兆候は微か 1



 エドワードが寝込んでいると聞いたのは、ロイが丸二日の出張から戻って来た直後のことだった。
 「冗談だろう」
 と、最初は笑って取り合わなかった。二日前、司令部に顔を出したエドワードは、酷くご機嫌な様子で鼻歌を歌いながらロイの脇をすり抜けて行ったのである。

 ――窈窕窈窕
この子がいきゃれば
行く先よからん――

 というような歌詞だったと思う。聞き覚えはなかったが、年頃の女の子が嫁に行くことを賛美する歌であるのは判る。誰か、親戚の者か知り合いが婚約パーティでも開くのかと思ったが、特にそんな行事はなく、ただ口ずさんでいただけのようだった。
 「あの時は、いつも通り、元気だったが……」
 アルフォンスの話によると、昨夜から気分が悪い、頭痛がする、と言っては何度も吐き、食べ物はもちろんのこと、水すら受け付けないのだとか。
 育ち盛りで食欲旺盛なエドワードにしては珍しい。しかも、吐き方が尋常でなく、洗面所でげろげろやって、ベットに戻ってぐったりと眠っていたかと思うと、30分くらい経って、また洗面所に吐きに行くということを繰り返しており、とてもではないが室から出られず、アルフォンスをおろおろさせているという。今日になって何とか吐き気は治まったものの、体力が削られてしまったのか、一日中うとうととしているような状態で、意識もあるのかないのか判然としないとか。
 「まるで悪阻だな」
 と、ふざけて言うと、ハボックが大仰にため息をついてくれた。
 「奴に子宮はありませんって」
 「判っている。冗談だ」
 「笑えませんよ」
 どうやら軽口を叩いている場合ではないようである。やれやれとロイは肩を竦めた。
 「もしかしたら、天変地異の前触れかもしれないな」
 「いくら元気な奴だって、病気ぐらいしますって。それでなくとも、性質の悪い風邪が流行ってんですから、それかもしれませんよ」
 「風邪くらいで吐くか」
 「ガキは吐きますよ。結構、胃腸に来ますからね」
 「医者には……、いや、多分、行ってはいないだろうな」
 エドワードの医者嫌い、病院嫌いはアルフォンスからつとに聞かされている。よっぽど瀕死の状態にでもならない限り、治療院にすら近寄らないのだという。恐らくは、幼児の頃に病院でかなり怖い経験をしたのだろう。大抵は医者の無神経な不手際が原因なのであるが、それがトラウマのようになって拒絶反応を引き起こすのである。巷にはよくある話だった。
 「しょうがない。一度様子を見に行くか」
 冷やかしも兼ねて。エドワードには、少々聞きたいこともある。否、問い質したい、と言った方がいい。都合よく訪いの理由ができたことを内心北叟笑みながら、ロイは脱いだばかりのコートを手に取った。
 「私は鋼ののところに寄った後は直帰する。貴様は適当に上がっていいぞ」
 そうハボックに言い置くと、ロイはエルリック兄弟が宿泊している客棧に向かった。はっきりと宿の名前を聞いていたわけではなかったが、イーストシティに滞在する時は、大抵同じところを利用するため、今回もそこだろうと当たりをつけていた。
 案の定、メインストリートからいくぶん離れた通りに面した客棧のカウンターでエルリック兄弟の呼び出しをかけてもらうと、鎧姿のアルフォンスが慌てたように階段を降りて来た。
 「すみません、大佐。わざわざ来てもらって……」
 「調子はどうなんだ」
 前置きなしで、ロイはエドワードの容態を窺った。単刀直入な物言いに、アルフォンスが困惑したように口を濁した。
 「今は何とか落ち着いています。でも……」
 「ハボックの話によると、風邪ではないかということだったが……」
 「はい、微熱はあるし、酷い嘔吐を繰り返したので、当初はそうかとも思ったんですが、喉も痛くないし、くしゃみも咳も出ない。違う病気のようです」
 「頭痛も酷いそうだな。頭痛が吐き気を呼んでいるのかもしれない」
 「ええ……」
 話しながら二人は二階へと移動し、廊下の奥にあるツインの室へと向かった。
 「やっと吐かなくはなったんですが、今日はずっと眠ってて……。時々、瞬きして起きるような素振りは見せるし、声をかけると返事はしてくれます。でも、すぐにまた眠ってしまう。いったい、何がどうしたのか……。こんなことは初めてで……」
