数日前から降り始めたという雨は、いっこうに衰える気配もなく激しく地上に叩きつけられていた。豪雨と言っていいそれは、河川を氾濫させ、田畑を沈め、山の斜面を揺るがせていた。
「こりゃかなりやべぇな……」
と、すでに闇夜の如く暗転した空を見上げ、政宗は苛立たしげに呟いた。会津から街道伝いに米沢へ戻ろうとする途中でこの土砂降りに遭い、強行軍で赤城の峠を越えようとした伊達軍は、しかし、しっかり足止めを食らってしまった。
しかも、ずぶ濡れで泥濘に足を取られている最中、最も会いたくない男に遭遇してしまうというおまけ付きだった。
ほんの数時間前、政宗の眼前には宿命のライバルが傲然と立ちはだかっていたのである。その時の忌々しさを噛み締めながら政宗は憤然とした。
「ここはお通しすること罷りならぬ」
と、朱塗りの二本の短槍を構え、いつになく強い語気で言い放ったその姿に、呪わしいほどの腹立たしさを感じる。力づくで突破しようとする政宗に対し、幸村は毅然と立ち向かって来たのである。
「下がられよ、政宗殿。命が惜しくば言う通りにされるがよかろう」
威嚇ではなく挑発的とも取れるその台詞に、元々余り行儀の良ろしくない伊達軍は一気にいきり立った。一斉に罵声が上がり、そのまま真田隊との激突となるか、と思われた。が、政宗の傍らに控えていた片倉小十郎だけは冷静だった。
幸村の口調が血気に逸ったものではないことに気付いたのだろう。静まれ、と一喝するや、幸村に向かって問いかけた。
「ここは通せないというのではなく、通れないということか」
その質問にどこかほっとしたように幸村は頷いた。
「左様。この先、街道は今朝起こった地滑りで埋まっておりまする。金堀衆が突貫工事で復旧に務めてござるが、いつ通れるようになるか、皆目見当もつきませぬ。しかも、地盤が酷く不安定で、またいつ崩れるやも知れぬ危険な状態でござる」
確かに、命が惜しくば引き返すしかない。何だ、そういうことかよ、と毒気を抜かれた伊達軍にざわざわとざわめきが起こる。改めて幸村の風体を見れば、下半身が柄の色も判らぬほど泥に汚れてまだらに染め上げられていた。当の政宗が舌打ちするのを横目に、小十郎は幸村にもう一度問いかけた。
「住民はもう避難したのか」
「我が真田隊が警告を発する前に避難してござった。さすがに地元の者だけに、災害には殊の外敏感で……」
「そうか」
納得すると、小十郎は政宗に向き直り、指示を仰いだ。
「仕方ありません。街道が復旧するまで待つか、別の道をとるか。どちらかですな」
もっとも、後者は難しい。災害は一箇所だけとは限らないのである。ただでさえ土砂降りで視界が利かないというのに、足元が危ない上に不案内な土地を強行軍で突破するのは自殺行為に等しい。山中で右往左往した挙げ句、遭難するのが目に見えており、消耗したところで野盗や落ち武者狩りに会う可能性もある。戦国時代の山野は、現在では想像もつかないほど物騒で危険極まりない無法地帯だったのである。
「畜生、こんなところでぐずぐずしてられねぇってのに、とんだ災難だぜ」
一刻も早く米沢へ戻らなくてはならないというのに。忌々しいが、天災ばかりは如何ともしがたい。
その政宗の不興を察したのか、幸村が提案した。
「倉内城へ来られてはいかがか。某が逗留するのに使っている城でござるが」
その好意に甘えるしかなく、伊達軍は空城となっていた城郭を改修したばかりだという倉内城へ入って情況の改善を待つこととなった。
ここで濡れた衣服を脱いで乾かし、酒食も振る舞われて一息ついたのであるが、幸村は現場に呼び戻されてすぐに姿を消し、夕刻となった現在もまだ戻って来ない。
雨はやむ気配もなく、霧も出始めた山肌を見遣りながら、政宗はつくづくここへ来るのではなかった、と後悔していた。
幸村に悪気はない。寧ろ、好意で軒を貸してくれたことには感謝する。
しかし、武蔵野に近いこの界隈はできれば長居したくない地域の一つだった。
山間に踏み込んだ時から手足の冷たくなるような冷気を感じていたのであるが、時間を追うごとに骨まで凍りつくような怖気に体が震える。予想以上にこの城とその周囲の山林は不穏な空気を纏いつかせて政宗達に報いていた。
噎せるような湿気に混じって凶暴さを秘めた重苦しい気配がじわりと湧き上がって来るのである。足先から這い寄り、ぞっと肌を粟立てながら伝い上るそれは、実に不愉快で神経を逆撫でしてくれる。
