろついていようとは思ってもみなかった。
触媒である擬似羽が全て消滅した時点で、それを元に造られたキメラもまたこの世から消え失せたはずだった。それが、どういう天の気まぐれなのか、死ぬに死にきれなかったらしい二頭の巨大なキメラが廃墟と化したヒースガルドの片隅を徘徊し、街の残骸を踏みしだいていた。そして、闖入者であるエドワードの姿を認めるや、文字通り猛獣の雄たけびを上げて轟然と襲い掛かって来たのである。
もっとも、衰弱しているのは見れば判った。が、だからと言って、その獰猛さや無謀さが鈍麻したわけではない。寧ろ、自暴自棄の凶暴さが加味され、以前にも増して荒々しさそのものが全身から発散されているように見えた。
運の悪いことに、この時エドワードは一人だった。いつもなら一緒にいるはずのアルフォンスは、軍の施設のあるノイエヒースガルドの駅舎にいる。
そこに残して来い、という命令だった。無論、下令したのは、キメラ事件の後始末を任されたロイ・マスタング大佐である。
「あんのバカ野郎、今度会ったら、ぶち殺してやるっ。どこを見てこの事件が終結したなんて言うんだ」
物騒な台詞を吐き捨て、エドワードは乱暴に口元を拭った。まさかロイがこんな事態を予測していたわけではなかろうが、瓦礫の転がる街中をさんざん逃げ回った挙げ句、あちこちぶつけたり転んだりした後ではそんなささくれた気分にもなる。
微かに血の臭いがし、どこか怪我をしているのだと知ったが、構ってはいられなかった。
否、流血しているのは、目の前にいるキメラの方かもしれない。何度となく刺突し、それなりの手応えはあった。が、その皮膚は鋼鉄のように硬く、致命傷を与えたとは思えなかった。今もまた、キメラは鈍重そうな体躯にも拘らず、足早に確実にエドワードに近付いて来ようとしている。
体力的に、先に果てた方が負けだった。
今更、死に瀕するキメラがエドワードをどうこうしようという気はないのだろう。ただ、逃れられない運命に追い詰められた刹那、たまたま視界に入った獲物を押し潰すという、一種自虐的な行動に出ているだけだった。
注意深く相手の位置を探りながら、エドワードは緊張で震える長槍を構え、相手の接近に備えた。穂先の刃が毀れているのが見えたが、錬成し直している暇はなかった。体当たりでもされたら、一巻の終わりである。
「くそっ」
短く罵ると、眼前の闇の向こうにはっきりと輪郭の見えたキメラに向かって、エドワードは挑発的とも言える視線を向けた。巨体との距離は数十mもなかっただろう。
小走りに近付いて来る足音が、ターゲットを見定めたのか、急に早くなる。
「やるしかねーか……っ」
一か八か、エドワードは助走をつけて踏み込むと、その勢いをかって思いっきり槍を前方に突き出した。
ガキッ、と何かがぶつかる鈍い音とともに、月光に煌めいた穂先が砕けて宙を飛ぶのが見えた。頭部の硬い部分に当たってしまったらしい。
しまった、と思う間もなく、キメラが方向転換する。
闇の中でも血走った両眼が垣間見え、その狂気まがいの気迫についエドワードは息を呑んだ。もう先がないと悟った生物はとてつもなく強大な力を振り絞り、闇雲に悪足掻きする。失うものが何もない、それそのものを見せ付けられた一瞬だった。
再び迫り来るキメラとまともに対峙する間もなく、咄嗟にエドワードは手元に残っていた槍の柄を横に薙ぎ払った。否、脇の岩か石壁にぶつかり、咄嗟に下から上へ斜めに突き刺す形になってしまった。
瞬間、ぐうっと何か柔軟性のあるものに押し戻される感覚が全身を揺さぶる。予期していた硬い感触とは違う手応えに、何が起こったのか判らず、エドワードは酷く戸惑った。が、決して軽くはない弾力と、それを突き破ったような、不気味な感覚が続いた。それとほぼ同時に低く唸るような咆哮が響く。
手にしていた槍にぐっと重みがかかり、その加重に耐え切れず柄がぼきりと途中で折れてしまった。
しまったと、と思ったエドワードは、しかし、眼前の光景を目にして身を震わせた。
折れた槍の先が下腹の柔らかな部分に深々と突き刺さっていた。内臓を収めた腹部には、伸縮性に富む皮膚があるだけで頑丈な筋肉も骨もない。偶然にもエドワードは急所を抉ってしまったらしい。
