Black Card 3
エドワードが息せき切って図書館に到着した時、すでにアルフォンスは書庫を出て、閲覧室の隣に設けられた休憩所のベンチに座っていた。
「何してたんだよ」
「すまん」
謝罪の言葉も早々に、エドワードはアルフォンスを誘って近くの食堂へと出かけた。昼食には遅い時間であったせいか、大して混んでいないボックス席で、エドワードは日替わりメニューをオーダーした。
「で、どこへ行ってたの。駅でそんなに時間を潰すところはないと思うんだけど」
そう追及され、素直にエドワードは東方司令部に篭っていた旨、白状した。
「ふーん、ソードかぁ……」
「お前、何か覚えてるか」
「前に小耳に挟んだことがあるよ。ここじゃない別の食堂だったけど」
いやに具体性のあるアルフォンスの言葉に、運ばれたばかりのスープに手を出そうとしていたエドワードは手を止めた。
「食堂で、か」
「ほら、二、三ヶ月前だったかな、こっちに戻って来た時、やっぱりこうやって食事をしてたら、ニュース速報がラジオから流れて来て、兄さん、熱心に聴いてたじゃない」
「ニュース速報?」
そう指摘されてもよく覚えていない。記憶力が悪いわけではないのだが、エドワードの脳はかなり合理的かつ効率的に統合されているらしく、インプットされたデータは、要点を押さえてしまえば枝葉のことを切り捨ててしまう。レジメを作りながら記憶しているようなもので、さして重要と思えない事項は即座に圧縮されて奥の倉庫に保管されてしまい、意識の上に昇ることが少ない上に、解凍に時間がかかったりする。反対に、アルフォンスはベタ打ちの記憶転写が得意らしく、結構自由にデータの出し入れができるようだった。
「どういう内容だったっけ」
「軍の、どこかの研究所で爆発事故があったってニュースだよ。化学薬品の化合か何かの実験をやっててちょっとした手違いでどかんとやっちゃったって内容だったんだけど、怪我人がかなり出てたから、俺も応援に行った方がいいかなって、兄さん、言ってたじゃないか」
「そう言われてみれば……」
やっと思い出す。何の実験をしていたのかは知らないが、そういう事故があった。敏感性の化学物質は、配合率や過熱の高低やタイミングを誤ったり、ちょっとした振動を与えたりしただけで暴発してしまうものが多い。中には、光を当てただけで炸裂してしまうものすらある。しかも、化合した物質によって負傷者の手当てが違ってくるため、応急処置などには医者の他に化学物質に詳しい専門家が派遣されるのが普通だった。
科学技術関係の施設での事故であったため、司令部から要請があれば、エドワードは駆けつけるつもりだったのであるが、生憎そのような連絡はなく、爆発も小規模なもので収まったらしい。念のため司令部に顔を出すと、負傷者も大して出なかった上に事件性もないため、軍が介入しての捜査はすでに終了し、現場検証は警察の方へ移管されたとのことだった。
「で、その時だよ、ニュースを聞きながら、カウンターに座っていた数人の男が『サムテックスでも作ってたりしてな』って話してたんだ。そうしたら別の一人が、『ソードが自力で作るなんて大見得切ってた』とか『製造方法を入手したらしいぜ』とか、言い出して……」
「あ……」
そこまで言われて、やっとエドワードも思い出した。
「そうだった。その製造方法ってのが、何とかの『栽培方法』に載ってるって連中は言ってたんだ。あの本は確か、テロリストがそこらに転がってるもんで、つまり、お手製で爆弾が作れるように書かれたテキストの変名だから、やばそうなのがいるって、お前と話してたんだっけ」
ソードの名前を耳にしたのはそれが初めてだったが、どうやら爆弾=ソードというように記憶してしまっていたらしい。それで、リアナ鉄橋に仕掛けられた爆弾がキーワードとなって、いきなりソードなどというストリートギャングを結び付けてしまったのだろう。
となると、セシリアとソードとの関係も怪しくなってくる。ロイが言ったように、全く愚にもつかない疑いをエドワードは勝手に想像して余計なことをしようとしていたのである。