政宗達奥州のよそ者が立ち入ったことを喜んでいるのか、厭うているのか、複雑に入り組んだ曖昧な微笑と憤怒がそこここに漂っていた。
否、はっきりとした敵意を感じる。
ありがたいことなのか、鬱陶しいことなのか、政宗はそのような形のない「モノ」の残留思念の、のたうつような無念の意思に酷く敏感だった。
「おい、気付いてるか」
常に持ち歩いている煙管に火を入れ、政宗は殆ど暇つぶしのように側に控えている小十郎に問いかけた。
「この土地の障りのようですな。道が消えております故、迷っているのでしょう」
打てば響くように、小十郎は明快に応えた。幸村と遭遇する前から察していたのだろう、本来ならば「あちら」から「こちら」へと循環しているはずの流れが本筋を見失い、行き着くべき目標を探して闇雲に彷徨していた。
山岳や森林は、古くは異界とされて、人の住む里や村にその力が過剰に流れ込んで来ないよう仕切りが築かれているものなのであるが、それが破壊されているようだった。仕切りとは、神社や仏閣、その他道々の神様を祭った道標のことなのであるが、災害や人為的な工事で破壊されてしまうと、秩序が紊乱されて荒れ狂い、制御不能となる。
しかも、堰から溢れ出した奔流は手に負えないばかりか、それまで大人しく眠っていた者を叩き起こしてしまう。
それでなくとも山野は自然霊が多い。たまに凶暴なものもいる。どうやら、城の周辺に封印されていた何かが蠢動しようとしているようだった。
「幸村が言ってた地滑りのせいか」
「それもあるでしょう。麓の村が一つ二つ埋まってしまったそうです。土砂が麓に到達する過程で街道を分断してしまったようですな。つまり、繋がっていたものが切断された」
真田隊の者に聞いた話だが、と前置きして小十郎が応えた。土砂崩れなどで一度斜面が崩壊すると、二次的に連鎖する可能性が高まるため、それを予測して防災のための作業をしなくてはならなくなる。現在、その最中なのだとか。が、この悪天候では応急処置が関の山だろう。
「暇そうな奴をこっちから現場に派遣してやれ。人手はいくらあっても足りねぇだろう」
手伝うふりをして、連中がどういう処置をしてるのか見に行かせろ、と暗に政宗は小十郎に命じた。
「承知致しました」
では、早速、と小十郎が立ち上がりかけた時、郭の外から複数の人馬の気配が伝わってきた。
「何だ、もう引き上げてきたのか」
「様子を見て参ります」
そのまま小十郎は主殿を立ち去り、襖を閉めた。
とたん、室内の空気が変わる。すーっと潮が引くように気温が下がり、身を刺すような冷気が漂い始めた。政宗にとって、小十郎は様々な意味で防波堤のようなものだった。側からいなくなると、それまで地の底に沈んでいた者達がゆっくりと頭を擡げ、手を伸ばして来る。
「じっとしてろよ」
うんざりと政宗は言い捨てた。この室に案内された時から政宗の動きを窺っていた「闇」がずるずると床を這いずり、ゆるりと虚ろな視線を向けていた。それは、時に苦しげな息遣いまでも聞こえるほど生々しく悩ましげだった。
元は人間だったのだろう。だが、本来の形を忘れたのか、その輪郭はかなりあやふやだった。
この手の死霊は見慣れている。この戦国の世、理想も目的も果たせぬまま無念の死を遂げた者は数多い。弔う者も悼む者もおらず、野晒しにされて忘れ去られて行くのである。が、執念だけは残り、時折り通りすがりの者に縋りついては「あちら」に引きずり込もうとする。結界がしっかりしている間は抑え込まれているのであるが、崩壊したとなれば、とたんに欲望を剥き出しにして動き出す。いちいちかかわずらっていてはきりがないと小十郎に諭され、政宗は自分に直接関係のない者は無視することにしているが、この城に住み着いている死霊は執拗な妄執を抱いて擦り寄って来る。まるで、この土地に足を踏み入れた者全てを呪うかのように。
こいつが元凶か? と思う。この地場の乱れに乗じて何かやかしてくれそうな仄暗い気配に、政宗は唇の端を吊り上げて微笑った。
どういう曰くがあるのか幸村に問い質してやろう。政宗は、口にしていた煙管から煙を吐くと、虚空へ視線を向けた。
雨はまだやむ様子がない。ざわりとした冷気を首筋や頬に感じながらも、何も気付いてないよう政宗は無関心を装い、視線を逸らした。
「政宗様」
と、小十郎の声がする。幸村を伴っているらしく、襖に人影が二つ映っていた。
「入れ」
「失礼します」