死に際して、獣が最期に見せる光だったのか、獲物を捕捉したはずの赤い目がすーっと濁って色を失う。
「あ……」
ずずんという重々しい地響きを伴い、キメラが倒れる。
びくびくと四肢が痙攣し、石ころだらけの地面に吐血したらしい鮮血が流れた。槍を引き抜いてやれば、大出血の挙げ句、瞬時にして絶命するだろう。が、とどめを刺す前に、エドワードはその場にへたり込んだ。さすがに一人で重量級のキメラを相手にして息が切れていた。
やった、という思いは、しかし、すぐに疑問に塗り変わる。
「何なんだ、こいつ。消えねーじゃないか」
エドワードが目にしたキメラはどれもすうっと空気に紛れるように消滅していったはずである。きれいななくなり方を見慣れていたせいか、いつまでも骸を晒している始末の悪さに違和感を覚えた。遺伝子の突然変異でも起こったのか、人為的に組み換えでもされていたのか、それとも、別の要因があるのか。
「どうなってんだよ……」
こんな時でも頭を擡げる錬金術師らしい好奇心を宥めすかしながら、しばらく腰を落ち着けようとしたエドワードは、しかし、背後から別の何かが近付いて来る気配にぎょっとした。
「まじい、もう一匹いたんだった」
即座に立ち上がり、武器になるような物を探す。が、折れてしまった槍がキメラの腹に突き立っているばかりで、武器に錬成できそうなものは何一つ見当たらなかった。周囲にはごろごろと岩や瓦礫が転がっているだけ。ここで土壁を錬成してもただの時間稼ぎにしかならず、その場限りなのは目に見えていた。確実に仕留めなくては、足が動く限り、どこまでも追いかけて来るだろう。どうしても武器がいる。
「くそっ、引っこ抜くには時間がないっ」
キメラに突き刺さった槍の成れの果てを見て、エドワードは呻いた。いったん異物を咥え込んだ筋肉は収縮してきつく締まる。キメラ本体は死んでしまっても、しばらくはそのような生体反応が起こるため、槍を取り戻すのは至難の業……、否、不可能だった。
「こりゃ、逃げるに如かずってか」
早々に決断すると、エドワードは逃げ場を探して周囲を見回した。が、時を置かず困惑することとなる。エドワードがいるのは緊急避難用に掘削されたらしい地下道の中で、そこは狭い一本道になっていたのである。この先数十mで行き止まりになっているのは、風が来ないことからすぐに判った。想像するまでもなく、天井が崩落して埋まっているのだろう。
「やべぇ……」
ここでぐずぐずしていては、あの太くて重い四肢に押し潰されて圧死するか、角か鼻先に引っ掛けられて壁や地面に叩きつけられるか、いずれにしろ悲惨な結末になってしまう。全くもってご免被りたい最期である。
「こうなりゃあの手だ」
そう決心すると、エドワードは猛然と、近付いて来るキメラの方へと走り出した。
図体がでかいということは、それだけ体高があるということである。運がよければ、四肢の下を潜り抜けて反対側に出られる。その先は後も見ずに駆けて行けばいい。何とか振り切るだけの余力はまだあった。
チビでよかったとはおくびにも出さず、エドワードは正面衝突しかねない勢いでキメラに向かって突進し、その四肢の隙間を計測した。
無論、目測で。
そして、瞬時にして、通り抜けが不可能だと悟る。
先程のキメラよりも小柄な体躯の持ち主が、そこにはいた。当然、腹の下の隙間は低い。しかも、大型のものより動きが俊敏で、足も早い。
慌ててブレーキをかけたエドワードは、心の中で身の不運を嘆いたが、後の祭りだった。
「チクショー、こんなところでくたばったら、地縛霊になって七代祟ってやるからなっ」
悔し紛れの罵倒が地下道に反響する。
突然、その声に驚いたように、キメラが前足を上げて威嚇した。
否、威嚇したように見えた。
「あ……?」
次の瞬間、闇がぱっと明るく照らされた。
一瞬、何が起こったのか判らなかったが、続いて起こったキメラの断末魔の悲鳴と、かっと頬を焼く焔の熱で情況を把握した。むっとするような熱気と肉の焼け焦げる臭いが一気に坑道内に充満し、エドワードは吐きそうになった。