「確かに、俺が首を突っ込むことじゃねーよな」
「兄さん、考えすぎだよ」
「そうみたいだ」
弟に窘められ、エドワードは決まり悪くパンを掴み上げると、乱暴に噛み付いた。
「大佐に余計な手間かけちまったな」
「どうする?」
「後でハボック少尉に謝っとくよ」
「大佐には?」
「言付けときゃいいだろ。どうせ、あっちこっち出かけて司令部にいる時間の方が少ないんだから、わざわざ直接会うこともねーよ」
相変わらずの素っ気なさにアルフォンスは嘆息した。決して、エドワードは礼儀知らずでも恩知らずでもないが、ことロイが関わってくると意地を張ったようにそっぽを向いてしまう。相性が悪く、苦手な相手、嫌いな相手、または虫の好かない男だというのはよくよく承知しているが、避けて避けて避けまくった挙げ句に呼び出されて叱責を受けるという失態を晒すのはどうかと思う。軍からの要請がない時は賢者の石を探すという、かなりの自由行動が許されているのもロイ個人の裁量によるものなのである。感謝こそすれ、蔑ろにしていい人物ではない。
軍令上の直接の上司ではないものの、軍政上の国家錬金術師という立場から命令授与者とそれを授受する者という位置に変わりはなく、後者ではそれなりの上下関係があり、強制力があった。
それが余計に気に食わないらしい。人体練成やアルフォンスのことでやんわりと脅されているのは、もっと気に食わない。
否、最大級に近寄り難い理由は他にちゃんとあるのだが、それは口が裂けてもアルフォンスにも誰にも言えない。言う必要もなかったが、まだ困惑の域を出ていないエドワードにとっては、解決のつかない、厄介な醜聞だった。
「夕方にまた来いって言ってたから、それまで市立の図書館にでも篭ってるか」
「そうだね」
アルフォンスは頷くと、さりげなく自分の前に置かれた紅茶のカップをエドワードの前に出してやり、代わりに空になったソーサーを手元に引き寄せた。こうしておけば、少なくともアルフォンスが何らかの飲食をしたように、店の者には見える。そんな小手先のカモフラージュも自然にできるようになった。
「それじゃ、出るか」
きれいに昼食を平らげ、エドワードが無造作に口元を拭う。
「兄さん、ナプキン、使いなよ」
「また今度な」
終わってから言っても遅いとばかり、エドワードは足元に置いていたスーツケースに手をかけると、さっさとレジに向かって支払いを済ませ、食堂を後にした。
図書館へ行くには、大通りを渡って行かなくてはならない。昼日中のせいか、交通量は大して多くなかったが、通行人は結構いた。
その十字路で、エドワードとアルフォンスは向こう側に渡るタイミングを計るため、しばらく佇むこととなった。周りには、同じ目的の人々が何人も突っ立っており、ちょっとした集団になっていた。
別にそれ自体は珍しいことではない。エドワードのすぐ後ろに立っていた青年が狙ったようにすっと横に立ち、場所を移動したのも、特に不審な行動には思えなかった。
その青年が、しかし、スーツケースを持っていないエドワードの片腕の肘の辺りをとんとんと軽く二度、ノックするように叩いた。明らかに何らかの意図を持っていた。もっとも、大通りの向こう、目的地に向けた金色の視線が動くことは全くなく、視線はそのままにしてエドワードはポケットに突っ込んでいた片手をそっと出した。
青年も顔は前を向いたままだったが、慣れた手つきで開いたポケットにするりと何かを滑り込ませると、一歩二歩、離れて立った。
「よし、行くぞ」
通りの行き来が途切れたのを見計らい、エドワードとアルフォンスは交差点へと走り込み、対岸へと渡った。目的地はそこから数分である。
「兄さん、さっきの人、誰?」
「何だ、気付いてたのか」
エドワードは肩を竦めた。普通、腰の辺りで何かが動いても、人の注意はなかなか引かないものである。人間は、目の位置からして大抵上半身のみを見ているせいなのだが、当事者が大仰に視線を落としたりでもしない限り、下半身の動きは余程洞察力が鋭い人でも気がつかないことが多い。
