夜川を渡る 2




 「いいえ、家臣ではありません。客将です。今は芦名の元を離れていると聞いておりますが」
 と、訂正してくれたのは、外から戻って来た小十郎だった。
 「よう、外の様子はどうだ」
 「政宗様」
 さっと小十郎が主に近付き、耳打ちする。
 それを聞き、政宗は頷いた。
 「成る程な。……幸村、あんた、この城へ入る時、縄張りの中にあった大木を何本か切ったそうだな」
 それがどうかしたのか、と幸村は意表を衝かれたようだったが、素直に応えた。
 「某が入った時にはすでに切られた後でござったが……。郭を広げるため、已む無く切り倒したとか」
 と、幸村がきょとんと伊達主従を見上げた。全く何の邪気もない表情が余りにも幸村らしくて笑える。が、それを睨むような鋭い視線がはっきりとその背中に向けられていた。恨みとも憎悪ともつかないそれは、幸村の言葉に反応するかのようにざわつきながら低く唸っていた。
 どうやらこの家憑霊は、元は郭の外にいたらしい。大木を拠り所としていたのが伐採されて居場所を失ってしまい、主殿の中へと入り込んで新しい主の様子を窺っていたのだろう。
 「別にあんたを問い詰めてるんじゃない。ここで何があったのか知りたいだけだ」
 「何故でござる」
 「命が惜しいからだ」
 「い――」
 「伏せてろっ」
 唐突に、政宗は手にしていた杯を東の壁に投げつけた。とたん、びゅっとかまいたちのような風が幸村の頬を掠めて逃げて行った。否、小刀が飛んで来た、という感じだった。
 「つ……っ」
 「仕損じたか」
 「い、今のは……っ」
 つうっと幸村の顎に鮮血が伝い落ちる。それを無造作に拭う幸村を尻目に政宗は立ち上がった。
 「小十郎」
 「心得ました」
 すぐさま小十郎が部屋を出て行く。何を追いかけていったのか知らないが、わけの判らない幸村は困惑した。
 「いったい、何事でござる」
 「説明は後だ。それより、あんたは主殿に入らない方がいいぜ」
 主殿は、城の主がいる場所である。そこに相応しくない、とここにいる家憑霊は喚いている。政宗は立ち上がると、他に部屋を用意するよう言いつけ、幸村の腕を掴んで廊下に出た。
 まだ雨は降り続いていたが、若干小降りになったようで、雨音は軽くなっていた。代わりに霧が出て来たのだろう、ひやりとする冷気が剥き出しの首筋を撫でて行った。それがざわりと産毛を逆立たせる。この濃霧は、やがて周辺一帯を呑み込んでしまうに違いない。
 「やべぇな……」
 「政宗殿?」
 「来い」
 言うなり、政宗は手近な障子を開けると、そこへ幸村を放り込んだ。小物達が控えている小間のようで、広さは四畳半くらいだったが、広い部屋よりはいいかもしれない。
 そう判断し、政宗は荷物のように幸村を畳に転がすと、すぐ出て行こうとした。
 「俺が戻って来るまでそこにいろ。この部屋からは一歩も出るなよ」
 「政宗殿……?」
 何がどうしたのか、さっぱり判らない幸村は追い縋ろうとしたが、目の前で襖が閉められると、いきなり雷にでも打たれたように体が硬直した。もっとも、それは一瞬で、すぐに幸村はその場にへたり込んだ。
 「どういうことだ……?」
 突然のことに頭が回らない。この西上野に来てから妙なことばかり起きる。国人達の懐柔は上手く行っていたが、この倉内城の改修に手をつけ始めて以来、金堀衆の何人かが脱走したり、行方不明になったりしている。欠員を埋めるために腕に覚えのある者を地元で徴用したが、作業はなかなか進まなかった。