 と、アルフォンスは動揺を隠しきれない様子でそっとドアノブを回すと、音を立てないようゆっくりとドアを開けた。
 室内は、以前訪れた時と全く変わっていなかった。こじんまりとした造りと、宿泊に必要な最低限の備品。床はきれいに掃き清められており、アルフォンスが片付けたのか、目立った私物は見慣れたスーツケースと靴のみだった。
 正面と東側に嵌め殺しの窓があり、そこに幅寄せするように、シングルベットが二つ、並んでいた。そのうちの一つ、東の方に備え付けられた寝台に、エドワードは横たわっていた。
 見るからにぐったりした様子は、頻繁に嘔吐を繰り返したせいだろう。胃の中のものを吐き切ってしまった後は、胃液や体液まで吐いてしまうため、脱水症状を起こしやすい。しかも、吐き気のために水分補給もままならず、かなり辛い状態になる。その苦痛を少しでも和らげようと、体は休息を取るため眠気を催させる。
 エドワードの呼吸は穏やかだったが、白い頬に疲労の色は拭えず、眠っているというより、気を失っているように見え、ついつい脈拍や血圧は大丈夫だろうかと思わずにはいられなかった。これでは、アルフォンスが狼狽するのも頷ける。
 「何かの感染症か、中毒かもしれないな」
 顎に手を当て、ロイがこれと似たような症状を思い出そうとする。こんな風に数日を眠って過ごす症状をどこかで見たような気がした。
 「感染症ですか」
 「そうでなければ、感染症が引き金となって嘔吐を引き起こす自律神経がイカれてしまったのかもしれない。しかし、脱水症状に陥っているのならば、早急に点滴を打ってもらう必要があるな」
 口からの摂取が無理ならば、静脈に直接注入すればいい。もっとも、それを聞いてアルフォンスは肩を竦めた。
 「それは判ってるんですが、難しいです」
 「病院へは行きたがらない、か」
 「はい」
 「では、適当に砂糖水を作って飲ませてやりたまえ。三温糖でも黒糖でも何でもいい。唇を濡らす程度でいいから、水と糖分を補給することだ。それで取り敢えずは何とかなる。食事は無理にさせなくてもいい。眠いというのならば、好きなだけ寝かしておけ。眠ることによって、神経の回路がリセットされるからな」
 「判りました」
 ほっとしたように、アルフォンスが頷く。どうやら、かなり心配していたようで、誰かからの指示を待っていたようにも思えた。
 「ああ、それと」
 と、ロイは付け足すように言った。
 「いくら甘味があるからと言って、牛乳は飲ませないことだ。荒れた胃には悪いし、嘔吐を促進する成分(乳脂肪)が含まれているからな」
 「大丈夫です。いくらお願いしたって飲みませんよ、兄さんは」
 「そうだったな」
 健康な状態でも、エドワードにとっては立派な吐き気促進剤である。何が何でも絶対に口をつけようとしない頑固さには定評があった。
 もっとも、牛乳くらい飲まなくても死にはしない。完全栄養食ではあるが、嫌なら他の食物から摂取すればいいだけのことである。
 ちなみに、牛乳以外の完全栄養食と言えば、人肉がそうである。高カロリー高蛋白で、餓死寸前の軍属の男が同僚の死体を喰らって生き延び、氷点下の猛吹雪の中、約2日間、20km近く踏破して救出されたという記録もあるくらい、理想的な食物である。
 が、普通は誰もそんなものに手を出そうとはしないだろう。やれば、人類の禁忌に触れる。死体損壊の罪にもなる。
 「しかし、まぁ、心配だ。明日にでも軍医と相談して、往診してもらうなり、投薬するなりしてもらおう」
 こんなところで、最年少の国家錬金術師を失うわけにはいかないからな、とロイが微笑うと、素直にアルフォンスは頭を下げた。
 「お願いします」
 「心配しなくても、すぐによくなるさ」
 ただの感染症。
 そうロイは思っていた。
 確かにそれは大きな間違いではなかったのであるが、翌日、エドワードを診察した二等軍医の青年は、面白そうにロイに報告を上げた。
 「自家中毒ですね、あれは」
 「自家中毒……?」
 聞いたことはある。しかし、それは小児科の分野ではなかったか。
 「そうです。普通は、2〜10歳くらいの子供がかかる病気です。思春期になると、不安定だった自律神経がしっかりして来ますので、自然とその症状は消えて行きます」
 「鋼のは14……いや、15だぞ」
