Black Card 6



 軍務局の局長と会う約束をしていたから、と司令部を出たロイは、徒歩で五〇〇m先の官舎へと向かったが、その帰りはちょうど正午になってしまった。当然のことながら、大通りには昼食へ出かける人の群が溢れていた。
「ちょっとタイミングが悪かったですね」
 と、人ごみを掻き分けるように歩きながら、ハボックがぼやく。が、反射神経のいいことに、二人はぶつかりそうになる人の肩を軽くそびやかしながら躱し、一度もぶつかることなく大通りを抜けた。
「天気もいいし、初夏の花も咲き乱れている。平和そのものだ」
「何を暢気なことを……」
 つい最近も、軍関係のビルが爆破されそうになるという事件があったばかりだというのに。もっとも、ただの戯言であるというのは判る。
「エド達はもうサンロードに向かってるでしょうね。しかし、本当に大丈夫なんスか」
「何がだ」
「明日の朝になって、そこらの川で死体発見なんてのはご免ですよ。アルフォンスに恨まれちまいますって」
「それはないだろう。連中にそこまでする度胸があるとは思えん。所詮は、ただのチンピラだ。それに、そうそう簡単に鋼のがやられるとは考えにくい」
「まぁ、監視役もいることですしね」
 言いながら横断歩道の前で二人は足を止め、車の列が途切れるのを待った。
 その背後に、さりげなくごくごく普通のありふれたスーツ姿の青年が近づく。ロイ達と同じく、通りを横断するつもりなのだろう。
「……」
 その青年が、ロイのすぐ横に並ぶ。
 そして、腕を二度、軽くぶつけて来た。とんとんと、ノックするように。
 それを合図としたように、ロイは手に持っていた封筒をやや下に下ろした。すかさず、それが抜き取られ、代わりに同じ大きさと色の封筒が脇に差し入れられる。
 何事もなかったかのようなその一連の動作は、すぐ近くにいるハボックにすら気取られることなく終了した。
 歩道から人々が動き出すと、青年は近付いて来た時と同様、ごくごく自然に人並みに押されるように離れて行き、ロイとは視線を合わせることもなく別方向へと歩いて行った。
 サンロードの方へ向かったのかどうかは判らなかったが、それはロイにとってはどうでもいいことだった。興味があるのは、最終的な成果だけ。結果が出なければ、これまでの画策も工作も水泡に帰す。
 ご免被りたい事態にだけにはなってくれるな、と切に願いながらロイは司令部に戻り、執務室で交換された封筒の中身を取り出した。
「何です、それ」
「さぁな」
 中に入っていたのは、写真が三枚だけだった。隠し撮りしたものらしく、顔ははっきり映っていたものの、アングルは酷く苦しい。胸元辺りから上を見上げたような位置からの撮影だった。が、三枚とも同一人物を映したものであることは判った。右の頬の上にかなり目立つ大きな切創の跡があり、一度見たら忘れられないほどはっきりした特徴となっていた。
「ハボック、この男を除隊した軍人の名簿から拾ってくれ」
「え?」
 つい戸惑ってしまう。軍務局で渡されたのは、四つ折りにした書類ではなかったのか。いつの間に摩り替わったのか、聞き返しそうになったが、しかし、その質問をロイは許さなかった。
「早速取り掛かれ」
 が、ハボックは飄然と両手を上げた。
「その必要はないでしょう。この男、知ってます。確か、アンドリュー・リジアって奴ですよ。さっき、アルフォンスに見せた写真のリストの中にありました」
「最後の所属は?」
「歩兵大尉でした。原隊は第一八師団の第三五連隊だったはずです。連隊長に問い合わせてみますか」
「そうだな。頼む」
「了解」
 さっと敬礼して踵を返すハボックに、ふと思いついたようにロイは言った。
「参謀本部第二部長のニジェール准将に連絡を取っておいてくれ。できるけ早く相談したいことがあると」
「了解」
 すかさず応えたハボックだったが、第二部と聞いてぞっとした。参謀本部第二部といえば、国内外の情報ネットワークを統括する部署である。巷では謀略本部と仇名されているほどに一筋縄ではいかないエージェント達が徘徊している情報分野の支配セクトであり、色々と裏暗い噂に事欠かない部署でもあった。