先程のように、すれ違いざまに物品の受け渡しをすることをブラシ・パスというが、情報の授受として、かなり古典的な方法となっている今も連綿と続けられているのは、このように人の死角を狙ったような手法だからだろう。実際、四方八方からの監視体制を敷いていても、それと判る事例は珍しいという。
それに気付いたアルフォンスの視覚は、恐らく生身の者が捕捉する感覚とはかなり違ったものとなっているのだろう。否、五感自体が別の感覚器となっているのかもしれない。機会があれば、ゆっくり聞いてみたいところだった。
「全然、知らない奴なんだけどさ」
言いながら、ポケットの中を探る。指先に触れたのは、ぺらぺらの紙切れ一枚だった。しかも、そこに書かれていたのは、たった一言、たった一文だった。
それを一秒足らずで読み下し、エドワードは眉を潜めた。
「どうしたの」
「いや……」
軽く首を振ると、エドワードはアルフォンスが目にしてしまう前に、両手を合わせて紙片を微細な繊維へと分解してしまった。白い、一塊の埃のようになってしまったそれは、呆気なく風に吹かれて消えてしまった。
「行こうぜ、時間が過ぎちまう」
「兄さん……」
「いいから行こう」
強引にアルフォンスの疑問を捻じ伏せると、エドワードは先に立って歩き出し、振り返りもしなかった。そうなると、アルフォンスは黙って着いて行くしかない。
もっとも、図書館の中でのエドワードはいつも通りだった。毎度の如く、興味のある書籍を持ち出しては座る間も惜しいように文字を追い、ひたすら集中し、没頭する。いったんそうなってしまったら、もう人の声も物音も聞こえなかった。
ぽんと肩を叩かれ、閉館時間ですよ、と司書の人に言われてやっと我に返る。壁の掛け時計は、午後五時を指していた。
「アル、悪いけど、先に宿の方へ戻っておいてくれないか」
「一人で司令部へ行くの」
「ちょっと長引きそうな用事ができたんだ」
面倒くさそうな、それでいてどうしても行かなくてはならないという諦めの混じった声で、エドワードは凝り固まった肩と腕をほぐすように大きく伸びをした。
「首を突っ込み直すみたいだね」
「まぁな」
はっきりとは応えなかったものの、どうやらそのつもりらしい。ということは、看過できない何かと遭遇してしまったということか。
「戻ったら、ちゃんと話してやるよ」
「判った」
まだ弟の手を借りるほどの深刻な事態が惹起したわけではないと悟り、アルフォンスは特に藪を突つくこともせずに引き下がった。
「宿の非常口は開けてもらっておくから」
「すまん」
そう言って、エドワードは大通りの十字路でアルフォンスと別れた。
東方司令部の定時が何時なのか定かではないが、そろそろ事務方は帰り支度をしている時刻である。ハボックの言う夕方には少々遅いが、まだ司令部内にいるだろう。
「一日に二回も大佐の顔を拝むのは気が進まねーんだけどな」
つい愚痴っぽい呟きが口をついて出てしまうが、それでも足は司令部の庁舎の方へと向かい、町の中ならどこからでも見える尖塔の側まで来た、その時だった。
路地の前を通り過ぎようとして、不意に何かの気配を感じた。
「……?」
誰かいるのか、と怪訝に思い、足の速度を緩めた一瞬、エドワードはいきなり横合いから男の手が伸びてくるのを見た。
避ける間もなかった。ぐいっと引き寄せられるように路地の中へと引き込まれ、レンガ造りの建物と建物の間にある窪みへ引きずり込まれると同時に、背後から口を塞がれた。
「な……っ」
咄嗟に抵抗しようとしたエドワードの耳元に、男の声が囁く。
「動くな。じっとしてろ」
鋭い、しかし、殺意などの危害を加えようという意図の感じられない声に、エドワードはすぐにもがくのをやめた。己れよりかなり長身で、しかも、がっちりした体躯の持ち主だった。背後から抱き込まれるように拘束されていては身動きするのも難しい。肘撃するにしても体格差がものを言う。
物陰に身を潜めているに等しい情況で、困ったことに、いったい何が起こるのか、興味が湧いたというのもある。
そして、その期待はエドワードを裏切らなかった。
「おい、どこへ行ったんだ」
「探せ」