 その診断は正しいのか、というニュアンスを含ませてロイは軍医を窺ったが、しかし、青年ははっきりと頷いた。
 「ごくたまにではありますが、成人でも起こるケースがあります。私が知っている限り、40代後半の女性がその症状を呈したことがあります。精神的ストレスや過度の睡眠不足などが重なると起こるようです」
 自家中毒とは、血液中のケトン(アセトン)が増加し、血糖値が低下することによって引き起こされる病気だが、その理由は、今のところよく判っていない。
 ケトンは、体内の脂肪が分解される時に生成される代謝産物(燃えがら)の一種で、これが過剰に増えると強烈な二日酔いのような苦痛に見舞われる。原因は様々で、風邪などのウィルス性の感染症が引き金になることもあれば、過労や食物アレルギー、季節の変わり目による気象の急激な変化などでも惹起することがあり、個人差が大きい上に、体質的なものも関係あるようなである。
 「エドワード君の場合はちょっとした飢餓状態が引き金になったようですね。聞けば、何日も徹夜で文献を漁っていたというじゃないですか。その間、ろくに食べていなかったようです。ちゃんと食事をしないと体は防御反応として体内の脂肪を分解して生命活動に充てますが、急に飢餓状態となった場合、その速度が速まります。すると、通常では殆ど発生しないケトンが生成されてしまう。それが悪心や嘔吐を誘発するわけです」
 「成る程。血液検査はしたのか」
 「いえ、尿検査をしました。ケトンが確かに排出されていましたから、自家中毒でまず間違いないでしょう。治療にはブドウ糖を打っておきました。すぐにけろっとして起き上がってましたから、今頃は外に出て駆け回っているんじゃないですか」
 そんな勢いだった、と軍医は苦笑し、ロイはため息をついた。基礎体力は人並み以上なのだから、回復力はかなりのものだろう。しかし、死にかけのような顔をしていた者が今日はもう健康そうに動き回るのはいただけない。犬猫が、ちょっと元気になったため、回復したと勘違いしてはしゃぎ回り、翌日急死するということがあるが、それに似ているような気がする。
 やばそうだから確認しに行こう、とロイは思った。
 「まぁ、できるだけ規則正しい生活をして、食事もちゃんととるように、と言っておきましたから、後は二、三日安静にしていれば大丈夫でしょう」
 死ぬような病気ではないのだから、と軍医は言い置いて帰って言った。
 「睡眠不足と不規則な食事か」
 どちらもエドワードが日常的にやっていそうなことだった。それに加えて、精神的なストレスというのも心当たりがある。
 エルリック兄弟が賢者の石を探し始めて、そろそろ3年になる。手がかりらしき情報を掴んでは空振りに終わるという失望を何度も繰り返してれば、ストレスも溜まるだろう。体もおかしくなる。ここらで体内に蓄積した毒を全部吐き出しておくのもいい。
 「しかし、皮肉だな。自分の体内で作り出した毒にやられてしまうとは」
 自家中毒とはよく言ったものである。
 もっとも、ぶっ倒れて寝込むような病気は体からの警告である。いい加減そんな苦しいことはやめろと言われているようなものであるから、素直に従った方がいい。でないと、もっと酷い目に遭う。無理をしないに越したことはない。
 「だからと言って、それを理由にサボらないで下さいよ」
 と、ハボックに釘を刺されながらもロイは翌日、もう一度エドワードの元を訪れた。看病をしていたアルフォンスはちょうど買い出しに外へ出ており、ロイは一人で室内に入ってエドワードに声をかけた。
 「何だ、あんたか……」
 と、相変わらず、ベットに横たわったまま、エドワードは面倒臭げにロイを見遣った。と言っても、まだ傾眠から抜けられないのか、眠そうな目を何とかこちらに向けている状態で、顔の半分は枕に埋もれていた。
 「ご挨拶だな」
 コートを脱ぎ、近くにあった椅子を引き寄せると、ロイは腰を下ろし、片手にぶら下げていた箱をヘッドボードに置いた。
 「見舞いに来てやったんだ。手土産もある。少しは感謝したまえ」
 「話はアルから聞いた。手間かけちまったな」
 怠いのか、エドワードの声が酷く間遠く、掠れて聞こえる。回復に向かっていると言っても、完全ではないらしい。否、復調の時の方が体は重苦しく感じることがある。その真っ只中にいるせいか、いつもの反抗的な態度がきれいに抜け落ちていた。しかも、微熱が続いているせいで金色の双眸が潤み、陶然とした表情に見えた。