当然と言うべきか、小十郎の背後に立つ幸村は先にも増して泥だらけだった。全身びっしょりと濡れて、赤茶けた髪からはぽたぽたと滴が滴っていた。
「何だ、まだ着替えてねぇのか」
「お見苦しいところをお見せ仕った。何とか堰堤の造成ができ申した故、ご安心されるよう報告に参った次第」
「堰堤? そりゃ大変だったな」
堰堤というのは、ダムのことである。ただ土嚢を積み上げるだけではない技術と人手が必要だった。そう言えば、土木建築作業専用の工兵とも言うべき金堀衆が仮設の橋を架けていたな、と政宗は街道沿いでの小競り合いを思い出した。
恐らく、その配慮は信玄公の意向なのだろう。このような災害に対する処置の手厚さで内政に実績を積み、甲斐と信濃の領主として名を上げた武将なのである。その信玄公を、幸村は心底尊敬していた。
もっとも、それならば霊的な結界もちゃんと配慮しておくべきだろう。何のために諏訪大社の大祝の娘を娶ったのだ、と心の中で毒づきながら、政宗は煙管の吸い口を噛んだ。
「この短時間によくできたな」
「急造でござる。故に、金堀衆が朝まで見張ることになっておりまする。なれど、今夜を凌ぐことができれば、この堰堤を補強することによって今後この地で土砂崩れが起きても大きな災害にはならなくなりまする」
「そうか。だったら、あんたも一休みしな。頭領が倒れちまったら元も子もねぇぜ」
「いえ、すぐに現場に戻らねば」
「着替えて来いよ。廊下が水浸しになっちまう。修繕したばっかなんだろ、この城は」
「政宗殿……」
と、言いかけ、不意に小十郎に肩を叩かれ、幸村は口を噤んだ。
「いいから言う通りにしろ。貴様がやらずして、誰が政宗様のお相手をするんだ」
そう言われればそうである。城主が不在である以上、城に招き入れた幸村が客のもてなしをしなくてはならない。
「判り申した。しばらくお待ち下され」
一礼すると、幸村は踵を返した。決して足取りは軽くはなかったが、疲れ切っているようにも思えなかった。体力にも腕力にも並々ならぬ自信のある幸村である。それなりに気張っていたのだろう。
「不眠不休で作業に加わってたって風体だな」
「そのようで」
やれやれと肩を竦めながら、政宗は徐ろに部屋の片隅を指差した。
「あれ、判るか」
「土地の障りのようですが……。はっきりしませんな。ずっとあそこに?」
「家憑霊かもしれない。だが、土地の障りだってのなら小十郎、この城の縄張りを調べてくれないか」
「承知しました」
何らかの破れを、この城が侵しているのかもしれない。補修の際、知らずにやってしまったのなら、それとなく幸村に言っておいてやろう、と政宗は思った。
死霊や亡者などは、弱いエネルギーで何とかこの世に留まっている、言わば「生」の残滓のようなものであるが、その執着は時に凄まじい報復を見せつけてくれる。どういう経緯でここにしがみついているのか知らないが、さっさと祓っておくべき穢れである。放っておけば、後々の障りになる。ただでさえ、この土地の地霊がざわついているのである。混乱に乗じて習合されては手がつけられなくなる。
「では」
と、部屋を出て行った小十郎と入れ替わりに、酒膳が運ばれて来た。
丁度いい。政宗は酒器から滴る程度の酒を杯に取ると、部屋の隅に置いておいた。
さぁーっと冷たい空気がそこへ移動する。あと、塩と米があれば、と思うが、それは幸村に用意させよう、と政宗は思った。
まだ積極的に悪さをしようというわけでもなさそうであったし、しばらく様子を見るか、と思った。
が、しかし、
「お待たせして、申し訳ござらぬ」
と、幸村が声をかけたとたん、ぴしりと音を立てて室内の空気が凍りついた。何だ? と思う間もなく、それまで朧気だった気配が、墨を集めて凝結するように、明らかな殺意を漲らせた。
いっせいに、壁から天井から無数の視線が浴びせられる。ぞっとするような憎悪と悪意の、目に見えない双眸がいくつもこちらに向けられていた。
もっとも、そんな視線など全く感じないのか、幸村は平然と敷居を跨ぎ、礼法に適った所作で政宗の前に進み出た。
「堅苦しいのはやめようぜ。ざっくばらんにあんたとは話がしたいと思ってたんだ」
「それならば……」
「この城の主はどうしたんだ」
幸村の口上を遮るように、政宗が本題に入る。家憑霊がいるのならば、大抵は前の城主が何らかの原因を作っているはずだった。
「滅亡致した」
「一言かよ」
