積極的方策 4
ブリーフィングの間、ロイは一度もエドワードの方を見ようとはしなかった。会議の中では異物でしかなかったのだろう。いかにヒューズが証言させたとは言え、キャットことキャサリン・ベイシンガーとの密会を「偶然」見かけたというのを、どこまで信じてくれたことか。
「で、あんたの目論みは何だ?」
ぎりぎりまで居座っていた書類倉庫から戻り、アルフォンスと実験内容を検討していたところをヒューズに呼び出され、エドワードはいたく不機嫌に口を開いた。
「俺に当たるなよ。話はこれからなんだからよ」
「後はあんたらの仕事だろ。俺は知らねーぜ」
「ブリーフィングに出たいってごり押しして来たのはお前さんの方だろうが。俺はちゃんと取り計らってやったぜ。約束通りな。まぁ、座れ」
報酬は受け取ったんだろう? そう仄めかすと、ヒューズは窓際にあるソファへ顎をしゃくった。数年前に軍が接収したというこのホテルはなかなか手入れの行き届いた部屋を提供してくれた。さすがにスイートというわけにはいかなかったが、二間続きのツインルームには、中央の軍法会議所と変わりない事務処理ができるだけの備品が用意されており、いざという時は、ここが高等軍法部の出先局になるよう設定されていた。
ちなみに、軍法会議には常設のものと臨時のものがあり、前者は中央で専属の将官に仕切られており、後者は各軍司令部、師団司令部等に設置されてはいるが、問題が起こった時のみ開かれるものである。ヒューズは前者の機関に属しており、現在は東方司令部のお目付け役のような立場にあった。
しかし、東部で起こった事件そのものに介入することが許されているわけではない。軍法機関は、軍令機関とは別の独立した部署であり、統括管理部門も責任者も違う。故に、事件に関してはアドヴァイザー的な存在に留まらざるを得なかった。それがもどかしいのだろう、ヒューズは身柄の自由なエドワードを更に利用しようとしている。
「これ以上俺に何の用があるってんだ」
「そう尖るなよ」
宥めるようにいなしながら、ヒューズはエドワードの横に腰を下ろした。さすがに軍服は脱いでおり、コットンシャツとズボンというラフな恰好になっていた。
「もう一度、『偶然』の出会いってのをやらないか」
「断る」
即座にエドワードは拒否した。偶然というのは、滅多に起こらないから「偶然」と言うのであって、二度も三度も立て続けに同じことが起これば、それは意図的な「必然」というものに早変わりする。頭の回転の悪くないロイがそれに気付かないわけがない。バレた時、怒りの矛先はエドワードに向いてしまうだろう。それは己れの本意ではなかった。
「じゃ、見つからないように奴の背後の席に座って、会話を聞く」
「冗談じゃない。そんなことはもうしたくないんだ。他を当たってくれよ」
「いいのか、他の奴にやらせて」
ヒューズがエドワードの肩に手を回し、優しげとも言うべき仕種で引き寄せる。
「気になるくせに。あのロイの野郎を二股かけてた女だぜ、どんなことを話しているのか、聞きたいんじゃねぇのか。俺はそのお膳立てをしてやろうって言ってるだけだ。違法行為でも何でもない」
「でも、ルール違反だ」
「ナマなことを言うなよ。結果が過程を正当化してくれる。お前さんが気にすることは何もねぇよ。その場にいるのが嫌ならいいオモチャをくれてやる。それを椅子の背凭れに仕掛けて来るだけでいい。回収はロイ達がいなくなってからだ。それなら簡単だろ。お前さんの姿を見られる心配もないし、誰が仕掛けたのかも判らない」
「手段を選ばないんだな、本当に、あんたは……」
「褒め言葉としてとっておくぜ」
にやりとヒューズが微笑う。エドワードは肩を竦めた。
「巻き添えはご免だ」
「一人でいい子ぶるなって」