 突っ張った険が取れると、思ったより幼い顔が覗く。
 滅多に見れない光景かもしれない。そう思うと、ついロイは楽しくなってきた。
 「そうやっていると、なかなか可愛い顔をしているな。少しは堪えたか」
 「言ってろ」
 億劫そうに、エドワードが応える。それを、ロイはにこやかとも言える表情で見ていた。
 「余り根を詰めるな。軍医にも言われたと思うが、もうちょっとブレーキをかけたらどうだ。いくら立ち止まっていられないと言っても、限度があるだろうが」
 「煩い……、小言なら後で言え」
 「ということは、聞く気はあるんだな」
 「うるさい……」
 エドワードが不快げに手を振り、目を閉じる。怠くて疲れた、というより、単純にお説教など聞きたくないということのようだった。
 それでは、歌でも歌ってやろうか、と思った。
 不意に思いついたのが、二日前、エドワードが口ずさんでいた歌だった。
 「窈窕窈窕、か……」
 呟いたとたん、ぎくりとエドワードが顔を上げた。
 「な、何だよ、それ」
 「君が歌っていたじゃないか。花嫁を送り出すための歌だったと思うが、君にしては似合わない歌だと思ったんでね」
 「別にどうでもいいだろ。俺が何を歌ってようと」
 「もちろん、そうだ。『この子がいきゃれば、行く先よからん』、の歌詞の後は、『氷肌玉骨、露花の唇』、と続く。どちらも女性の美しさを讃えた言葉だったな」
 もしかして、そろそろ色づいてきたのか、とからかってやると、エドワードは憤然として口を噤んでしまった。
 それへ、ロイは首に縄をつけて引き戻すようなことを言った。
 「私としては、やっと覚悟ができたのかと思ったのだが、どうだね」
 「何言ってやがるっ」
 どきりと、まるで侮辱でも受けたようにエドワードが上掛けを跳ね飛ばす勢いで起き上がる。どこにそんな気力があったのか、寝台から降り立つ勢いでロイを牽制した。
 が、当の本人は平然と受け流した。
 「覚悟だよ。君が私のものになるという」
 「知らねーよ。何、勝手なこと言ってんだ」
 「聞いているはずだ。あれから一ヶ月。充分待ったよ」
 「知らねーってんだろ」
 「惚けるのなら、それでもいいが……」
 と、ロイは椅子から立ち上がり、寝台に身を乗り出した。咄嗟にエドワードは逃げようとしたが、片側は壁である。すぐに逃げ場がないと悟り、ただ後ずさった。
 それを、ロイは難なく捕まえると、そのまま押し倒した。
 「猶予を持たせたつもりだったが、いつまで経っても君からはなしの礫だ。こういう時、ぐずぐずしているのは得策じゃない」
 「おい……」
 「君が決められないのなら、私が決める」
 そう宣言すると、ロイは何とか逃れようとじたばたするエドワードの体を組み敷き、何か罵倒しそうな唇を塞いだ。
 一ヶ月前、触れただけのそれは、記憶に違わず柔らかで暖かかった。舌先で突付くように押し開いてやると、頑固に閉じておくはずだった唇が意外にもあっさりとロイを受け入れる。
 「ん……」
 熱いくらいの口内を弄り、掻き回してやると、すぐにエドワードは音を上げた。元より、このような行為には慣れていない。舌に噛み付いて撃退することも思い浮かばないのか、ひたすら耐えるようにぎゅっとロイの肩を掴み、それが小刻みに震えた。
 「やめろよ……」
 何とか顔を反らし、ロイを押しのけようとしながら息を継ぐ。が、いつもの勢いはなく、酷く苦しげだった。
 「どうした。また吐きそうになったか」
 「そんなんじゃねーよ」
 ぐいっと唇を拭い、エドワードが反論しようとする。が、それを制するように、ロイは押さえつけた腕に力を込め、揶揄するように言った。
 「君が三日も不眠不休で資料室に閉じこもっていたのは、私が留守の間に作業を済ませておこうとしたからじゃないのか。飢餓状態になるまで熱中するような文献に当たったのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ」
 「……何のことだよ」
 「私と会いたくなかったようだね」
 拗ねたような、それでいて笑みの残る表情に、エドワードは内心ぎくりとした。