 ここには、レベル二の上を行く、レベル一のデータが保管されている。レベル一はアイズ・オンリー(披見のみ)と言って、音読することも許されない国家機密に相当する重要データのことなのであるが、その大半は人事に関するファイルだった。要するに、軍内部の者の身元調査のデータであり、不穏な動きがあれば、誰と誰が繋がっているのか、何をしでかしたか、しそうなのか、そのような評定が付されて、時には特高(憲兵)の監視の対象になったりする。
 ロイにレベル一に接触する権限はなかったが、要請すれば第二部を通じて必要部分のみ開示してくれる。ロイの言う相談というのはそれだろう、とハボックは思った。これまでにも何度か問い合わせをして、部長とも会ったことがある。
 軍に限らず、組織にとって何が怖いかと言って、内部分裂やそれに繋がる腐敗や崩壊以外はない。いかに堅固なシステムを構築しようとも、強大な外敵に対抗し得るだけの防護策があろうとも、足元がぐらついていたのでは元も子もない。少しでも危険な兆候があれば、早々に潰しておくに限る。それだけに、第二部から正当な要請を却下されたことは滅多になかった。
 今回も、第二部長は日を置かずにロイの相談にのってくれるだろう。
 が、しかし、驚いたことに、連絡を受けたニジェール准将は自ら資料を手にして、わざわざ東方司令部にまで足を運んでくれた。
「手間をかけてすまない」
 と、ロイは執務室で第二部長を迎えるや、他の者を締め出し、数時間に渡る二人だけの会談に没頭した。
「こいつにはG指令が出ている。やばいかもしれないぞ」
 開口一番、ニジェールが言い放った台詞に、ロイはしばらく沈黙を強いられた。
「ジェイ・ビーは大丈夫だろうか」
「奴なら上手く切り抜けると思うが……、厄介だな」
 まだ面は割れてないはずだが、油断できない、と准将は苦虫を噛み潰した。
 頭を過ぎったのは、全身を切り刻まれて惨殺された二人の潜入部員だった。特高から借り受けた下士官二人は、顔の造作も判らない状態で発見された。自分の部下ではないと言っても、顔見知りが無残な姿で発見されるのは辛い。一時的とはいえ、自分の配下にあったとなれば尚更である。いくらこの結末が、投入された時点で予測の一つに数えられていたと特高課の課長に慰撫されても、屈辱感や悔悟の念が拭えるわけもなく、心の奥に刺さった棘となって時折り疼いた。
 潜入した三人のうち二人が消され、残る一人にこの計画の行方が託されている。奴は特務から叩き上げて、特工の仕事も何度となくこなしたプロ中のプロだから、と太鼓判を押されてはいるものの、同じ犠牲者が出ないとは誰にも保障できなかった。
「あんな思いは二度とご免だ」
 そう呟くと、ロイは窓辺に立った。日は翳っていたが、まだ充分明るい。
 エドワードはちゃんとセシリアに会えただろうか、とふと思う。
 一応、害はないはずである。彼女の欲しいものは判っている。エドワードはそれを提供できるだけの能力を持っているのだから、少なくとも多少反抗的で非協力的でも、速攻で殺されることはないだろうし、それなりの尋問は受けても、命に関わるような拷問はされないだろう。あれはあれでテクニックが必要なのである。
 ただ、心配なのは、余計なことを吹き込まれないか、という一点だけだった。
 女がテロリズムのような破壊活動や殺戮に手を染めると、男以上に危険な存在になることは、この世界の常識だった。
 何せ、女は女の武器を使う。どういう手段を取れば男が抵抗しなくなるのか、致命的な打撃を与えられるのか、しっかり把握しているだけでなく、躊躇なくそれを行使する。それが怖い。また厄介なことに、一面では男よりも潔い行動をとる。
 が、何よりも厭わしいのは、高い教養を持っている者が多いことだろう。大学出のインテリだったり、元教師だったりする女テロリストは珍しくない。それは、筋道立てて物事を考えられる知性があるということであり、危機的な情況に追い詰められても冷静な判断を下すことができるということである。己れに銃口を向けた兵士を、舌先三寸で丸め込んだ女を、ロイは知っていた。