恐らく、瞬時の温度は二〇〇〇度以上に達していただろう。体重一tはあったキメラが灼熱の白炎に包まれ、厚い皮膚が黒く焼け爛れて捲り上がるのが見えた。その刹那、高熱で膨張した頭部が爆発するように砕け散り、よろめいた胴体がバランスを崩して地面に倒れ込んだ。巨体がバウンドする鈍い振動が二度三度と洞内に響き渡る。
「……っ」
エドワードは瞠目した。ぴしゃぴしゃと己れの体や足元に沸騰した脳漿の雫や鮮血が降り注ぐという凄惨な光景もさもさることながら、このような惨殺行為をものともしない人物の接近に。
「こんなところで道草を食っているとは思わなかったぞ」
と、呆れたような男の声に、エドワードは助かったという安堵を感じるよりも、ぐいっと生意気盛りの顎を持ち上げた。
「うるせぇ、こんなの俺一人で充分だぜ、大佐」
「そのわりにはズタボロのようだな」
酷く冷ややかな声だった。こんな姿は死んでも見せたくない相手だったが、ロイ・マスタングはそれを知ってか知らずか、発火布の手袋をした右手を無造作に軍服のポケットに突っ込むと、ついて来いとばかりに肩をそびやかした。
相変わらずの、冷淡な態度だった。ロイは、擦り傷だらけで血まみれのエドワードに労わりの言葉も慰めも言わない。求められていないから、というのもあるが、それが何の利益にも宣撫にもならないことをよく知っているからだろう。
「くそっ」
勢いをつけて立ち上がると、すでに歩き出しているロイの背中が見えた。
その傍らには、当然のようにハボック少尉が佇んでいる。いつも通り、くわえ煙草のスタイルで。ハボックもエドワードに声をかけるような余計な真似はしなかったが、その口元が面白そうに歪められているのは遠目にもよく判った。否、はっきりと楽しそうな嘲笑の色が浮かんでいた。
「そうだろうよ」
と、身に着いた血泥を適当に払い落としながらエドワードは歯を食い縛る。こんな時間にロイが呼んでいるから来いと連絡を入れ、強引に駅舎から引きずり出してくれたのも、危険を避けるためと称して辺境軍司令部への道筋まで懇切丁寧に教えてくれたのも、ハボックだったのである。
安全と思われていたルートでこんなアクシデントに見舞われていれば、愉快なことこの上ないに違いない。それでなくとも、エドワードはロイの部下達に快く思われていなかった。国家錬金術師という正規の軍令機関には属さない部外者であるくせに、トラブルだけは頻繁に起こしてくれる厄介者にいい印象のあるはずがない。感情的なコントロールが今イチのところでできないらしく、関わるべきでない領域にまで手を出して、後戻りのできない不祥事にまで発展してしまうことも珍しくなかった。それで何度尻拭いさせられたことか。
特に、ユースウェル炭鉱での一件は致命的とも言えた。重要な軍需物資ともなるエネルギー源の採掘権を軍の管理から隔離し、勝手に二束三文で民間に払い下げてしまうなど言語道断である。いくら正式な譲渡契約書があると言っても、それは手続き上のやり取りにすぎない。書類上の問題はなくとも、この件でどれほどロイが管轄の兵站部や関係幕僚から叱責されたことか。
余計な仕事を増やしてくれるだけでなく、出世のための手駒になるどころか足手まといになりかねない存在に、ロイの周囲からの目は冷ややかだった。
今回のヒースガルドでの事件でもまた決定的な物証を破壊してしまったため、やはりハボック以下将校達の印象はますます悪くなっていた。ロイの、上層部への釈明が手間取るだろうし、始末書も書かなくてはならない。これでお偉方への覚えもめでたくなり、昇進も進級も阻害されてしまいかねないと思えば、暗澹たる気分にもなる。
「何をしている、鋼の。早く、来たまえ」
地下道にロイの容赦ない声が響く。エドワードは湧き上がる恥辱と屈辱感を押さえ込みながら、がくがくと今になって笑い出した膝を誤魔化し、何とか前へ歩き出した。
ロイ達東方司令部の面々が一応の落ち着き先として、また宿舎として居座っているのは、ネムダ准将の蟠居していた辺境軍司令部の建物だったが、そこまでの道のり、三人は一言も口を利かなかった。
「それでは、本題に入ろうか」
と、これまではネムダ准将が使用していたであろう司令官のための執務室に入ると、ホークアイ中尉が待っていた。敬礼を返礼で返し、正面のいかにも重厚そうな机に座ると、ロイは口火を切った。