 よくない兆候である。恐らくは、ちゃんとした解答が得られるまで、尋問のような問いかけを続けるつもりだろう、悪戯のおまけつきで。
 機嫌を損ねた時のロイの執拗さは身に沁みている。さっさと切り抜けたい事態であればあるほど、どうしようもなくしつこく絡んでくるという、意地の悪い性格を恨んだことも一度や二度ではない。そのたび、エドワードは時間の無駄をしたとロイに会ったことを後悔した。
 「私を無視した理由は?」
 「え?」
 「三日前、君は酷く機嫌がよかったね。歌を歌いながら廊下をスキップして行ってしまった。そんなに楽しい情報を見つけたのか」
 「スキップなんかしてねーよ」
 「私とすれ違ったのにも気がつかなかったのに?」
 からかうつもりの台詞だったのだが、どういうわけか、エドワードが目を伏せるように俯いてしまった。そして、ぽつりと漏らした。
 「……気がついてた」
 「何に」
 「あんたとすれ違ったなの、ちゃんと気がついてたぜ。ただ、挨拶する気になれなかっただけだ」
 「気紛れだな」
 ため息が出る。決して気分屋というわけではないが、目上の者に対する態度がなっていない、とロイは思う。己れの機嫌がどうだろうと、敬礼と答礼は当然の礼儀である。それができないのなら、ただのガキと言っていい。自分を子供扱いするなと怒鳴る資格などない。
 「今思えば、あれは一種の精神高揚だったのだろう。自家中毒の前触れのようなものだ。いったい、何が君をそうさせた」
 「あれは……」
 と、エドワードが口篭る。そのまましばらく言葉が途切れてしまったが、辛抱強く、ロイは待った。
 ますます良くない傾向だ、とエドワードは思った。このままでは、絶対に言わないと心に決めた台詞を吐かされてしまいそうだった。
 「別に、他意はねーよ」
 不貞腐れたようにエドワードが躊躇いの末に口に出したのは、気まずい沈黙が降りて数十秒後のことだった。
 別に咎められることをしたわけではない。そう言い訳し、エドワードはロイに挑発的な目を向けた。根拠があるわけではない、反抗期特有の小生意気で横柄な、どこか開き直ったそれは、気の強そうな瞳の色と相俟って、肩肘張った虚勢をまとっているように見えた。
 その瞬間、ぞくりとするような感覚を、ロイは感じた。この視線をまともに受けてしまうと、ついつい捻じ伏せてやりたくなる衝動が起こる。
 嗜虐的なそれは、しかし、今ここで露わにするにはまだ早い。巧みに、頭を擡げる情欲を抑制すると、ロイは言葉を継いだ。
 「ない?」
 「ああ。あんたが気に留めるようなことなんか、一つもない」
 「窈窕なんかを歌っていたのに?」
 「関係ないって言ってんだろ。いい加減、忘れろよ。俺だって鼻歌の一つや二つくらいやることもある」
 やはり、エドワードが素っ気なく応える。が、ロイは納得しなかった。
 「私の気を引くためにやっていたのではないのか」
 「自惚れんな。俺はあんたから何も聞いていないし、何も約束していない。何もなかったんだ。……それで充分だろ」
 「本当に、そう思っているのか」
 ロイが口元に笑みを刷く。ぞくりとするような冷たさに、エドワードは不本意にも反応してしまった。ばさっと音がするほどの勢いで首を巡らせ、ロイに唾でも吐きかけそうな侮蔑の視線を投げつける。
 もっとも、それは威嚇のためではなく、怒りの矛先を回避するためのものだった。
 「手、離せよ。俺はあんたの戯言に付き合ってる暇なんかないんだ。ふざけるものいい加減にしねーと――」
 「しないと、どうするというのだね」
 余裕を持って、ロイが肉薄する。それへ、対抗する術を、咄嗟にエドワードは思いつかなかった。ただ、ロイの下から逃れようともがいた。もっとも、効果的な対処とは言えない。それを見越して、ロイが微笑う。
 「無理はしない方がいい。まだ本調子ではないのだろう。私は話をしに来ただけだ。手荒なことはしたくない」
 「本当かよ」
 「ああ、もちろん」
 ぐっとロイの手に握力がかかる。エドワードはその痛みに呻きながら、己れを組み伏せる男を見上げた。
 「だったら、手をどけろ」
 「君が大人しくしてくれると約束してくれるなら」
 「……っ」
 「私だって病人に酷いことはしたくない」
 「本当かよ」
 疑わしげに、しかし、エドワードはロイとここで争う気はないのだろう、体から力を抜いた。