と言いながら路地の奥を覗き込み、怪訝に前を通り過ぎて行ったのは、見慣れた濃紺の軍服を身に纏った士官らしい青年二人だった。推測するまでもなく、エドワードの後を尾行していたのだろう。司令部にいる軍人ならば大抵の者は顔に見覚えがあるのだが、肩にホークアイ中尉と同じ二つ星をつけたその二人は、エドワードの記憶になかった。
「いったい何をやらたしたんだ。軍人に追われるなんて……」
青年将校が通り過ぎ、気配も消えてしまってから、やっと背後の男はエドワードを解放してくれた。どうやら、性質の悪い軍人に目をつけられて追跡されているのだと思われたらしい。治安維持のためとはいえ、時には憎まれ役ともなる軍界の者を気の毒だと思いつつも、エドワードは一応の礼を言うべく顔を上げた。が、咄嗟に何と言っていいものか判らず、エドワードは男と向き合いながら、慌てたように鼻の頭を掻いた。
「こ、心当たりは色々あるんだけど、尾行されてるとは思わなかったな」
それへ、男はため息をついた。
「気をつけろよ。連中に睨まれたら、後が厄介だぜ」
「そうするよ」
顔を上げると、男の容姿が目に入った。身長はロイと同じくらいだろう。歳も同じくらいか、一つ二つ、下に見えた。濃い褐色の髪にセピア色の瞳という少々エキゾチックな外見だったが、異邦人ではなさそうで、どこにでもいるような普通の青年だった。通りすがりに一般市民のあらぬ危機を軍から掠め取ってくれただけらしい。
実のところ、この手の「正義漢」はよく見かけるようになった。大抵は軍に嫌な思いをさせられた一般の人々がちょっとした仕返しや憂さ晴らしとして手を出すのであるが、もっと若い少年少女が、純粋にからかいや遊びの一環としてゲームのように町を歩く軍人達を挑発し、追いかけっこをしたりしているという実態もあり、困ったことだとハボック達が嘆いていた。
「これからどこへ行くんだ」
「宿に戻る。弟が待ってんだ」
つい、自分は軍の狗です、と正直に言えず、エドワードは適当に誤魔化した。別に嘘は言っていない。アルフォンスは宿に戻って自分の帰りを待っているはずだった。司令部には、はっきりと到来を約束しているわけではないのであるから、別にすっぽかしても問題はないだろう。
「何だ、旅行者か」
「まぁな」
歩くよう促され、エドワードと男は路地を通り抜けると、大通り方面へと向かった。
「俺はエドワード。あんたは?」
「デヴィッドだ。俺もこれからアパートへ帰るところでね。ちょっと寄りたい店はあるが、通り道だ。送って行こう」
エドワードが投宿している宿の名前を聞くと、どういう酔狂か、男がそんな申し出をしてくれた。どうやら実際の年齢よりもかなり低く見られているらしい。さして珍しいことではなかったが、毎度のことながら、やはりカチンとくる。
「いいよ、ガキじゃあるまいし」
「充分ガキだろ」
「一五だ、これでも」
「微妙なお年頃だな」
「……どういう意味だよ」
眉を寄せるエドワードに、しかし、デヴィッドは屈託なく笑いかけ、大通りの一本手前の小道へと入って行った。
「あれ? ここは……」
通りの脇に立ち並んでいる街灯の下の部分に、「サンロード」という文字が見える。思い出すまでもなく、昨日通りがかった道である。
「どうかしたのか」
「いや、この先に花屋があったなと思っただけ。昨日、そこで知り合いを見かけたから、ちょっと思い出した」
もしかして、セシリアがと大佐が談笑していた花屋ではあるまいな、と思いながら、そうだったら面白いとばかり、エドワードはスーツケースの取っ手を握り直した。何故か、掌がじっとりと汗ばんでいたが、敢えて気がつかないふりをして男と一緒に歩いた。
案の定と言うべきか、デヴィッドが用があるという花屋は、やはり、例の花屋だった。
「よう、逆さ藤は入荷したかい」
と、声をかけると奥から店員らしい若い男が出てきた。
「ディヴ、どうした、こんな時間に」
「ちょっといい話が入ったんだ。……いいか?」
意味ありげに、デヴィッドが顔見知りらしい店員を手招きし、そっと耳打ちする。二人が何か言葉を交わし、頷き合っているのを横目に、エドワードはそれとなく店内を見渡した。