 それというのも、倉内城には不吉な噂がいくつもあり、それが作業員に多大な影響を及ぼしていたからだった。古い城や屋形になればなるほど、曰くつきの井戸だの開かずの間だのが増えて行くが、この倉内城では郭の片隅に置かれた庭石がその禁忌の対象となっていた。詳しい因縁はよく判らなかったが、誰も近付きたがらず、そのままの場所に放置され、苔むしている。
 何度もその石を動かせと命令を出したのであるが、そのたびにサボタージュやハンガーストライキが起こり、タイミングよく雨天になったり、川が氾濫したりする。挙げ句が、今回の土砂崩れだった。
 何かに祟られているのか、それならば慰霊祭でもすればいいか、とも思ったのであるが、原因も根拠も判然としないため、これも延期のまま棚上げになっている始末だった。
 「いったい、これは何なんだ……」
 政宗は何かに気づいたようだったが、要領を得ない。戻って来たらちゃんと話を聞こう、と幸村は思った。このままでは沼田そのものの手入れができない。関東への通路も確保できなくなってしまう。
 何をしても妨害されているような気がするのは、決して気のせいではない、と言うのなら、その理由を教えて欲しかった。
 幸村の焦燥をよそに、政宗はすぐに戻って来た。小十郎はまだ外にいるらしい。
 「霧が深いな。金堀衆は、どこへ行っちまったんだ」
 「郭の外でござる。村の者が空き家を提供してくれたので、そこを宿代わりにしておりますが」
 「火がついていなかったぞ。村の方は真っ暗だ。誰もいないんじゃねぇのか。それでなくとも、霧で視界がきかない」
 この雨の中、火も焚かずに無断で持ち場を離れるとは考えにくい。が、今気付いたように、幸村ははっとした。
 「足音が聞こえませぬな」
 「何?」
 「床の板がどこも古びて、城内を歩けばぎしぎしと音がしていたのでござるが……、先程からそれが聞こえませぬ」
 つまり、人の気配が消えている、ということである。
 まやかしだ、とすぐに政宗は察した。かなりまずい、と思う。自分が思っていたより早急に事態が進行しているらしい。それを裏付けるように、背後の障子の向こうで何者かの気配が蠢いていた。
 ぞろぞろと、何かが忍び寄って来るような、這いずり回るような、異様な気配だった。
 「政宗殿……?」
 「静かにしろ」
 唇に人差し指を当てられ、幸村は咄嗟に口を噤んだ。と、同時に、子供の頃、同じように兄に口を塞がれ、一言も喋るな、じっとしていろ、と強要されたことがあったのを不意に思い出した。
 いったいどういう遊びに興じていたものか、信幸はまだ弁丸と幼名で呼ばれていた幸村を強引に押入れに放り込み、どんなに泣こうが喚こうが数刻の間、出してくれなかった。
 後に、あれは母の指示だったと聞かされたが、その意味するところは未だ教えてもらっていない。
 あの時は確か……、と幸村が思い出す。
 信玄の居城 躑躅ヶ崎館の近くに居を構えていた頃だった。父の昌幸が養子先から呼び戻され、真田家の家督を継いだばかりだったはずである。新しい屋敷が珍しく、はしゃぎ回っていたのを覚えている。
 あの日も元気よく城内を走り回っていたのであるが、いきなり兄に捕まえられて羽交い絞めにされ、押入れに監禁されてしまったのである。
 「監禁……?」
 いや、違う。信幸は一緒に押入れに入ってきたのだった。そして……。
 そこまで考えて幸村はぎょっとした。あの時の兄と同じように政宗が覆い被さるように幸村を腕の中に囲い込んだ。そのまま抱き締められ、息が止まりそうになった。
 「ま、政宗殿……っ」
 「動くなよ。夜明けまでの辛抱だ。一言も喋らず、じっとしてろ」
 判ったな、と視線で威圧され、幸村は反射的に頷いた。そのまま部屋の隅へ引き摺られて行き、備え付けの箪笥の陰に二人は身を潜めた。