 「勝手にしろ」
 「相変わらず、可愛げがないね、君は。しかし、まぁ、いい。私が聞きたいのは、君の気持ちだ。これからどうしたいのか、考えよう」
 「そんなこと、したくねーって言ってんだろ」
 「それを私が信じると思っているのか」
 エドワードの手を離してやり、ロイは幾許かの距離を取った。ほっとするエドワードは、しかし、また唇を奪われ、言葉を失った。いささか乱暴に舌を吸い上げられ、エドワードはびくついたが、闇雲に逃げようとはしなかった。ここで下手に騒げば、ロイを煽ってしまう。いったん、走り出してしまえば、男の性は制止するのが難しい。そうなる前にかわしておく方法はないものか、とエドワードは己れの乏しい知識の中から有効な対処法を探した。
 もっとも、そんな思惑などロイには手に取るように判る。まるで小動物でも追い詰めるように、ロイは間接的なアプローチを試みた。
 「窈窕のあの歌詞は、嫁ぐ娘を送り出す内容でもあるが、解釈のしようによっては、近隣の者が嫉妬と羨望の眼差しを送っている詞とも言える。ごく単純に祝っているというより、自分もそうなりたかった、という欲求が裏に込められているというわけだ」
 「だからどーした」
 「誰か、羨む人でもいたのか、と勘繰りたくなるね」
 「考えすぎだ」
 「そうか」
 言いながら、ロイがエドワードの項に唇を這わせる。反射的にエドワードは歯を食い縛った。
 「よせ……っ」
 「一ヶ月前の続きだよ。残念だが、この情況で止めるのは至難の業だ」
 「勝手なことをほざくな」
 「嫌がっているのは、君の口だけだね」
 全てを見通すようなロイの黒い瞳が怖い。無意識にエドワードは嘆息し、強張らせていた体の力を抜いた。
 「じゃあ、体だけ差し出してやろうか。その方が後腐れなくていいだろ」
 「それは私の望んでいるところではない。君の望んでいるところでもない」
 判っているはずだ、と確認され、エドワードは苛立たしく舌打ちした。ここで否定すれば、では一夜妻がいいのか、と反論されてしまう。一時の欲望の犠牲になるのは死んでも嫌だった。そんなつまみ食いの対象のような奴だと軽んじられたくはない。
 かと言って、永続的な関係を望んでいるのかと言われれば、それも積極的に頷けなかった。要するに、ロイが察した通り、決断が下せないままでいるのである。
 「この先、あんたの戯言を聞いて過ごせってのかよ。俺はご免だ」
 「口では何とでも言えるな」
 ロイがくくっと忍び笑う気配がする。エドワードはかっと頬に血が昇るのを感じたが、しかし、怒鳴ることはできなかった。
 男の手がするりと胸元に滑り込み、可愛らしい乳首の先端に触れた。とたん、びくりとエドワードは喉を仰け反らせた。
 「抵抗するな。私に任せればいい」
 呟くように囁き、ロイはエドワードの体に乗り上げると、本格的に体重をかけて押さえ込んだ。苦しげにエドワードが呻き声を漏らしたが、本気で嫌がっているようには思えなかった。
 ただの照れか、躊躇いか、それとも、羞恥か。こと、ロイに対してエドワードの態度は、出合った時からおよそ友好的なものとは縁遠い。そのくせ、抱き寄せれば、大人しかった。
 「じっとしてろ」
 「……」
 「何もしなくていい」
 「……」
 「何も考えるな」
 「……」
 「感じているのだろう?」
 「……」
 ちゃんと聞こえているかどうか関係なく、ロイはエドワードに囁き、その体を弄って行った。
 一ヶ月前は、死に物狂いで抵抗された時点でやめてやった。さすがに、初回から強姦はまずい。セックスに対する恐怖心を植えつけてしまっては、後々の楽しみが減る。医者嫌いになってしまったように、抱擁や愛撫に怯えられたり、警戒されたりしては困る。色々と仕込んでやりたい性戯も快楽もあるのである。
 できるだけ丁寧に、優しくしてやるつもりだった。時間をかけて、手の指先から足の指先まで、余すところなく前戯を施し、じんわりと広がるような悦楽を味わわせて煩悶させてやりたい。普段の態度が反抗的で可愛げがないだけに、快楽に溺れた媚態はどれほどのギャップを見せてくれるのか、楽しみだった。
 が、エドワードの下衣に手をかけた時だった。
 いきなり、ロイの手を跳ねつけるように、エドワードが身を起こした。