不審に思うくらい品揃えの悪い店だった。花など全くと言っていいほど興味も知識もなかったが、普通の花屋がどれだけ華やかに店頭を飾りつけるかぐらいは知っている。主に女性相手の商売は、できるだけ店頭で目を引くよう派手にレイアウトを凝らし、客に立ち止まってもらうことに勝負の分かれ目があるというのに、ここの売り物は束にして無造作にバケツに突っ込んであったり、萎びた蕾が床に落ちていたりと、とてもセシリアのような目の肥えた金持ちの女性が贔屓にするようなお洒落な店構えではなかったのである。
閉店間際だから寂れた感じがするのだろうか、と思ったエドワードの視界の先で、店員がちらりと視線を送って来る。が、エドワードは無視した。
「まぁ、そういうわけだ。また来るから、彼女に言っておいてくれ」
「判った」
二人の会話が終わったらしく、デヴィッドがエドワードを連れて店の外に出る。逆さ藤は持っていなかった。
「ここの店は店頭売りより配送の方が多いんだ。だから、店には余り商品を置かない」
と、道々デヴィッドはエドワードの疑問に応え、自分も注文品を配送してもらうよう手配しており、今日は頼んだものがちゃんと入って来たかどうか確認に訪れたのだ、と説明してくれた。
「それじゃ、気をつけて帰れよ」
「あ、ああ……」
適当に礼を言い、エドワードはデヴィッドと宿の玄関前で別れた。いささか言葉遣いは乱暴だったが、感じのいい青年だった。
「予定狂っちまったな」
こんなに早く帰るつもりはなかったのに、と愚痴りながらアルフォンスのいる一階の端っこの室のドアを開けると、やはり驚かれてしまった。
「どうしたのさ。遅くなるんじゃなかったの」
「司令部には明日行くよ。何もわざわざ大佐達の勤務時間を引き伸ばしてやることもねーだろ」
「それはそうだけど……」
気になったことはさっさと探りを入れて納得しないと安心できないというのがエドワードの性格である。こんなに間を持たすのはどういうことか、とアルフォンスは訝しげに思ったが、コートと上着を脱いでさっさと布団に入ってしまったエドワードを見て、慌てた。
「ちょっと、兄さん、まだ六時だよ。もう寝るの」
「二時間経ったら、起こしてくれ」
ころりと敷布の上に横たわり、そのまま寝付きよくエドワードは目を瞑ってしまった。極度に集中力を費やすと神経が磨り減って精神的に疲れてしまい、普段よりも睡眠時間を取ってしまうことがある。またか、と思いつつもアルフォンスは諦めたように嘆息した。
二時間経って起きたら食事して、もう一度寝直すのだろうか、とアルフォンスは思ったが、しかし、エドワードが目を覚ましたのは、翌日の朝だった。
「何でだ……」
寝起きの、ばらばらに乱れてしまった髪をぼりぼりと掻きながらアルフォンスを問い質すと、呆れたような返事が返ってきた。
「だって、熟睡っていうか、爆睡っていうか、揺すっても叩いても殴っても起きなかったんだもん。反対に、『うるせー!』って僕の方が殴られちゃったよ」
「え……、まさか……」
「左手、痛くない? 僕を殴った時に擦り剥いたはずだよ」
言われて己れの生身の方の手を見る。
「確かに、手の甲が赤くなってる。触ると痛い……。俺、そんなによく寝てたのか」
無理をしたつもりはなかったが、どうやら疲れが溜まっていたらしい。イーストシティに辿り着く前は、三日三晩列車の旅という強行軍だったのである。一昨日はアルフォンスと資料の突き合わせをしていて、神経が昂ぶったせいか、ろくに眠っていなかった。疲労感は感じていなかったが、体は正直だったということか。
頭を抱えるエドワードに、アルフォンスは追い討ちをかけた。
「軍の人が訪ねてきたけど、全然起きなかったし……」
「いつだ、それ」
「ちょうど兄さんを起こそうと思った時だったから、夜の八時くらいかな。緊急の用件があるから、すぐに司令部に出頭しろって。でも、兄さんの熟睡ぶりを見て、諦めたように帰って行ったよ」
「……ってことは、朝イチで司令部へ来いってことかよ」
「多分ね」
「多分って、連中はそう言わなかったのか」
緊急の用件ならば、念を押すはずである。それをしなかったとは?