 しばらくは何も起こらなかった。外は静まり返り、月明かりさえない真っ暗な闇ばかりが広がっていた。ぴったりと体を押し付けられている政宗の顔すらよく見えないほどの暗闇の中、己れの心臓の鼓動ばかりが聞こえてくる。
 やはり、人の気配がしない。城内だけでも数十人の滞在者がいるはずであるのに、誰かが誰かに呼びかける声さえ聞こえないという静寂は、嵐の前の静けさにも似て、酷く緊張を強いるものだった。
 やっとと言うべきか、幸村にも事態の異常さが判り始めてきた。
 「政宗殿、これは……」
 「しっ」
 鋭く制せられ、幸村は声を潜めた。
 「あ、兄が昔、言っておりました。これは、魔界の出現……で、ござるか」
 「知ってたか」
 驚いたように、政宗が幸村へ視線をやる。どうやら当たりのようだった。
 魔界、或いは異界。人の世とは別の次元に広がる世界のことである。普通は交わらないそれが、たまに時空を重ねてしまう時があると言われる。そこへ迷い込んだ者は異界の住人に囚われ、戻って来れなくなると言い伝えられている。神隠しとも言われるそれは、時間や場所による偶然の重なりによって起こるとか。
 それでなくとも、甲斐は冥界に近い国、半黄泉の国として知られている。元々「甲斐」は、黄泉の国との界という意味、もしくは交わる場所という意味で「交い」(かい)と呼ばれるようになったと言われている。
 その甲斐に隣接している信濃も異界の入り口とされる場所が各地に点在しており、幸村にとっては、ある意味馴染みのある気配だった。
 緑の色濃い山野に漂う独特の雰囲気は、それだけで人が足を踏み入れる場所ではないという違和感と拒絶を感じさせる。
 そして、西上野は武蔵野への入り口であり、今まさに結界の外から通路を開こうとしていた。
 「息を潜めろ。連中が通り過ぎれば、それで終わりだ」
 「は、はい……」
 改めて抱き締められ、幸村の心臓が跳ね上がった。己れの目の前に政宗の項があり、そこへ顔を押し付けられる形になってしまい、身動きが取れなくなってしまった。こんな風にぴったりと誰かに身を寄せたことなど幼児の時以来である。余りに慣れない体勢に酷く戸惑うと同時に、波打つ動悸は激しくなるばかりだった。堪らず、幸村は目を閉じた。
 「政宗様」
 どれくらいそうしていたのか、不意に障子の向こうから小十郎の声がした。
 「そこにおられますか。ただいま戻って参りました。ご報告したいことがございます」
 「片倉殿……」
 ほっとしたように幸村が政宗から離れようとする。が、すかさず政宗は幸村を引き戻し、何か言う前にその口を片手で塞いだ。
 「黙ってろ」
 何故? と幸村は咄嗟に抵抗したが、政宗の腕は緩まなかった。
 「は、離して下され。片倉殿が貴殿を探しておられるのですぞ」
 「大人しくしてろってのが判らねぇのか。喋るんじゃない」
 「まさ――」
 「あれは小十郎じゃない」
 「……っ」
 鋭く断言され、幸村は息を呑んだ。はっとしたように障子の方を見遣ると、人影らしき影法師がぼうっと浮かんでいた。が、それが水面に映る波紋のように、僅かにゆらゆらと揺れているのに気付く。
 「まさか……」
 「まやかしだ。あそこにいるのは別の何者かだ」
 それが何なのか政宗は説明しなかったが、言わなくても幸村には判った。
 魔界とは、冥界のすぐ近くにある裏の世界とも言われている。亡者の蠢く常夜の国であり、根底の国である。
 そこの住人と触れ合うのは無論のこと、言葉を交わすのもご法度だった。一度でも接触してしまえば、道ができてしまう。上州のこんなところに霊道を通せば異質な地場と地場が繋がってしまい、その反動でどういう変動が起こるか予想がつかなかった。