 「やめろよ、そんなの」
 怒ったように怒鳴られ、ロイは戸惑った。
 「そんなのとは?」
 「そういう、ぬるいの、やめろ」
 「ぬるい……?」
 言っていることが一瞬判らなかった。が、すぐにロイは察した。
 「成る程、こういうのはお好みじゃなかったということか」
 「……っ」
 ぷいっとエドワードが顔を背ける。敢えて反駁しないのは、図星だからだろう。
 せっかく気遣ってやったのに、という恨み節は横に置いておいて、ロイはすぐさまエドワードの体を仰向けに押し倒すや下肢を持ち上げて膝の上に乗せ、下着を抜き取ると、ぐっと左右に開いて思いっきり屈曲させた。
 体の柔らかいエドワードのことである。胸に付くほど折り曲げられても、骨が軋むような苦痛はなかった。が、局部を曝け出されるような卑猥なポーズに、さっと項に赤みが走った。その熱が、見事なほど性急に胸元から脇腹、鼠蹊部から下肢へと走る。
 「もう半立ちだな。ちょっと触ったくらいでいい感じになっていたわけだ」
 「や、やるなら、さっさとやればいい」
 「別に焦らしていたわけじゃないよ」
 そう断りを入れ、ロイは投げ出されたに等しい四肢の中心に己れを宛がった。
 「一応、君の体を思いやってあげたんだけどね」
 「どうせ、犯っちまうんだろ……っ」
 語尾が掠れる。ロイの先端が、淡く色づいた蕾に押し当てられ、ぐいっと狭い入り口をこじ開けようとする。
 「うっ」
 びくん、とエドワードが仰け反る。歯を食い縛ったところを見ると、ろくに慣らしてもいない秘部に痛みが走ったのだろう。が、敢えて頓着せず、ロイは己れの身を進めた。ここまで来て、やめろとはさすがにエドワードも言わない。
 お前が望んだことだろう、と心の中で呟きながら、ロイは容赦なくエドワードを犯すべく更に足を開かせてやった。
 「い、いたい……っ」
 エドワードが生身の方の手を口に当て、ぎりりと指を噛む。ロイのそれは、挿入の角度を探るように何度か前後に揺すり上げると、安普請らしいベットのスプリングをぎしぎしと軋ませた。やがて狙いを定めたように、ずぶりとカリまでが入る。
 「……っ」
 エドワードが大きく息を呑む。
 その一瞬後の僅かな安堵を突くように、ロイは己れを突き入れた。
 「……ぎっ」
 捻じ込まれる灼熱の楔に、エドワードが悲鳴を上げる。柔らかな粘膜を、鉄のように硬く怒張した男の凶器が容赦なく引き裂き、擦り上げ、奥の間にまで達する。一気に貫通された四肢は、その衝撃にびくびくと引き攣った。
 と、同時に秘部が収縮し、中のロイを痛いほどぎちぎちときつく締め付けた。
 「さすがに、狭いな……」
 ロイの声が掠れていたが、エドワードは予想外の激痛と圧迫感、異物感に必死で耐えた。しかも、それは内壁を焼き焦がすように熱く息衝き、確かにロイのものが己れの中に挿入されているのだという事実を突きつけて来る。
 「だが、中が小刻みに蠢いている。判るか。まるで、喜んで私を引きずり込んでいるようだ」
 言いながら、ロイがエドワードに口付ける。
 圧し掛かられたせいで、息が苦しくなったが、すぐにロイは浮かせた腰の下に枕を突っ込み、下肢を浮かせたまま己れを半ばまで引き出すと、もう一度奥まで突き上げ、ゆっくりとグラインドを始めた。
 「う、あ、あぁ……っ」
 吐息とも悲鳴ともつかない声が、抽送のたびに漏れる。暴力としか言いようのない行為に、戦慄くだけの未熟な肉襞が刺すような痛みをエドワードに送りつけているのだろうが、それだけではない別の感覚をも生起せしめ始めている。
 秘部のどこかにある快楽のポイントを手探りで探しながら、ロイは北叟笑んだ。あれこれと技巧を弄しなくても、エドワードの体はちゃんと反応している。ただ男に陵辱されているからという物理的な理由だけでなく、別の要素を含ませて、突き入れられるロイのものに爛れそうな内壁が、やがて淫靡に絡みついて来た。
 「気持ちいいかい」
 「ば、バカ…言うなっ」
 涙の浮かんだ目で、しかし、強情にもエドワードはロイを睨みつける。
 この目がいい、と改めて密かに思う。恐らくは、己れの思惑にはなかなか従順になってくれないだろう。が、一度馴染んでしまったら、離れるのが困難になるほど必死で懐いてくれる。