「妙だな」
「司令部へ行ってみれば、解決するんじゃない」
それもそうである。手櫛でざっと髪をとかしつけたエドワードは潔く寝台を降りると、洗面台へと向かった。
「じゃ、俺は司令部へ行って来るから、お前は適当に時間潰しててくれ」
身支度を整えるとそう言い残し、エドワードは元気よく宿を出て走り出した。早朝の空気が気持ちよく、勢いのまま一気に東方司令部へ駆け込むと、二階に向かう階段の途中でファルマン准尉と鉢合わせた。
「リアナ鉄橋の通行停止は解除になりましたよ」
「え? 本当?」
「今朝から列車はダイヤ通り動いていますから、いつでも出発できますね」
それはありがたい。ファルマンに礼を言うと、エドワードはついでながら、ロイが不在かどうかを聞いた。
「ちゃんといらっしゃいますよ。直接執務室へ行くといいでしょう」
「あ、そう」
何だ、いるのかよ、と思いつつも、エドワードは何度も通った廊下を歩き、でかい扉の前で一度深呼吸してからノックをした。
「入れ」
聞き慣れたロイの声に体の奥が竦むのが判る。が、それを無理矢理捻じ伏せ、エドワードは扉を押し開けた。
「よう、大佐」
そう声をかけると、エドワードはやはりコートを着たまま執務室の中へと足を踏み入れた。正面の執務机に座っているロイは、やはりそれを咎めない。
「話は聞いている。レベル二のファイルを見てみたいそうだな」
椅子から立ち上がり、手前のソファに座るよう促されたエドワードは素直にそこへ腰掛けた。ロイは机を回り込むと、何故か立ったままエドワードの側に来た。
「何が見たいんだ」
尋問するようなそれへ、エドワードは惚けたように応えた。
「それならもういいんだ。俺の勘違いだったから。リアナ鉄橋も開通したみたいだし、さっさとおさらばするぜ。今日はその挨拶に寄っただけだ」
「ソードのことを調べたのか」
「いや、あんたの言った通り、ただのストリートギャングだってのが判った」
が、その言い分を、ロイは嘲笑するように切り返して来た。
「私はてっきり君が連中の虜になったのかと思ったがね」
「なっ」
「昨日、何故、尾行を撒いたんだ。しかも、あの後、サンロードの花屋に行った。知らない者が見たら、関係者ではないかと疑うじゃないか」
「あ、あれは、あんたがっ」
やったのか、と噛み付くと、ロイは涼しい顔で報いた。
「あの花屋はずっと我々がマークしていたんだ。開店したのは数ヶ月前だが、色々と怪しい噂があってね、それなりに調べているところだ。変な疑惑を招きたくないのなら、これ以上あそこには近付かないことだ」
「……どうして、俺を尾行なんかしてたんだよ」
低く、唸るように問いかけると、ロイはしれっとして言い抜けた。
「護衛のためだ」
「何の」
エドワードがロイを睨むように見上げる。が、ロイはいつものスタイルを崩さなかった。
「もちろん、君のだ。大事な国家錬金術師なのだからな。妙なトラブルに巻き込まれてもらっては困る」
「本当にそれだけなのかよ」
あからさまに信用していないとばかり、エドワードは胡散臭そうな顔をして見せた。そんな奇麗ごとなどロイには似合わない。何か下心があるだろう、と自然に思う。
「俺を尾行してた二人、全然知らない奴だったぞ。あんたの部下とは思えない」
「予備役の者に頼んだからだ。ここの者は皆忙しくてね、ちょうど手の空いている者がいなかったんだよ」
それが何か問題なのか、とロイが言外に問いかける。が、エドワードはそれを無視した。予備役というのは、本人の希望や戦傷、家族の要請など、何らかの事情で現役を退いた将兵のことであるが、問題はそこではない。