当てこすりを言いながらもヒューズはここでエドワードに引き受けてもらわなくてはならなかった。尾行チームにハボックが混じることは予想外だったのである。欺くと言えば言葉は悪いが、その下準備をしなくてはならなくなってしまった。
「どうした、何が気に入らないんだ」
むずがる子供をあやすように、ヒューズがエドワードを更に引き寄せ、軽く揺さぶる。それへ、エドワードはぽつりと漏らした。
「腹減った」
「ああ?」
「腹減った。メシ食おうと思ってたところだったのに、あんたが邪魔した。知ってるか。食いたいのに食えないってのは、すっごく惨めで欝な気分になるんだぞ。周囲の風景が灰色に見えるくらい侘しくなる」
恨めしげに睨まれ、一瞬ヒューズは戸惑ったが、次の瞬間には盛大に吹き出した。それでやたらと反抗的だったのか、と疑問が氷解したとたん、ヒューズは陽気になった。
「そうかそうか。そりゃ悪かったな。ルームサービスでも頼むか。いや、それよりもこの上のスカイレストランへ行こうぜ」
ハンガーにかけてあったジャケットを取って羽織ると、ヒューズはエドワードを促した。
「スカイレストランってのはここの最上階にあるレストランだ。展望台みたいに見晴らしがいいから、思いっきり地上を睥睨してメシが食えるぜ」
上から目線のいい気分になれること請け合いだった。無論のこと、エドワードはほいほいついて行った。どうやら、対面のビルでロイ達が豪勢な食事をしているのを見ながら、己れはファーストフードをつつくというギャップに、いたく欲求不満を抱いていたらしい。
「いい機会だから、奴がひた隠しにしてる過去を教えてやるよ。あいつ、二股かけられたの、これが初めてじゃないんだぜ」
「本当かよ」
「本当だ。ゆっくりその経緯を教えてやるよ。まだ士官学校にいた頃の話なんだがな……」
そんなくだらないことを喋りながら二人は室を出ると、廊下の先にあるエレベータへと向かった。最上階は一五階である。壁の片側が全面ガラス張りで、夕景や夜景が一望できることで有名だった。
この時、浮わついて目的地へ急ぐ二人は、室から数m離れたアルコーブに一人の男が潜んでいたことに気がつかなかった。
その男はヒューズとエドワードがエレベータに乗り、しばらくは戻って来ないこと、周囲に誰もいないことを確認してからそっとドアに忍び寄り、マスターキーを使って鍵を開けた。
そのまま室内に侵入すると、各室内に常備している電話機にまっすぐ近付いた。主にはフロントとの連絡用であるが、外線も使えるし、軍の施設である関係上、司令部にも繋がる機種である。
男は手袋を嵌めた手で受話器を持ち上げ、送話口のカバーを外すと、その内側に一p四方の小さな機械を取り付けた。手際よくケーブルを接続してキーボードから暗誦していた八桁の番号を打ち込み、認証されるのを待った。認証されれば、このナンバーは一種のコードとなって別のラインへと自動的に繋がる。
数秒の後、キーボードにある小さなランプに緑色の光が灯った。OKである。ポケットから検針機を取り出し、機械に近づけると、微かにオレンジ色の光が瞬いた。これでちゃんと作動する。受話器を持ち上げるとそれがスイッチとなり、中継機能が動作して別の電話に繋がり、通話が共有されるという、盗聴に使われる手段だった。
ただし、バッテリーは約三日。ヒューズの滞在は一週間ほどだとホテルのスタッフに聞いている。もう一度来なくてはならないかもしれないが、一応はこれでいい。男はすぐさまカバーを元通りに嵌め込み、フックが衝撃を受けないようそっと受話器を置いた。
ほんの数分の作業で男の仕事は終わった。絨毯に残る足跡に注意を払いながら、男はそのまま室を立ち去り、音もなくドアを閉めた。気のきいたエージェントならばドアに紙切れなどを挟んでおいて、留守中に侵入者がいなかったかどうか、トラップを仕掛けていたりするものであるが、ヒューズはそんな防護策を施したりはしていなかった。仮にも軍の宿泊施設である。油断していた。