 もっとも、プライドにかけて、エドワードはそんな素振りを露骨には見せてくれない。どこまでも意地を張って張り通し、結局痛い目に遭う。
 やがて、ぐりっとしたしこりに、ロイのものが触れた。とたん、エドワードの体がびくりと跳ね上がった。
 「どうした」
 判っていながら、意地悪くロイが聞く。
 「う、うるさい……っ」
 「ここだろう」
 もう一度、同じ場所をぐいっと擦り上げてやると、エドワードは息を詰めて、衝撃的とも言える強烈な快感をやり過ごした。躯幹を貫くような戦慄が突き抜けて行き、後頭部を直撃する。それがくらくらする痺れとなって四肢に攪拌していく。意識さえ混濁しそうなそれは、これまで味わったことのない感覚だった。
 何も言わなくとも、体は正直である。
 「濡れてきたな」
 と、ロイがエドワードの股間の中心で震えながら勃ち上がっているそれの先端を撫でるように弄ぶ。
 「気持ちいいんだね」
 ほら、ともう一度、突き上げてやると、強情にもエドワードはロイを押しのける勢いでその支配下から逃れようとした。が、それを許すほど、ロイは甘くない。
 「素直になりたまえ。こういう時は、欲望に正直になった方が苦しまなくてすむし、存分に楽しめるよ。君だって痛いばかりがいいわけではなかろう。それとも、そういう趣味なのか」
 エドワードの体を引き戻し、繰り返しグラインドしてやると、いつの間にか汗ばんでいた肌がびくびくと波打つように震えた。
 「も……いいだろ、そこばっかり、やるな……」
 「こんなに感じているのに?」
 からかうようにエドワードの男根を握ってやると、ロイは今一度ぐいっと己れを差し入れ、深々と秘部を抉ってやった。
 エドワードが声にならない声を漏らし、辛そうに眉を寄せる。そのくせ、何度も擦過された肉襞は主の意図を裏切ってロイに絡みつき、しっとりと包み込むように締め付ける。
 「そろそろか」
 手の中のそれが限界を訴えるように震える。根元から扱くように擦り上げてやると、やっとエドワードが押し殺した嬌声を上げた。
 ずぶ、ずぶ、と何度もロイのものがエドワードの秘部を摩擦し、突き上げる。そのたびにベットが揺れた。振動に合わせて、上掛けがずり落ち、敷布が捩れる。
 やがて、エドワードが音を上げた。
 「やめろっ、もう充分……っ」
 「いきたいのか」
 「……」
 悔しげに、エドワードが頷く。それを見届け、ロイは言った。
 「では、『イク』と言って、いきたまえ」
 「なっ」
 余りにも破廉恥な台詞に、エドワードが絶句する。
 が、すでに抜き差しならない状態である。くいっと括れの部分を軽く扱かれ、エドワードは腰の奥から突き上げてくる衝動に逆らえず、声を上げた。
 「あ、あぁ……っ」
 どくん、と心臓が脈打つ。その刹那、不覚にもエドワードはロイの手の中に己れを放った。と、同時に、秘部が収縮する。きゅうっと根元から締め付けられ、ロイは微かに呻いた。
 「……っ」
 促されるようにエドワードの中に熱い飛沫が打ち付けられる。それは二度三度と迸り、下腹部を潤した。
 「あ……」
 これまでにない失速感に、体中の関節から力が抜ける。ほっとしたようにロイの体がエドワードの上に圧し掛かり、耳元ではぁはぁと荒い息遣いを聞かせた。
 「こんなのは、ご免だ……」
 うんざりと、エドワードが呟く。
 「少しは私を喜ばすことでも言いたまえ」
 「思いつかねー……」
 連れない台詞を言いながらも、エドワードはロイを押しのけようとはしなかった。








2004,8,8 To be continued

  
 鋼では、初めてのリクです。しかし、可愛らしいエドかぁ……。努力はしたんですが、なかなか上手くはいきませんね。反省☆ フォロー編が後に続きます。
 「窈窕」の歌は、学生時代、漢文だったか歴史の講義だったかで先生が教えてくれたものです。元は漢詩ですので、えらくお堅い白文になっているんですが、何でも、この先生の恩師が意訳したものが秀逸だそうで、私らにも紹介してくれたわけです。ノートの端っこにメモっておいたのを思い出しながら書きました。(^^ゞ
 あと、自家中毒ですが、13の時、なったことがあります、私。3つや4つのガキんちょに混じって小児科の病院へ行ったのを今でも覚えておりますが、マジ、恥ずかしかったです。医者も、今頃自家中毒か? と呆れてましたっけ☆