「今回の事件を報告書として中央の軍司令部に提出しなければならない。だいたいのあらましはホークアイ中尉がまとめ上げてくれているが、正確を期すために、君からも報告を聞きたい」
「ここでいきなり報告書を書けってのかよ」
のっけからエドワードは反抗的だった。時刻はすでに宵の口を過ぎて、夜更けへ移ろうとしている。あとは寝るだけであったのに、これから仕事を手伝えと言われては、一気にご機嫌は斜め方向に滑り落ちて行ってしまう。
「いや、何もわざわざ文書にする必要はない。口頭で、君が見たこと聞いたことをありのままに話してくれればいい。あくまで事件の補完、もしくは整合性を取るためのものだ。だから、ここで君の喋ったことは文書にも記録にも残さない。君達兄弟がヒースガルドを訪れたのは、本当に偶然なのだからな」
ただし、メモはとらせてもらう、とロイは窺うように言った。ホークアイが早速手帳を取り出すのを横目で見ながら、エドワードは嘆息した。一応、軍の狗の自覚はある。拒否する理由はなかった。
しかも、ドアの前には大型シェパードのようにハボックが立ちはだかっている。ここで嫌だと断っても、外には出してもらえないだろう。
しかし、関係者を極力排除した証言要請という形は、まるでエドワード一人が尋問され、糾弾されているかのようだった。
嫌が上にも、無言のうちに責め立てられているような緊迫感が圧し掛かってくる。誓って、良心に恥じるような真似はしていないが、まるで弾劾されている気分だった。
「判った。だけど、俺はヴィルヘルム教授の研究にはタッチしてない。それに終盤での飛び入りだ。役に立つような手持ちの情報は何もないぜ。事件の全体像なら、あんたらの方がよく――」
「それは承知の上だ」
いいからさっさとやれ、とばかり、ロイの態度は素っ気なかった。その高圧的な態度にはむかっ腹が立ったが、早く片付けたいのはエドワードも同じである。
「何から話せばいいんだ」
諦めたように手近なソファに腰を降ろし、わざとらしく足を組む。黒いジャケットもズボンも白くなるほど泥と汗で汚れ、高価そうな革張りのソファには甚だ不釣り合いだったが、構うことはない、とエドワードはいつものふてぶてしさで応じた。ロイも、敢えて注意しない。否、どうでもいいようだった。
「まずは、ノイエヒースガルドに到着してからのことだ」
と、ロイは椅子から身を乗り出し、執務机の上で両手の指を組み合わせると、エドワードの報告を聞くべく、それなりの姿勢をとった。
しかし、後味の悪い事件だった。結局のところ、死人に口なしとばかりネムダ准将はヴィルヘルム教授に全ての責任を背負わせて己れの罪を免れることだろう。首謀者であるグレダがその存在自体を抹消しているため、確実な証言は得られず、物証となるものも裏付けも何もない状態だった。恐らくは、ロイが適当に話を繋ぎ合わせて集結させることになるだろう。
それがあからさまに察せられるがため、ついついエドワードは反抗的になった。
「いいのかよ、長くなるぞ」
挑発的な口吻に、しかし、ロイは全く取り合わなかった。
「君には何も期待していない。参考に聞くだけだと言ったはずだ」
「そうかよ」
だったら、わざわざ呼ぶな。そう毒づきながらも、エドワードはガンツと出会ってからのあらましを話し始めた。もっとも、列車を横転させて鉄道を不通にしてしまったことは除外して。
エドワードが話していたのは三〇分くらいだっただろう。その間、ロイは一切口を挟まず、時折り頷いたり相槌を打ったりするだけだった。無論、ホークアイもハボックも無言だった。
それが酷く重苦しい。
いっそうの座り心地の悪さをひしひしと肌に感じながら、それでもエドワードは何とかアルモニとの別離までを話した。
「……成る程、要するに、君は余計なことをして、彼女の寿命を縮めてしまったわけだ。父親である教授の制止があったにも拘わらず」
呆れたようにロイが言い放ったのは、エドワードがもう終わりかと腰を浮かそうとした刹那だった。
「何だよ」
あんたに咎められる筋合いはない、と言わんばかりにエドワードは不機嫌な視線を差し向ける。ぶしつけで無遠慮な仕種に、しかし、ロイは大仰に嘆息して見せた。
「どうして、人の言うことが聞けないのだろうな、君は」