 まともに当たれば、エドワードを自縄自縛の窮地に陥れることなど造作もない。その手の方面に免疫があることを祈るばかりである。
 が、しかし、ロイの杞憂は至極もっともなものとして、ちょうどこの時、エドワードの身に降りかかっていた。
 サンロードへ行く道すがら、エドワードは運良くと言うべきか、セシリアと接触することができたのである。例のオープンカフェに座っているのを見かけ、通り過ぎようとしていた足を止めると、セシリアの方が気付いて手招きしてくれた。
「奇遇ね」
 そう言って首を傾げるような仕種をするセシリアに、エドワードはぎこちない笑みを浮かべて椅子を引いた。
「ここへ来るの、日課なのか」
「そうでもしないと息が詰まるのよ。ずーっと家の中にいるわけにもいかないでしょう。遊び歩いているなんて、言わないでね。これでも色々と面倒なことがあるのよ」
「別に、あんたのやることに文句はねーけどよ……」
 何を言えばいいのか、困ってしまう。自分と殆ど変わらない歳でありながら、どこか大人びた雰囲気をまといつかせた容姿には、どうしても気後れしてしまう。心身ともに、女は男より二〜三歳早熟だと言われているが、それを実感させられた気分になる。
 視線を逸らせたエドワードに、セシリアがゆっくりとした動作で頬杖をつく。
「マスタング大佐とは仲いいのね」
「え?」
 どきりとエドワードが顔を上げる。が、それ以上、何も言うことはできなかった。
「三年前からの仲なんですってね。大佐から聞いたわ」
「あ、ああ、まぁな……」
 リゼンブールへロイがやって来て国家錬金術師にスカウトした時のことを言っているのだろう。そう判断して、エドワードは適当に話を合わせることにした。
「と言っても、仲良しこよしってわけじゃない。俺は奴の手駒みたいなもんだからな。都合よくこき使われてるぜ」
「あら」
 と、セシリアが意外そうな顔をする。
「そういうことを言ってるんじゃないの。もっとウェッティなことよ」
「はぁ?」
「やーね、鈍いったら」
 判っているんでしょう? と吸い込まれそうな碧色の瞳がエドワードを捕捉する。ぴたりと、視界にロックオンされたような錯覚に、正直エドワードはたじろいだ。この年頃の少女にあり勝ちな驕慢そうな光が過ぎるのが見える。
 まさかとは思うが、ロイとの秘めやかな関係のことを言っているのだろうか。しかし、ロイにしろ、エドワードにしろ、お互いの行為を他者に漏らしたことはない。アルフォンスすら知らないことなのである(多分)。
 その動揺が顔に出たのだろう、セシリアがくすくす笑う。
「正直ね。彼は魅力的だし、一緒にいて楽しいわ。女を喜ばせる機微を弁えてるし、顔もいい。連れている相手によって自分のグレードは切り替わるのよ。自分を高嶺の花にしたければ、それなりの人と付き合わなくちゃ」
「あんたな……」
 一度深呼吸するように息を吐き、エドワードは跳ね上がりそうな動悸を何とか押さえ込んだ。どういうわけか、いきなり突き上げてきた不快感に、反吐が出そうになった。
「そんな風に大佐を見てたのかよ」
 己れのプライドを守護するため、剰え不必要に高めるために持ち歩く高級ブランド品でもあるまいし、といかにも呆れたと言いたげな口調で肩を竦めてやると、セシリアはへこたれた様子もなく、平然と言い返して来た。
「当たり前じゃないの」
 悪いことではない、とセシリアは断言する。それは取りも直さず、エドワードに対しても、ロイの地位を利用したいがために側をうろちょろしているのではないのか、という確認を迫っていた。ずいぶんと屈辱的な、しかし、ある意味、的確に痛いところを衝く台詞に、エドワードは言いようのない羞恥と憤りを覚えた。
 確かに、ロイと連れ立って歩いていて、通りすがりの女達が嫉妬じみた視線を送って来るのを、どこか得意げに思ったことが全くなかったとは言えない。これだけ注目を浴びる男と一緒にいるのだ、という虎の威を借りる狐のような優越感が、そこにはあった。同性でもそのような意識は生じる。