一時間後、戻って来たヒューズとエドワードは、全く何も気がつかずに明日から始まるあれこれの打ち合わせを簡単にした後、ベットに潜り込んで盛大に寝入った。不眠不休の激務になるのはこれからだった。
翌朝、ヒューズはフロントからの電話のベルで起こされた。
「何だ、こんな朝っぱらから」
お客様がお見えになっております、お通ししてもよろしいでしょうか、とフロントのスタッフが不機嫌そうな寝言のようなヒューズの口調を無視して、接客業のプロらしく丁寧に応じる。
「誰が来てるって?」
「ロイ・マスタング大佐と名乗られております」
何だ、あいつか、とヒューズは眠い目を擦りながら欠伸を噛み殺した。
「判った。通してくれ」
そう言えば、室番号を教えてなかったな、と思いながら受話器を置くと、ヒューズは親友を迎えるべく洗面台へと向かい、顔を洗って髪に櫛を入れた。昨夜は嗜む程度にしか酒は飲んでいなかったが、夜更かしをしたせいか、目が腫れぼったくなっていた。
ドアがノックされたのは、ヒューズが部屋着を着替えている最中だった。
「よう、ロイ。どうした、出勤のお迎えか」
「それもあるが、お前に話しておくことがある」
すでにきっちりと軍服を着込んでいるロイの表情は堅い。昨日の屈辱的な暴露がまだ尾を引いているらしい。内心、ヒューズは気の毒に思ったが、顔には出さなかった。ここで不用意に謝罪めいた言葉や同情めいたを台詞を口にすれば、ロイは更にプライドを傷つけられてしまうだろう。女たらしだの何だのとよく言われているが、結構そっちの方面に関してはデリケートで一家言持っているタイプだった。
「入れよ。何か飲むか」
「ハボックを外に待たせている。長居する気はない」
言いながらもロイは室に入ると、リビングに相当する部屋のソファに腰を下ろした。
「話ってのは何だ?」
「貴様は、いや、高等軍法部は何を企んでいる」
「ずいぶんとストレートな質問だな」
「応えろ」
「何も企んじゃいねぇよ。目的はお前と同じだ。アイロス将軍を軍から追放すること。そのための不祥事の物証を収集する」
「昨日、やたらと『キャット』の名前を連呼したのは何故だ」
「そうだったか」
「ああいう場では、個人名はできるだけ出さないものだ。主計大尉の名前も将軍の名前も出さなかったのに、キャットだけは別だった。何か目的があってのことだろう」
「今後の鍵になる人物だ。しかも、民間人。出席者に名前をちゃんと覚えてもらおうと思っただけだ」
「他意はないと言うのだな」
「俺の方が思いつかねぇよ」
困惑したようにヒューズが大仰に肩を竦めて見せる。ロイは眉根を寄せた。個人の名前を連呼するのは、普通、その人物をどこにでもいる誰でもいい無機的な物体から、血肉の通った生身の人間として印象付けるという効果がある。いったい何のためなのか、ロイにはヒューズの意図が見えそうで見えなかった。
「では、私にスパイまがいのことを押し付けたのは何故だ」
「証拠集めの手段だ。気にするな」
暗に、「スパイ」などという単語を気安く使って欲しくない、という意味を込めて、ヒューズはロイの向かい側に座った。その位置からは、壁に大きく穿たれた窓しか見えない。
が、ロイからはだらしなく半開きになった寝室のドアから、中の様子が半ば見えてしまっていた。大して広くもない隣室である。壁に寄せるように置かれたセミダブルのベットには、いかにも起き抜けと言った風情のくしゃくしゃになったシーツと毛布が無造作に投げ出されていた。
「……」
何かの気配を感じたのか、不意にロイが視線をそちらへやる。吊られて首を動かしたヒューズは、にやりとした。ベットの端に、俯せになった裸の足が見えたのである。
ロイが苦々しく嘆息する。
「どこで拾った」