「別にいいだろ、そんなこと」
「君にとってはどうでもいいことだが、はた迷惑になることを考えなかったのか。教授が禁止しているにはそれなりの理由があったはずだ、と。錬金術の才能がない……、そんな馬鹿な理由で禁止するものかどうか、見極められなかったのは君のミスだ。錬金術の才能がないなら、他の才能を開花させてやろうとそれなりの学校へ行かせるなり習い事をさせるなりするのが、親としての務めではないのか。監視するように手元に置いておくことに疑問を感じないのはどう考えても不自然――」
「嫌味を言うのなら、もう帰るぞ」
せっかちなことに、ソファから立ち上がったエドワードは身を翻そうとした。小言や皮肉も聞きたくないが、さっさとこの場から立ち去りたいのが本音だった。ハボックの侮るような荒涼とした視線にこれ以上晒されているのは、居心地の悪さ以上に嘔吐しそうな不快さを感じる。
が、敢えてロイは引き止めた。
「個人的に、今回の事件をどう思った」
「胸クソ悪いぜ」
余りに率直な意見に、ロイが失笑する。
「そうだな。私も気分が悪い」
どこが、と聞き返したくなるような平然とした表情で、ロイは頬杖をついた。その気障っぽい仕種が酷くエドワードの癇に障った。
チッ、と舌打ちすると踵を返した。挨拶もなしに背を向けようとする無礼なその横顔に、しかし、ロイは呼びかけた。
「だから、もっと気分を悪くしてあげよう」
「ふざけんな」
そんな戯言に付き合っている暇はない。エドは憤然として出入り口の方へ足を向けたが、ドアの前に立っていたハボックは、そこを動こうとしなかった。
「どけよ」
「まだ大佐の話は終わってない。戻れよ」
「うるさい」
恫喝するように、エドワードが唸る。が、ハボックはひょいと肩を竦めて見せただけだった。ロイ以上に食えない奴だと思い知らされたのはつい最近のことだったが、わざとそれを強調するような態度には憎悪すら感じる。
「鋼の」
再度、ロイが呼ぶ。
「くそ……っ」
口の中で罵り、エドワードは回れ右をした。
「だったら、さっさと済ませろよ」
「君に見せたいものがある」
ロイは机の上に置かれた書類を取り上げ、エドワードの鼻先に突き出した。
「読んでみたまえ。先月、国家錬金術師機関から配布された研究レポートの一部だ」
五枚綴りの書類を奪い取るように受け取ると、エドワードは書面に目を走らせた。仏頂面で文字を追っていた顔が、しかし、次第に強張り、やがて呆然とした表情に切り替わる。
「これって……」
顔を上げたエドワードに、ロイが不敵とも言える笑顔を見せ付ける。してやったりという顔だった。
「ミネラルの研究をしていた分子物理学の科学者が行った、水とミネラルに関する結果報告書だ。ミネラルを溶媒とし、水を媒質とした場合、いかなるミネラルもその持てる性質を変化させることはないということが判った。シリケート四面体となって分子の状態で水の中に存在することになるからだ。分子がばらばらに分解されて水に溶け込むというこれまでの定説がひっくり返ったわけだな。しかも、このミネラル水を触媒として用いた場合、その作用はただの水と比較すると、一万〜一〇万倍ともなる、ということだ」
早い話、ヴィルヘルム教授の研究の欠陥を指摘する事実がそこにあった。賢者の触媒を錬成するために、教授はエーテルフラウを原料とした擬似羽根使っていたが、触媒としての作用が不均等で失敗続きだった。教授自身が認めていたようにエーテルフラウ自体が不安定で個体差の大きい花だったせいなのだが、要点はそこではなかった。安定した優良な素材を手にしたいのなら、着目すべきは花ではなく、その花を咲かせている土地に含有される鉱物――ミネラルだったのである。
「つまり、エーテルフラウは無用の長物だった、と?」
「そういうことだ」
残酷なことを、ロイはさらりと言う。
「教授は無駄な努力を積み重ねて成果を出せずに終わったということだ。しかし、独学で研究をする者がよく陥る罠でもある。いくら優秀な科学者でも、独りだとどうしても視野狭窄症に陥り、自分の導き出した仮説に固執して、他者の意見を聞かなくなる。いや、聞く機会が極端に少なくなると言った方が正しいな。知識の広がりが制限され、新たな発見に接するのも遅れてしまうわけだ。気の毒なことだが」