「そんなこと言ってていいのかよ。あんた、旦那がいるんだろ」
「彼から聞いたの?」
 そんなことはどうでもいいとでも言うのか、貞操観念そのものを投げ捨てているのか、腹が立つくらいセシリアの態度は平然としていた。寧ろ、それを待っていたかのように、エドワードをじっと見つめた。
 その、不敵とも言うべき視線にどきりとする間もあらば、セシリアは爆弾発言とも言える台詞を吐いた。
「でも、考えるのは自由よね。想像してみるといいわ。彼が、私に手を伸ばす。私の前でシャツを脱いで裸の胸を晒す。スラックスのベルトをバックルから外して、ファスナーを下げる。そして……」
「……っ」
 がたん、と音を立て、エドワードは椅子を倒す勢いで立ち上がった。言われるまでもなく、何度となく自分が間近で目撃した光景である。否、昨日の夜、見たばかりである。嫌がって顔を背けるエドワードを許さず、ロイは己れの凶器を突きつけた。脅迫じみてはいたが、それを感じさせないほど優しく、あやすように唇と舌での愛撫を要求し、実行させた。
 そのままの光景と感触を如実に思い出してしまい、瞬時にして頭の中が沸騰してしまった。頬が熱くなっているのが自分でも判る。
 わなわなと、声も出せなくなってしまったエドワードをセシリアはやはりくすくす笑って見ていた。からかわれているのは明白だったが、反論することもできないほど舌がもつれ、指先が震えていた。
「ば、バカにするなよ……っ」
 何とか口にした言葉は、しかし、余りにもお粗末だった。セシリアは聞いているのかいないのか、頬杖をついたままきれいにルージュを引いた唇を歪めた。
「真っ赤になってどうしたのよ。猥談にもなってないじゃない。今どき純情ねぇ、珍しいわ。私のクラスメートの一人なんか一五で妊娠しちゃったっていうのに。お相手は同級生の男の子だったわよ。……あら」
 ふと視線をエドワードの背後へとやると、セシリアはぱっと顔を輝かせた。
「デヴィッド」
「え?」
 釣られて振り返ろうとしたとたんだった。エドワードは背後から両肩にがっしりと手を置かれ、押さえつけられて動けなくされてしまった。そのまま元通り椅子に座らされる。
「待ったか」
「いいえ。それより、この子よ」
「エドワード・エルリックだな」
 己れの頭上から降って来る男の声には聞き覚えがあった。一昨日、エドワードを見張りからまいてくれた、あの青年に間違いなかった。
「デヴィッド・ロウか」
「こっちを向くなよ。大声を出すな」
 囁くように、デヴィッドがエドワードに吹き込む。どうやら待ち伏せに遭ったらしい。臍を噛んだが、もう遅いようだった。人通りの多いここから逃げ出すのは、かなり無謀と言える。
 デヴィッドが何も武器を持たずにここにいるとは考えにくい。どういうエモノを所持しているのか知らないが、ジャックナイフや飛び道具だったりしたら厄介である。周囲を巻き込む可能性があった。こんなところで負傷者を出したりしたら、ロイが仕掛けた布石が台無しになる。
 もしかしたら、この周囲にはデヴィッドだけでなく、他にも何人かソードの仲間が張っていたのかもしれない。ロイがつけてくれた護衛がまだ張り付いていることを祈りながら、エドワードは早々に無駄な抵抗を放棄した。
「俺をどうしようってんだ」
「一緒に来てもらおう」
 そう言うと、デヴィッドは片手を外した。が、自由にしてくれたわけではない。
「立て。逃げるなよ。俺が丸腰じゃないことを忘れるな」
 しっかりと脅しをかけられ、エドワードは心の中で嘆息した。セシリアに上手く引き止められてしまったらしい。油断したと言われれば、その通りとしか言いようがないが、仕方なくエドワードは促されるまま椅子から立ち上がった。考えるまでもなく、自分で罠の中へ飛び込んでしまったのである。
「どこへ連れて行く気だ」
「それは着いてからのお楽しみよ」
 セシリアが席を立ち、レシートを掴み取る。
「先に行ってて。後から追いつくわ」