「堅いこと言うなよ」
口吻から察するに、ヒューズが街娼を連れ込んだとロイは思ったらしい。ホームグラウンドを離れるとついつい羽目を外してはしゃいでしまう者は珍しくないが、相変わらずの女癖の悪さだ、と一種の抗議を込めて、ロイはしばらく沈黙した。
「仕事に差し支えなきゃいいだろ。要はバレなきゃいいんだ、バレなきゃ。それとも、俺にお説教するか」
「いや。邪魔したようだな」
「そうでもない。もう起きる時間だったからな。しかし、たかが女のことでカリカリするなって」
たかが女と言いつつも、それがキャットのことなのか、それとも「街娼」のことなのか、ヒューズははっきり使い分けしなかった。
「先行きが不安だってのは判るぜ。俺だってそうなんだからな。だが、ここで心配したって始まらねぇよ。それに、案ずるより生むが易しってこともある」
「何の話だ」
「今後の行く末のことだ」
ヒューズはべらべら喋り続けた。喋りながらも、ロイの視線が寝室の方へ向かっているのに気付いていないふりをし続けた。
寝室から見えている足が誰のものか、気になっているに違いない。否、どこかで見たような気がしているのだろう。しかし、思い出せない。もどかしく思いながら、ロイはヒューズの無駄話に相槌を打っていた。
やがて、ヒューズにも聞こえるほど、ぎしりとベットの軋む音がした。恐らく、寝室にいる眠り姫が目覚めたのだろう。その人物は寝台の端っこに引っ掛けてあるガウンを取ろうとして片手を伸ばした。
ちらりと見えたその右腕は、機械鎧だった。
まさか、と思うロイの視界に揺れる長い金髪が見え、すぐに見えなくなった。
「どうした?」
ヒューズがうっすらと笑う。
ロイは一瞬にして事態を悟った。
「貴様……」
勢いで立ち上がったロイは、しかし、それ以上何も言うことができなかった。
「もう帰るのか。いきなりだな」
「……」
無言で背中を向けるロイに、ヒューズは言った。
「今日は憲兵司令部の方と連絡を取ってみるぜ。あっちはあっちで何か判ったかもしれないからな」
「そちらの方はお前に任せる」
憲兵司令部は、本来軍法会議所と同列の軍法機関なのであるが、仕事の関係上、弟分のようなものとなっていた。軍令機関に属するロイがあれこれつつくよりよほどスムーズに話が通るだろう。
「私は司令部で連絡を待っている」
冷静に言ってのけながら、ロイの声には苛立ちが混じっていた。敏感に、ヒューズはそれを察した。面白い成り行きになってきた。ついでだから、これも有効利用してやろう。そう判断するのに、数秒とかからなかった。
ばたん、と目の前でドアが閉まり、軍靴の歩き去る音が聞こえる。ヒューズは組んでいた足を下ろすと、寝室へと向かった。
「おい、起きたのか」
「ああ。誰か来てたのか。話し声が聞こえてたけど……」
「もう帰った。朝飯食いに行こうぜ」
ここのモーニングはバイキング式だが、なかなかいける、と説明するヒューズの台詞を聞きながら、エドワードは大きく伸びをした。まだ眠気が去っておらず、無防備に腕や足を伸ばしてストレッチしている姿は気ままに寝起きしている子猫のようだった。
実に健全で、裏暗いところなど微塵もない朝の光景である。
誤解したのはロイの勝手。ヒューズは内心で舌を出しながら、エドワードに洗面台の場所を教えてやり、自分は軍服をしっかりと身に着けた。
この日は、ロイに言った通り憲兵隊本部へ顔を出し、司令部と連絡を取って情報収集に当たった後、その分析を担当する情報将校の意見を聞いて一日が終わった。
今のところ、ターゲットに大きな動きはなし。
そう結論付けてロイのいる東方司令部へ赴いたヒューズは、ずらっと並んだ小会議室の一室で、鉛筆を握ったブレダに何だかんだと文句を言われているハボックを見かけ、素通りできずに声をかけた。
「何やってんだ、お前ら」