エーテルフラウに拘らず、もっと早くに触媒の原料を鉱物に切り替えていたら、研究の成果も違ったものになっただろう。今となっては遅きに失したが、アルモニの運命も変わっていたかもしれない。
「このレポートはレジメだな。全文はどこにあるんだ」
「中央の第一研究所で行われた実験だから、そこの許可をとるのが先だ。興味を引かれたというのなら、閲覧できるように手配してやってもいい」
「代償は?」
「この研究に関するレポートを提出してもらう。期限付きだ」
「デキがよければ、あんたのキャリアに貢献できるってわけだ」
「君のキャリアにもなる。査定の際に考慮されるから、来年が有利になるぞ」
「判った。レポートを書けばいいんだな」
どうせ、このまま中央へ向かうのである。まずは中央図書館へ行ってマルコーの研究書を探し出さなくてはならないが、レポートを書くくらいの時間的余裕はあるだろう。
「そのレジメは持って行っていい。今後の参考にしたまえ」
「参考?」
ミネラルの研究など、エドワードの専門分野ではない。もらっても仕方のないものを押し付けられ、きょとんと振り返ったエドワードに、ロイはしれっとして言い放った。
「そのレポートの後半に書いてあるだろう。ミネラル溶解の実験をしていたら、無機物から偶然にもアミノ酸の前駆物質である有機物の生成に成功した、と。その研究が進めば、自然状態での蛋白質発生の解明に繋がるだろう。蛋白質の生成ができるなら、生命体の元となる細胞のようなものも発生させることができるかもしれない。すでにその研究に取り掛かっているそうだ」
「……っ」
ショックを受けたように、エドワードが口を開く。が、咄嗟に言葉が出て来なかった。あくまで可能性のレベルではあるが、蛋白質の前段階が生成できたならば、いずれは試験管の中から人工の生命体が生まれる日が来ると言っても過言ではない。
「有機物がこの世に存在する前は、ミネラルのような無機物が海に浮遊しているだけだった。この研究が進めば、無から有が生じる瞬間が見られるかもしれないな。コアセルベートよりずっと現実的だ」
面白そうにロイが解説する。ロイにとっても専門外の分野ではあったが、人工の生命体発生などという劇的な研究に好奇心がそそられないわけがない。
「それにしても面白い。生物学者が何百年もかけて研究して、どうしても得られなかった成果を全く畑違いの物理学者がやり遂げたんだ。時には、専門外の知識や手法を応用することも大事だという教訓だな」
「ああ」
反論する余地もなく、エドワードは頷いた。この辺りはさすがに科学者の意見である。が、それも束の間、後に続いた台詞にかっとなった。
「よかったな、君は国家錬金術師で。お陰で、こういう最新の研究にもすぐ接触できる。見栄を張って一人で研究を続けているのとは雲泥の差だ」
「どういう意味だ、それは」
「私の方からは以上だ」
もう帰っていい、とロイが顎をしゃくる。いきなり肩透かしを喰らい、エドワードは戸惑った。憎らしいほど巧みに、ロイは情動の矛先を逸らしてしまう。スマートなやり方だというのならその通りなのだろうが、エドワードにとってはムカつくだけの、いけ好かない応対だった。憤然と、書類を手にしたまま今度こそ足音も荒く、ドアの方へと向かった。
「中尉、明日までに今回の件を報告書にまとめたまえ」
「今からですか」
虚を突かれたようにホークアイが言い返すのを聞き流し、エドワードはハボックに、どけよと呟いた。
「我々は明日の朝ここを発つ。それまでに仕上げろ。時間がないぞ」
「え、でも……」
「聞こえなかったのか」
「いえ……、判りました」
背後から聞こえるホークアイの硬い声に、エドワードは少しばかり同情した。これで今夜は徹夜作業決定である。中央か憲兵隊本部からさっさと報告を上げろと急かされているのだろうが、しわ寄せを被ったホークアイが気の毒だった。
「鋼の」
ドアノブを握って回した時点で、またもやロイがエドワードを呼び止める。
「何だよ」
「一人では危険だ。ハボック少尉に駅舎まで送ってもらいたまえ」
「余計なお世話だ」