「遅くならないようにな」
 ここで二手に別れ、デヴィッドはエドワードの右肩から手を離さないまま歩き出した。人が見れば、少年をエスコートするように青年が肩を抱いているような姿だっただろう。数mも行かないうちに、デヴィッドは口を開いた。
「なぁ、さっきから気になってたんだが、これは鉄の感触だな」
「ああ」
「パットでも入れてるのか」
「いや、義手だ。肩までプロテクターがついてるから」
「機械鎧か」
「まぁな。でも、安心しろ、刀を仕込んだり、マシンガンになってたりはしねーから」
「それを聞いて安心した。君に暴れられたら困るからな。一応、噂は聞いている」
「へぇ、どんな?」
 興味をそそられ、エドワードは聞き返した。
「いったんかっとなると手がつけられなくなる。しかも、それなりに体術を仕込まれているから、その外見に騙されるなってね」
「外見ってのは、チビだってことかよ」
「君の想像に任せるよ」
 エドワードの怒気をかわすように簡単に言い抜けると、デヴィッドはサンロードへは向かわず、大通りに面した雑居ビルの一室へと入って行った。
 が、事務所仕様のそこは、日付と記号の刻印された木箱が天井近くまでいくつも積み上げられているだけの、荷物置き場か倉庫のような室だった。
「何だよ、ここ」
 酷く視界が悪い。木箱以外には何も見当たらなかったが、その陰に誰が何人潜んでいるとも知れなかった。
「見ての通り、とあるAV会社のサンプル品を一時的に預かっている室だ。しかし、そんなことはどうでもいい。AV機器の劣化を防ぐためにこのビルは普通の鉄筋より頑丈な造りになっている。保湿、保温効果は無論のこと、防音にも優れている」
「要するに、俺がここで大声で喚いたり騒いだりしたとしても、誰も気付いてくれねーってことか」
「防振機能もある」
 いくら暴れても無駄だ、と暗にデヴィッドが言い含める。それが合図であったかのように、木箱の後ろで複数の人間の気配が動いた。
 はっとするまでもなく、エドワードの背後と脇から数人の青年が現われた。否、誰もが青年というより、それに準じるくらいの若さだった。ざっと見たところ、皆二〇歳前後だろう。
 確かに、チンピラかストリートギャングに毛が生えた程度のグループである。寄らば大樹の陰とばかり規模の大きな、しかも、名の通っている組織に吸収されたいのはよく判る。現状維持を続ければ、大した自己主張もできずに埋もれてしまうのがオチだろう。
「で、俺に何の用だ」
 腰に手をあて、エドワードが胸を反らす。虚勢を張っているわけではなかったが、そのようなポーズに見えてしまったらしく、エドワードの斜め後ろにいた男がくくっと喉を擦るような笑い声を漏らした。
「うるせぇぞ」
「気にするな。君にはちょっと教えてもらいたいことがあるだけだ。それに応えてくれたら、すぐに返してやる。あの大佐のところへな」
「大佐を知ってるのか」
「イーストシティの住人なら誰でも知っている」
「そういう意味じゃねー。個人的に知り合いかって聞いてんだ」
 デヴィッドが肩を竦める。応える気はないようだった。
「教えてもらいたいことってのは何だ」
 さっさとやることやっちまおう、とエドワードは開き直ったように言い放った。生来、気の長い方ではない。それはデヴィッドにしても望むところだった。
「いい度胸だ。こっちの要求は一つだけ」
「言ってみろよ」
 エドワードが顎をしゃくる。それへ、デヴィッドは意外な単語を口にした。
「サーモバリックの情報だ」
「……っ」
 どきりと心臓が跳ね上がる。熱圧爆弾はレベル二の機密事項だったのではないか。それは将官以上の者にしか知らされていないはずである。しかも、これにエドワードが携わったのは昨日からである。
 が、その疑問と衝撃を無理に押し込めると、エドワードはデヴィッドを睨みつけた。
「そんなもんのことを知ってどうする。俺は兵器の開発なんか手がけてねーぞ」
 デヴィッドは動じなかった。