振り返ったブレダは、疲れたようにため息をついた。
「例の記憶の消失地図ですよ」
「ああ、あれか。地道なことやってんな」
「地道でも何でもやっておかないと、こいつの数日間は真っ白ですからね」
「かなり思い出せたんじゃなかったのか。もう心配いらないみたいなこと、ロイの野郎は言ってじゃないか」
「記憶を羅列するだけなら簡単ですよ。思い出したものを関連付けて並べていけばいいわけですから。しかし、朝何を食べたかなんてジャンクデータを避けてとなると、これがなかなか難しいんです。取り敢えずは仕事関係中心ですが、仕事以外に過ごした時間が仕事と関連してたりするから、その選別に困ってるってわけです」
「四苦八苦してるわけだな。ご苦労なことで」
確かに、人の記憶に留まらず、思考回路というのは酷くごちゃごちゃしていて、瞬間的に別の回路と繋がったり、一見関連性のないデータを掘り出したりするため、それを整理整頓するのはさぞや面倒臭い作業になっているだろう。隙間があれば、それが必然的なものかそうでないかの判断も必要となるが、比較対照とするものがないため、暗中模索と言ってもいい状態だった。ただ救いは、その期間が約一週間に限定されているということだろう。
「しかし、そうやって記憶を埋めて、何に使うんだ」
と言いかけて、不意にヒューズは思い出した。
「ああ、そうか。お前さんにぶつかったクルマの運転手、まだ捕まってないんだったな。その手掛かり探しか」
「そういうことです。クルマが盗難車だったってこと以外、捜査は全然進んでないですからね。容疑者の顔くらい思い出して欲しいんですが……」
ちらりと見遣ると、不貞腐れたようにハボックが椅子にふんぞり返って頬杖をついていた。すっかりこの退屈極まる作業に飽きてしまっているらしい。それでなくとも、ファルマンのように記憶力抜群とは言えないデキのよろしくない頭である。あれこれ突付かれて己れの日頃の迂闊さを指摘されているようでもあり、甚だ面白くないのだろう。しかも、記憶を辿っていると、その副作用ともで言うべき、忘れてしまっていた何年も前の嫌な思い出というものがいきなり浮上してきて、一気に不愉快になってしまうこともあった。
せめて、一つの事件ならばそれに関することだけ思い出せるような装置になっていればいいのに、と切実に思う。が、バイオテクノロジーの粋を結集して作成されたと言われる、高度にコネクショニズムの発達した人間の脳は、そう単純にはデータ処理をしておらず、悪戯にハボックを翻弄するばかりだった。
容疑者不明、逃走経路も不明。当然のこと、動機も背景も不明。判らないことばかりだった。が、ヒューズはそれを鼻先で笑う。
「事故を起こす前、お前さんはどこで何をしてたんだ」
「第一六師団に用があって、師団司令部へ出かけてたんスよ。その帰りだったはずなんですけどね」
それは勤務表を見れば一目瞭然だろう。しかし、その辺りが一番の空白地帯で、ハボックの言葉は酷く頼りなげだった。
「ちゃんと思い出せないってのは、思い出したくないって抑制が働いているって話を聞いたことがあるが、それはどうなんだ」
「今のところ、こいつが気に病んでたようなものは何も出て来てないスよ」
「そうだな。そんな柄じゃねぇもんな」
さもありなん、とヒューズは笑った。決して馬鹿にしたわけではなかったが、苛々していた二人には、かちんと来る笑い声だった。
「そっちこそ、こんなところで油売ってる暇があるんですか。用がないなら、もう行って下さい」
言下に、ブレダがヒューズを廊下へ追い出した。ばたんと背後でドアを閉められてしまい、ヒューズは頭を掻いた。
「そんな、怒るなよ……」
やれやれ余裕のないことだ、とぼやきながらヒューズはロイの執務室へと足を運び、憲兵司令部の見解を報告してやった。