子供扱いするなと即座にエドワードは断ったが、虚しい抵抗である。ロイの台詞は殆ど命令と変わらない。上意下達式が徹底した組織の悲しさで、上官の命を受けたハボックには、文句一つ言わずに任務を遂行する義務があった。
ぶつぶつと不平不満を漏らしながらも、エドワードは解放された安堵とともにとっとと司令部を出て行った。
「ついて来るな」
司令部のエントランスを出るや、エドワードは警戒心も敵愾心も剥き出しにして、ハボックを追い返そうと怒鳴りつけた。
「おいおい、俺だって好き好んでお前の護衛なんかしているわけじゃないんだぜ。命令じゃなきゃ誰がお前みたいな凶暴なガキのお守りをするかってんだ。暴漢が出たら反対に叩きのめしちまうような奴によ」
飄然と、しかし、しっかりとエドワードが駆け出した後を追って、ハボックはぴったりとくっ付いて来た。認めたくはないが、いくらエドワードの足が速くてもハボックの長い足から繰り出される歩幅の広さには敵わない。最初から勝負は見えていた。
「諦めろって。ここで俺が帰ったら、命令違反だ」
「俺の知ったことか」
いても大して役に立ちそうにないくせに、とまでは言わなかったものの、エドワードはハボックの存在を無視するようにさっさと先に進み、数分後には殆ど走っていた。
「待てってば。扱いにくい奴だな。これから長い付き合いになるんだ。そう素っ気なくするなよ」
「何が長い付き合いだ」
「中央にしばらく滞在するんだろ。俺がお前と大佐との連絡役に指名されたんだ。色々と渡すものがあるからな。あっちに着いたらまたすぐ顔を合わせることになるぜ」
「……っ」
弾かれたように、エドワードが振り返る。
「連絡役だと?」
「誰かがやらなきゃいけねぇだろ」
当然のようにハボックが言い抜ける。エドワードはうんざりしたが、確かにそういう人間は必要である。どうやらロイは、糸の切れた凧になってまた余計なトラブルを起こしてくれる前に、紐でしっかりと繋いで監視しておくことにしたらしい。
もっとも、その裏には別の意図も見え隠れしている。それが即座に察せられたエドワードは悔しげに唇を噛んでハボックから視線を外した。
これからエドワード達が向かう中央には、ヒューズ中佐がいる。ロイとはただの親友でないことは知っていた。早い話、東部から会いに行くため、体のいい口実に使われるのだ、とエドワードは思った。
その姑息さを、ハボックとて知らないわけではない。が、平然と受け流す態度に、理不尽と言われようと無性に腹が立った。
「……」
何気なさを装いながら再び歩き出すと、エドワードは強引に思考を切り替えた。
そろそろキメラに襲われた場所である。同じ道を通っても大丈夫だろうか。生き残りがあの二頭だけとは限らない。
「どうした。そっちへ行くのか」
からかうように、ハボックが立ち止まってしまったエドワードの背後に立つ。視線だけで見遣ると、ハボックが懐から出した煙草を口に咥えたところだった。ライターで火をつける仕種が憎らしいほど手馴れている。
最初の紫煙が夜風に靡くのを横目に、エドワードは闇に沈む街の成れの果てを見渡した。
この先で道は二手に分かれている。片方はヒースガルドを横断して流れる川に架かる橋を渡るルートで、もう片方は街中を突っ切るルートだった。来る時は、思いっきり街中を突っ切った。最短距離だから、という単純な理由でこちらを通るようハボックに指定されたのであるが、とんだ災難に遭ってしまった。
「右を行くのか」
右は橋を渡る方である。
「またキメラとご対面しちまうのはご免だからな」
「それはいいが、そっちの橋はかなり傷んでるって話だぞ。重量級のキメラが何度も橋を渡ったらしくてな、橋梁がぐらぐらしてて、ちょっとした振動でも橋げたが落っこちても不思議じゃないと、憲兵の奴らが言ってたっけ」
「そういうことはさっさと言えよ」
「悪かったな。しかし、まぁもう一回くたばり損ないの始末ができると思えば税金ドロボーの汚名も晴らせる。よしとしようぜ」
ふーっと煙を吐き、全く悪びれた風もなくハボックが笑う。作為的なそれに、ついついエドワードは嫌な勘繰りをした。
本当に、ハボックは生き残りのキメラがいることを知らなかったのだろうか。
事前に知っていながら誘い出したのだとしたら……?