 が、いったん接触してしまえば、その連動に伴う回帰を止める術はない。元より、酷く土地が荒れて不安定だったのである。俄かに励起していた地霊の苦し紛れの唸りが聞こえて来るような気がした。
 収まりがつくまで現世の者は嵐が通り過ぎるのをただひたすら待つしかない。
 「政宗様? そこにおられるのでしょう」
 「……っ」
 ぎゅっ、と政宗が幸村を更に抱き締める。さすがに緊張しているのか、うっすらと汗の臭いがした。
 「ここをお開け下さい」
 落ち着いた小十郎の声が聞こえる。政宗に言われなければ、到底先程まで主殿にいた小十郎とは区別がつかない。本当にまやかしなのだろうか、と幸村は訝しく思ったが、幼少の頃から守役として側に仕えさせた者にしか判らない感覚があるのだろう、政宗は明確に偽物だと断じていた。
 「……」
 まるで、連れて行かれまいとするかのように政宗が幸村を抱き竦める。背骨が折れそうなほどの力だったが、離れるのは不味いと幸村も本能的に判っていた。気がつけば、しっかりと政宗に縋りついていた。
 「政宗様」
 やはり、小十郎と寸分違わない声が発せられる。びくりと幸村が身を震わせるのに気付いたのか、政宗が耳元で囁いた。
 「大丈夫だ。こっちが呼び入れない限り、奴はこの部屋へは入って来れない。あの敷居が境界線だ」
 「なんと……っ」
 薄っぺらい障子一枚が隔壁代わりになっているとは余りにも心許ないが、境というものは物理的な仕切りよりも、他愛もない心理的な線で分けられていることが多い。敷居は、家の内と外を分ける境界線の典型だった。
 「奴らは、無理矢理にでもあんたを連れて行くつもりのようだな。だから、見つかんねぇよう黙ってろよ」
 「某を? 何故?」
 「それはあんたが一番よく知ってんじゃねぇのか」
 どう考えても、この城と幸村は曰く付きだった。が、幸村は首を傾げる。
 「申し訳ござらぬが、某には全く心当たりがあり申さん。連れて行くというのは、如何なる意味でござるか」
 「そのまんまの意味だ。この城の家憑霊があんたをとり殺したがってるぜ」
 物騒な台詞に、さすがに幸村が息を呑む。この戦乱の世、恨み恨まれは常であったが、こんな形で己れに降りかかって来るとは思いもしなかったのだろう。
 「政宗様、真田もそちらにご一緒でしょう? 金堀衆がうろたえております。一声かけていただくようお願いできませんか」
 「金堀衆が?」
 いったいどこにいたのだ、と幸村は咄嗟に返事をしようとした。が、すかさず政宗が引き止める。
 「馬鹿野郎、黙ってろって何回言わせる。ここを出たらあんたはあっという間に八つ裂きだ」
 「しかし……っ」
 「いいから、ここにいろ」
 強引に幸村を抱き込み、政宗は再び腕を回した。
 「朝までの辛抱だ。日が昇ったら離してやる。だが、それまでは俺の言うことを聞け」
 「あ、朝まででござるか」
 長すぎる、と抗議しながら、むずがるようにじこじこと幸村が動く。それを強引に押さえ込み、政宗は殆ど怒号と変わらない口調で重ねて言いおいた。
 「朝までだ」
 「わ、判り申した」
 気迫に押されたように幸村が頷く。
 「では、この手をお放し下され。某、逃げも隠れも致しませぬ」
 「いいや、ダメだ」
 「何故でござる」
 「身固めだ」
 そう言うと、改めて政宗は幸村を腕の中に収め、ごろりと床に転がった。
 「身固め……」
 聞き覚えのある言葉だった。幸村はしばらく考えるように目を伏せていたが、すぐに顔を上げると毅然と政宗を見返した。
 「それならば、仕方ありますまい」
 「OK。やっと素直になってくれたか」
 ほっとしたように政宗が幸村を引き寄せる。再び体が密着し、お互いの体温が伝わってくる。それを幸村は心地よく思った。



2010.05.24 To be Continued