「俺に誰かが接触するのを張ってたんじゃねーのか」
その指摘に、ロイは肩を竦めた。
「不満かね」
「当たり前だろっ」
自分を釣りのエサか何かのように扱われて面白いはずがない。自分は手を汚さず、突ついた藪から出てきた蛇を待ち構えて捕まえるだけというのは、要するに、いいとこ取り以外の何ものでもない。当然の抗議ではあったが、それでもロイは平然としていた。むしろ、冷静な態度が輪をかけて冷淡になって行く。
「だったら、さっさとイーストシティを離れることだ。そして、忘れろ。君が深入りする、いや、手を出す分野ではない。昨日もそう言っておいたはずだがな」
それへ、エドワードがぐっと言葉に詰まる。確かに、ロイもハボックもこれ以上関わるなと重ねて警告して来た。積極的に関わった覚えはないが、よせと拒絶されてしまうと却って興味が湧くという天邪鬼な性格が災いしただけである。
「じゃあ、昨日、ブラシ・パスして来たのも、大佐の指示かよ」
「何だそれは?」
ここでやっと怪訝にロイが眉を寄せる。
「昨日、ブラシ・パスで指示を受けた。あれも大佐の差し金かっての」
「それは知らない。少なくとも、私ではない。何を受け取ったんだ」
エドワードの方へ身を寄せるように、ロイが問う。少なくとも、そこに欺瞞的な演技らしいものはなかった。それを確認し、それでも疑わしそうにエドワードは口を開いた。
「本当にあんたじゃねーのか」
「そんなことをしなければならない理由がどこにある。君に指示を与えるなら直接口頭で行う。電話だってあるし、電報だってある。君と私の関係は別に隠すようなことではないはずだ。ブラシ・パスなど、互いにバレたらまずい立場の者が使う手法だ」
言われてみればそうである。これまで、ロイがスパイもどきの行為をしたことなど一度もなかった。双方とも軍界の者なのであるから、こそこそする必要はどこにもない。軍服を着用していないエドワードが軍の施設に出入りするのを疑問に思う者はいても、理由を知れば納得する。軍人と国家錬金術師の関係であると言えば、公正明大で隠しようも誤魔化しようもなかった。
「得心がいったかい」
「ああ」
「指示は何だったんだ」
その問いかけに、しばらくエドワードは逡巡していたようだったが、やがて口を開いた。
「『セシリアに会え』。……それだけだ」
「それだけか」
当てが外れたようにロイが繰り返す。が、他に言いようはない。エドワードは肯定するべく頷いた。
「本当にセシリアはただの普通の女なのか。あんたはノーマークだって言ってたけど、こうなった以上、信じらんねーよ。何か黙ってることがあるんじゃねーのか」
「受け取った紙はどうした」
「処分したに決まってる」
即答して、不意にエドワードははっとして顔を上げた。
「何故、俺が紙で受け取ったと知ってるんだ」
が、ロイの返答はあっけらかんとしたものだった。
「何だ、やっぱり紙で受け取ったのか。オーソドックスだな」
「引っ掛けかよ……」
「まぁそうむくれるな。セシリアの背後に何があるのか知りたければ教えてやる。ただし、交換条件がある」
やっぱりノーマークではなかったのである、セシリアは。とすれば、ソードほどではないにしても、ろくでもないグループのシンパかそれ相当の関係者というわけである。否、もっと突っ込んで、構成員の一人なのかもしれない。
「条件ってのは何だ。俺に密偵の真似事なんかできねーぞ」
いくらか憤然と言い返すエドワードに、しかし、ロイは全く別口の話を振って来た。