「お家騒動で家督を継ぐべき嫡男が殺されてしまったと聞いておりまするが、詳しい事情はよく知らないのでござる。何せ、某の父がまだ生きていた頃の話ゆえ」
困惑したように言うその台詞に嘘はないようだったが、嫡男が殺されてしまったというのは聞き逃せない。
「誰に殺されたんだ」
「確か……、義理の母親だったか、その兄だったか、と聞いておりまする」
「側室の親族が正室の息子を殺したってことか」
よくある話である。ちらりと政宗はまだこちらを睨み付けている家憑霊を見遣り、杯を手に取った。すかさず、幸村が酒器を傾ける。
「この倉内城は三浦氏の縁戚、沼田氏が築城したものでござる。沼田氏退去の後、お屋形様から我が真田が拝領したのでござる」
「沼田氏ってのは、さっきお家騒動を起こしたと言ってた連中のことか」
「最後の当主は、沼田景義殿と聞いておりまする。勇将として名高い武将だったとか。この西上野は関東と東北、中央を繋ぐ通路となっております故、複数の勢力の角逐の場となっていた由にござる。それを上手く掛け合いしていたというからには、なかなかの御仁だったと拝察致しまする」
「そうだな」
頷きながら、政宗はその「通路」というのが問題だと思った。と、同時に、何故幸村が上田を出て西上野にいるのか、理由が判った。
先年、関東管領を名乗る上杉謙信が上州を通過して南下し、関東に進出して、当地の国人達から臣従する旨、誓約書を取っているのである。が、戦国の黎明期から関東に播居する北条氏がそれを許すはずもなく、もちろん関東進出を目論んでいる武田信玄も黙ってはおらず、謙信が越後に引き上げた後、近隣の武将達に誼みを通じて誓約を反故にするよう説得し、その原状回復に努めていると聞いている。
また、二度と南下しようなどと画策しないよう睨みを利かせるために真田を西上野に遣ったのだろう。武装した隊列がぞろぞろと街道を行進するだけでも充分な威圧になる。実際、信玄はそのようなデモンストレーションを東国各地で行っていた。
関東進出の橋頭堡として、この倉内城が選ばれたのは察するべくもなく、それは信玄の今後の戦略を示唆する行動でもあった。
つまり、東国のことは東国で、という自主独立の方向へ政策転換したということである。いくら上洛しようとも、落ちぶれた室町幕府の手足にされるのではつまらない。そんな気分の悪い将来に見切りをつけて、かつて源頼朝が挙行したように鎌倉か江戸で己れの幕府を開く計画に転向したのだろう。清和源氏の流れを汲む武田氏ならば、それは充分実現可能だった。
「ってことは、あんたは上田からこっちへ移封されるのか」
「いや、某は上田から動きませぬ。ここは兄上が拝領することになっておりまする」
「真田信幸か」
会ったことはないが、名前は知っている。真田昌幸の長男で、幸村より四歳年上の兄である。
「しかし、この地を治めるのは大変だぜ」
「それはよく存知ておりまする。北条方との衝突は避けられぬでござろう。また上杉殿もまたいつ到来するやも知れませぬ」
「俺も、いつでも南下してやるぜ」
「そうでござるな」
幸村は動じない。織り込み済みだと言っているようだった。政宗が南会津の攻略に手を焼いて、しきりにこの方面へ出没しているという情報は、頻々として信玄の耳に入っているらしい。
「だが、それだけじゃねぇだろ」
「どんな強敵が来ようとも、この幸村、全力でお相手いたす所存」
「そういう意味じゃねぇよ」
「では、どういう意味で」
政宗は苦笑した。戦や調略で領地を広げることは簡単だろう。しかし、新たな占領地に主として根付くには、それなりの条件が必要だった。領主の器量だけではどうにもならないものが土地そのものから要求され、それが呑めない者は手酷く追い落とされ、時には滅亡の憂き目を見る破目になるのであるが、どうやら幸村はそれに気付いていないようだった。否、信玄がちゃんと教えていないのだろう。関東の地霊は殊の外荒々しく手強いというのに。あれを宥めて手懐けるのは、至難の業である。土地そのものを改造するほどの大工事が必要だった。
「いや、いい。この話はまた今度な。……それよりも、沼田と聞いて思い出したぜ。確か、そういう武将が芦名の家臣にいたはずだ。親戚か?」
「さぁ……。某には何とも」
幸村は首を捻っている。本当に知らないのだろう。演技をしている様子はなかった。芦名と言えば、伊達の仇敵である。多少なりとも聞き捨てにはできない。
2010.01.13 To be Continued