「材料不足だ。やっぱりキャットの方を動かしてみるしかねぇな。将軍様を動揺させるのは、その後だ」
いや、最終手段だ、とヒューズは断言した。渋々ながらロイも頷いた。気は進まないが、任務を選り好みする権限も拒否する理由も、当事者にはない。
「キャットの様子はどうだ」
「異常なし。監視チームから特段目立った報告はないな。ハボック少尉もそう言ってんだろ。山場は明日だぞ」
大丈夫か、とヒューズが目顔で聞く。ロイは座っていた椅子を半回転させると、両手の指を組んだ。
「今のところ、キャットからデートをキャンセルする連絡はない。明日、約束通り、いつものバーで会うことになっている」
「そうか。それじゃ頼んだぜ。しっかりやってくれよ、色男」
「監視チームは張り付いているのか」
「当然だろ」
蝿を叩き出すように追い立てるなよ、いや、出し抜くようなことをするなよ、とヒューズは言い含め、軽く肩を竦めるような仕種をした。それへ、ロイが異議を申し立てる。
「引き上げさせてくれ」
「何故だ」
「監視チームがプロだというのは判っている。しかし、監視された状態でいつもの会話ができるとは限らない。ちょっとした気配に、彼女はもの凄く敏感だ。いつもと雰囲気が違うと気付いたら、その時点で口を閉ざしてしまうかもしれない。悪くすれば、椅子を蹴って帰ってしまうかもな」
「おいおい、お前さんらしくない発言だな。こんなことを今更言うのは何だが、軍法会議の審問が開かれた場合、こっちの切り札になるような人物から証言を取る必要があるんだぞ。キャットの協力は必要不可欠だ。帰っちまうってんなら、彼女の自宅まで押しかけて、ベットの中で白状させてやりな。お前に惚れてんだ、簡単だろ」
「そんな手は使いたくない」
「寝技は結構有効だぜ。男と女の仲なんてのはそういうもんだ。この際、しつこく食い下がってみちゃどうだ」
「あくまで、彼女を利用する気なんだな」
「何だ、お前、彼女に本気なのか」
そりゃ厄介だな、とヒューズがからかうように素っ頓狂な声を出す。これまで、割り切った遊び相手の女との付き合いは数え切れないほどあったが、本気で惚れた腫れたとの深刻な話は士官学校在学以来、ついぞ耳にしたことがない。キャットにしても例外ではなく、しかも、二股掛けられたりしているのである。何を躊躇っているのか、とヒューズは疑問に思った。
いや、疑問に思う必要はない。自分の思い通りにならない相手、他に相手のいる女、というシチュエーションは、未練や欲求を却って煽ってしまうことがある。
「お前な、『スワンの恋』って小説を知ってるか」
「いいや」
「スワンって名前の男が主人公の恋愛小説なんだが……、言っておくが、俺が買って読んだんじゃねぇぞ。嫁さんが読んでて粗筋を聞いただけだからな」
何だ、それは? とロイは怪訝な表情を浮かべた。が、時々ヒューズが関係なさそうな例を引き合いに出して説得の材料にすることを知っているロイは、しばらく好きに喋らせておくことにした。
「その小説の内容だが、早い話が、自分の好みとは全く違ったタイプの女に付きまとわれて、えらく疎ましく思っていたのに、結局結婚してしちまったってオチだ。で、当のスワンを誘惑した女――オデットが使ったテクニックがいくつもきちんと書かれてあってな、これから男を落とそうって女には恰好の指南書になってるそうだ。その中の一つにあるんだな、実は私にはあなたより付き合いの長い男がいるの、という告白を敢えてするってのが。人間って奴は、手の届く範囲にあるものなら執着は感じないものなんだが、いきなり手が届かなくなったと知ったとたんに惜しいことをしたって焦燥を感じるってか、嫉妬に駆られちまうんだよ。何の価値もないものがいきなり光輝いて見えるってわけだ。スワンもその罠に嵌っちまって、オデットと結婚することになるわけだが、結婚して三日目には早くも後悔し始める。大事な生涯の何年かを無駄にしてしまった、ってな」