「最初はマスタング大佐が手をつけていた案件だった。焔を操る錬金術師だ。それくらいはお手のものだろう。司令部も奴が理論もシステムも完成してくれるものと思っていたし、本人もそのつもりだった。だが、ここ数ヶ月は行き詰まったように放置されていた。それが、昨日辺りから動き出した。誰かが代わりにやっているんじゃないのかと疑っても不思議じゃない」
「その代わりって奴が俺だってのかよ」
 どうやってそんな内部情報をソードが知り得たのかは判らないが、まるで見てきたようなことを滔々とデヴィッドは語る。恐らくは、半分以上が推測から察した出任せなのだろう。が、変に外していないところが空恐ろしい。
「サーモバリックのデータを手に入れて、何をする気だ」
「もちろん、決まってるだろう?」
 にやりと、デヴィッドが揶揄を含んでエドワードに報いる。
 テロリストの手に大量破壊兵器を渡してしまったらどうなるか。自らの活動に大いに活用する以外に用法はない。予測という言葉自体が虚しくなるほど自明の理だった。
「悪いが、あれはまだまだ開発の段階だ。資料があっても不完全極まる。あんたらの役には立たねーよ。期待するだけ無駄だ」
「だが、近い将来には完成するんだろう?」
「いいや、残念ながら」
 すげなくエドワードは首を振った。演技ではなく、昨日一日、資料を見た限りでの感想だった。実用化には余りにも程遠い段階にあるのである、サーモバリックは。
「そういや、誰かさんが言ってたっけ。今は解明できなくても、科学技術が進めば、近い将来きっと解明できる。そう信じていたのに、いざ科学技術が進んでみたら、そう簡単には解明できないことが判ってきた。そういうパラドックスが科学の分野には往々にしてある」
「科学のボトルネックだな。サーモバリックもそれに引っ掛かっているというのか」
 デヴィッドの受け答えに、エドワードは満足げに頷いた。
「あんた、非線形の知識があるみたいだな。続きを言ってもいいか」
「かいつまんで言ってくれれば、後は俺がこいつらに説明してやる」
 だから、話せ、とデヴィッドは先を促した。
「要するに、エントロピーの増大に器の方が追いついて行ってないってことだ。サーモバリックは熱エネルギーを莫大な運動エネルギーへ変換して、周囲を巻き込んで一気に増幅するが、それを散逸系として収縮させる反力が大きすぎる。それで、どうしても爆発の範囲が設定できない。一度弾頭を放り込まれたら、放り込んだ奴まで道連れにしちまう。そんな兵器は危なくて使えねーよ」
「起爆の時点でカオスが発生するのか」
「誤差論の最小二乗法でも吸収しきれないくらい複雑なのがな。厄介なことに、収束させるための解が得られていない。初期値もな。研究が始まった頃はそのうち見つかるだろうと思われていたが、ここ最近、ちょっとやそっとでは解が得られないということが判って来た。場合によっては、開発計画自体を最初から見直す必要があるかもしれねーってこった」
「そうか」
「弾頭の構造もあれこれ手を加えられて、シミュレーションも行われているが、あんたらも知ってるだろ、二ヶ月前、研究所で爆発事故があったの。未だに上手くいってねーそうだ」
「成る程。サーモバリックができる前に、研究者がいなくなっちまうな。そりゃ、確かに製作する方が無謀だ」
 だから、ソードがそのデータを入手してもどうにもならない、とエドワードは断言した。専門家が手がけてできなかったものが、素人に、しかも、ろくな施設も持たないテロリストに完成させられるはずもない。
 デヴィッドはその事情に納得してくれたようだった。理論上、できることになっていても、実際に実験してみると案外上手くいかないものなのである。予測不能の無秩序化の要素(カオス)がいくつも加わるため、それが決定論的な終着点を大きく揺さぶる。そのズレが、結果的に致命的で修正不可能な誤差を生む。
 が、すぐにデヴィッドは気を取り直したように言った。
「俺の記憶だと、その系の解が保証つきで得られたという論文があったはずだ。中央の研究機関の何とかという奴がその手の雑誌に投稿していたんじゃなかったか」
「……」