「そんな不埒な仕事は頼まない。君の専門分野でのことだよ。研究者達が頭を悩ませている問題があってね、いい人材がいれば推薦してくれと、ちょうど頼まれていたんだ」
「錬金術関係か」
そう尋ねるエドワードからロイは身を引くように離れると、書棚から一枚の書類を取り出した。
「君に手伝ってもらいたいのは構築式の再構成なんだが、軍の機密事項に触れることだ。ハボックから聞いているかもしれないが、これもレベル二に属する」
「ってことは、俺が手を出していいのか」
「許可は私が出す。受けるかどうかは君次第だ」
どうする? と迫られ、エドワードは躊躇った。もっとも、それは数秒に過ぎなかった。
「判った。期限は」
「一週間以内だ。引き受けてくれるのか」
「どうせ、等価交換だって言うんだろ。受けてやるぜ」
その言葉を聞いて、ロイがにやりと笑う。満足そうに。いつ見ても、何度見ても気に食わない表情だと思いながらも、エドワードは立ち上がるとロイの机に向かった。
その手元に書類が差し出され、手元で逆向きにされる。
「では、誓約書にサインを」
「ああ」
机の上に転がっていたペンを取り上げると、エドワードは一応誓約書の内容に目を通し、所定の場所に己れのサインを書き込んだ。
「相変わらず傲慢な文章だよな、これって。もし、ここで得た情報を他者に漏らしたら、即処分か。軍法会議にかけられちまうって脅しだろ、これって」
「もちろん、そうだ。ヒューズに連絡を取ることになるな。軍歴に傷がつくぞ。いや、それ以上に不名誉除隊という事態になりかねん。君は軍人ではないが、国家資格の停止、もしくは剥奪の対象ともなるから、そのつもりで。言うまでもなく、君の弟にもここで見たことは全て秘密だ」
そんなにまでして守りたい機密というのは、いったいどういうものなのか、とつい庶民的な発想でエドワードは思案する。大した情報でなかったら、せせら笑ってやろう。
「で、いつから取り掛かればいい」
「今すぐだ」
「容赦ねぇな」
「この執務室と隣の控え室は自由に使っていい。必要があれば、軍の研究所の施設を使ってもいい。しかし、この仕事をしている間は、データやファイルを室の外へ持ち出すことは一切禁止だ。飲食も司令部の中ですること」
「寝る時は宿へ帰ってもいいだろ」
「監視をつけるから、その者に言い置けば、帰ってもいい」
「監視?」
ぎょっとしたように、エドワードが顔を上げる。
「そこまでやるか」
「そこまでやらないといけない規則なんだよ」
大人しく従えとばかり、ロイは誓約書を取り上げると責任者である自分の署名を入れ、決済済みのトレイへと放り込んだ。この後、書類は東方司令部の司令官へと回され、承認を得て効力を発揮し、例の書庫へ最低五年間保管されることとなる。
「しかし、安心したまえ。期限は一週間だが、それより早く終わるようなら、その時点で拘束は終了する。早く自由の身になりたければ、さっさと片付けることだ」
「判ったよ」
言われなくとも……、と呟くエドワードの前で、ロイが机の引き出しの中から一冊のフラットファイルを取り出した。
「それでは早速だが、君にやってもらいたいのは、これだ」
促されるまま受け取り、エドワードはファイルを開いた。そこには、「サーモバリック」という聞き慣れない単語が書き記されていた。
「セシリアに関するデータは?」
「ここにある。これも、レベル二だ」
そう言うと、ロイはもう一冊ファイルを差し出した。
せっかくロイとエドワードが一緒にいるのに、なかなか色っぽくなってくれません。やおいが書きたい! 書きたい気は満々なのに〜〜〜。(T_T)