が、エドワードはそれを無視する形で歩き出し、行きと同じルートを辿る道を選んだ。いくら邪魔者扱いされているとはいっても、事件にかこつけて始末してしまうほど目の仇にされているわけでも、排他主義が徹底しているわけでもない。始末するなら、もっと他に利口な方法がある。ロイならば、曖昧な証拠も残さず完璧な抹殺計画を立案してくれることだろう。
「そういや、大将。大佐に助けてもらった礼、言ってなかったな。後でいいから、ちゃんと頭下げとけよ」
「うるせぇ」
そう言い捨て、エドワードは自分が落ちた地下道への裂け目を避けながら、歩きにくい街路に沿って移動した。かつてはかなりの人通りのあった繁華街も真っ暗な廃墟となってしまっては、虚しく危険なばかりだった。
「この街が復旧して、また人が住めるようになるのは、いつのことだろうな」
「俺の知ったことか」
「冷たい奴だな」
呆れたように肩を竦めるハボックを意識の外に追い出そうとした時だった。
「おい」
と、不意に低く沈んだハボックの声に呼びかけられた。背筋が震撼するほど酷薄な声に、エドワードはぎくりと足を止めた。
「いい加減にしろよ」
「……」
まるで、犯罪者にでも対するような口吻だった。
恫喝を秘めた低い声音に、エドワードは聞き覚えがあった。否、思い出したくもない記憶がいきなり蘇る。
が、エドワードはそれを無理矢理押し殺した。
「……判ってる」
意地でも弱みを見せまいと、振り返ったエドワードがハボックを睨みつける。街灯一つない闇夜の中でも、金色の双眸が強い光を宿しているのが見て取れた。それを、ハボックは陶然と受け止めた。それでこそ、鋼の錬金術師である。
数週間前も、そうやってエドワードはハボックをねめつけていた。
ベットの中で。
色気のないことこの上なかったが、不条理な暴力を受ければ当然の反応だった。エドワードは酷く戸惑い、激しく抵抗したが、最後まで助けを呼ばなかった。
もっとも、声を出すな、と予め釘を刺したのはハボックだった。何せ、いつ誰が入ってくるとも限らない、仮眠室の中での出来事だったのである。一応、蚕棚のようなベットには余計な光が入らないようカーテンが引かれていたが、不審な物音がすれば、そのまま通行人に聞かれてしまう可能性があった。どうかしたのかと覗かれでもしたら、取り繕う術はない。
唇が切れて血が滲んでも、あらぬ激痛に晒されても、エドワードは行為の間ずっと声を出すより遥かにマシだと言わんばかりに、ハボックにきつい視線を送りつけた。
射殺さんばかりのそれは、気の強さも情の強さも並ではないと確信させるのに充分だった。不用意に触れれば、冗談抜きで機械鎧の右腕で切り刻まれそうな凄絶さにぞくぞくした。下肢を引き裂かれ、本来ならば絶叫せんばかりに身も世もなくのた打ち回っていただろうに。
ハボックが無事に閨から出られたのは、陵辱の後、エドワードが満足に動けなかったからにすぎない。もし、体が自由になっていれば、どうなっていたか判らない。それでなくともコトの後、エドワードはハボックを激しく罵倒し、殴りつけようとした。
ろくに歩けなかったというのに、自力で室を出てアルフォンスの待つ宿まで戻ったと知った時は、感動すらした。さすがに伊達に波乱の人生を送ってはいない。痛みに慣れているというのも出任せではなかったらしい。もっとも、それ以前の負けん気の強い性格故もあるのだろう、何の偽りも誤魔化しもなく、誰にも絶対屈しないと宣言する視線には敬服の念すら覚えた。
三年前、ロイもこの瞳に魅了され、賭けてみる気になったのだろう。現在のところ、その読みは期待通りだったと言えるが、とばっちりも相応に激しかったのは、予想外だった。
「だが、まぁ安心しろよ。あんな乱暴なのは一度っきりだ」
そう願いたい、と応えようとしたエドワードは、しかし、その言葉を全く信用していなかった。ハボックの口調が余りにも軽い。何か含んだ言い方に、深読みせずにはいられなかった。
「何だ、その納得いかないって顔は。俺を信用しろよ」
「できるか」
背を向けるエドワードに、くくっとハボックが笑う。
「だったら、ちゃんとイクまで手ほどきしてやろうか。お前が喉を仰け反らせて悶絶するのをしっかり見届けてやる」
「そこまで飢えてるとは知らなかった。男にまで手を出すなんてな」
「お前だって、やってみたかったんだろ。興味なかったなんて言わせねぇぜ」
「……っ」
びくり、とエドワードの肩が震えたが、振り返りはしなかった。二度と足を止めないと言わんばかりに歩き出すエドワードに、己れがかなりの図星を突いたのだとハボックは確信した。
「そう邪険にするなよ」
いつの間にか追いついていたハボックは、追い討ちをかけるようにエドワードの肩に手をかけ、ぐいっと引き寄せた。
to be continued 
本格的に鋼の長編を書いたのが、この小説だったと思います。しかし、黒ハボ☆ 書いてて楽しかった♪