 内心、エドワードは舌打ちした。どうしてそんな専門雑誌の内容を知っているのか。指摘の通り、その情報はロイから渡されたファイルにも参考資料としてしっかりと添付されていた。その解が正しいのならば、カオスの問題はかなり解消する。
 カオスは、秩序を非秩序へと導くノイズのようなものであるが、それを放置しておくと、最初に立てた関数式の変数が不規則に変動し、躍動するように乱れ飛んだ挙げ句、破断へと突き進んでいく。このカオスの発生をできる限り抑えるには、結果から初期値を推定する式を立てなければならないのであるが、その解はここ数十年得られていない。試行錯誤を繰り返しながら、徐々に正しい解に近づくという手法を取っているため、膨大な時間がかかるのである。
 非線形性の厄介な面だった。が、自然界の多くの現象は非線形であり、その複雑さやメカニズムを理解し、克服しないことには、科学の進歩はない。もっとも、今の段階では暗闇の中を手探りで歩いているようなものである。
「確実なもんなんか何もねーよ。まだ確立してもいねーものを全面的に信用しろって? 他の研究者に認められたわけでもないし、実証もされてない。注目はされてるらしいが、そんなあやふやな情報を鵜呑みにして火傷したら、笑っちまうしかねーぜ」
「君の意見はどうだ」
 逃げ切れる、と思ったエドワードを、しかし、容赦なくデヴィッドは引き止め、足元へと引き摺り戻す。なかなかの尋問官だ、とエドワードは苦々しくも感心した。
「さっき言った通りだ。解については信用できねーよ。検証するのはこれからだろ。これだってどれくらいかかるか判らない。一説によると、中央の研究所のスタッフ全員を集めても何年、いや、何十年かかるか」
「だったら、決まりだな」
 デヴィッドが軽く顎を撫でる。
「可能性だけだとしても、そんな危ないものが軍の資料室に眠っているのはやばいと思わないか。近い将来、別の手法が開発されて、完成してしまうかもしれないからな。そうなったら、俺達には脅威だ。いや、脅威に思うのは俺達だけじゃない。イシュバール戦の時みたいな殲滅作戦が行われたら、住民が一挙に皆殺しにされて、その時点でジ・エンドだ」
「だから?」
「サーモバリックの廃棄が必要だ。エドワード、君に持ち出して欲しい」
「何言ってんだ」
 とんでもないことを言ってくれる。こいつ、正気か? とエドワードは眉を潜めた。
「機密資料だが、君はタッチできるんだろう? だったら、その原本を持ち出して、焼却するなり裁断するなりして地上から消滅させることができる」
 違うか、とデヴィッドが問いかける。それへ、エドワードは応えを躊躇った。言われる通り、確かにこんな凶暴な兵器は生まれて欲しくない。できるなら、白紙に戻して欲しい。が、しかし、軍が正式に取り掛かっているプロジェクトを中止させるのは至難の業だった。関わっているのは、ロイと自分だけではないのである。
「俺は、許可された範囲でしかデータを閲覧できねーよ、残念ながらな。機密書類がどれだけ厳重に保管されてるか、想像つかないわけじゃねーだろ、あんただって」
「だが、君は錬金術師なんだろう? 金属の生成も操れる」
「……」
 やはり、デヴィッドに言い逃れはできないらしい。言われるまでもなく、エドワードの行く手にドアの鍵は必要なかったし、隔壁もトラップも用を成さなかった。
「レベル二の資料が収容されている場所なら俺が知っている。案内してやるからついて来い」
 デヴィッドのその台詞に嘘はなかった。アルフォンスが見たように、確かにこの青年は元軍人なのだろう。しかも、機密資料に触れられるような立場にいたに違いない。でなければ、「レベル二」などという単語は出て来ない。








2004,4,19 To be continued

  
 非線形やカオス、複雑系などのあれこれは、うろ覚えの知識で書きましたので、あまり真面目に取らないで下さいませ。しかし、非線形の資料を漁り直していると、何で人体練成が失敗するのか、朧気ながら判ってきました。次はそれを課題にした話を書いてみたいですね。(ノ^^)ノ