「回りくどい言い方をするな。要するに、余計な感情に囚われてキャットに必要以上の情けをかけるな、と言いたいのだろう」
「お前だって判ってんだろ。確かに、キャットはいい女だがな」
しかし、己れのキャリアや人生を賭けるほどではない。ロイは忌々しく嘆息した。すかさずヒューズは畳み掛けた。
「しっかりしてくれよ。俺はこれまで、愛してはいけない人を愛してしまいましたって馬鹿げた告白を耳にタコができるほど聞かされてんだ。そんな与太った相談者の一人になってくれるなよ」
己れの感情をコントロールできない者に士官の資格はない。当然と言えば当然の軍律を持ち出され、ロイは憤然と嘆息した。
「私生活の一部を公務に利用するというのが気に入らないだけだ。こんなことは――」
「俺達にそんな境界線があると思ってんのか」
甘ちゃんもいい加減にしろ、とヒューズは詰る。ロイは沈黙した。こちらが紳士的なルールを守っていたら、敵はそのウィークポイントを衝いて来る。最小抵抗線を集中的に攻撃せよというのは、戦術・戦略の基本中の基本だった。
「貴様の言葉は友人の忠告として受け取っておく。安心しろ、軍令に背くような真似はしない」
「そう願うぜ」
頷きながらも、ヒューズはロイの語気に別の意味が込められていることにすぐに気がついた。こちらはあくまで軍令機関として動くのだから、その他の機関の者を引きずり込むな、という警告じみた台詞だった。
言わずもがな、エドワードをこれ以上、この事件に近づけるなということだろう。今回、国家錬金術師の出番はない。下手に首を突っ込んで、ただでさえ微妙な情況を引っ掻き回されたくはなかった。それでなくとも、エドワードが関わったお陰で事件の成り行きがややこしく、否、メチャクチャになってしまい、余計な事実関係まで引きずり出してロイが尻拭いをせざるを得なくなったことが何度あったことか。ここしばらくはできるだけ東方司令部にも部下達にも近付けないよう気を配っていた。
もっとも、それを不満としてエドワードが何かしら働きかけているのには、薄々気付いていた。ロイにとっては、エドワードこそが「オデット」だった。
「いいだろう、監視チームは引っ込めておく。お前さんはキャットとサシで勝負ってわけだ。お手並み拝見と行こうじゃねぇか。明日を楽しみにしてるぜ。結果報告はいつ頃もらえるんだ」
「遅くとも一〇時には」
「忘れるなよ」
監視チームから、異常なしという現状報告を確認してから、ヒューズは司令部を引き上げて行った。
エドワードがヒューズから件の装置を受け取ったのは、それから約一時間後のことだった。そのまま別れ、次に会ったのは、翌日の夜になってからだった。
よく晴れた、月明かりの眩しい夜道を、エドワードは息せき切ってやって来た。
「どんな塩梅だ」
と、ヒューズはホテルのリヴィングにエドワードを招き入れながら、テーブルの上に置かれたレコーダーを指差した。
「第七研究所にあった機械でテープに起こしてもらったけど、これでいいか」
「ああ、上等だ」
ヒューズは掌サイズの録音テープを受け取ると、早速レコーダーのカセットホルダーにセットし、再生ボタンを押した。
最初に聞こえてきたのは街角のざわめきのような雑音だったが、すぐに音声はクリアになった。
『……黙っていることがありますね、私に。あなたは私以外にもう一人、付き合っている方がいるようだ』
会話はいきなり核心部分に入っていた。どうやら、雑談は切り捨てて重要部分だけ抜き出して来たらしい。ちょっとまずいな、とヒューズは思ったが、その議論は後回しにした。
『あなたがそうしろと言うのなら、あいつとは別れてやるわ』
しばらくの沈黙の後、女が答えた。ヒューズの記憶に間違いがなければ、確かにキャットの声である。低めで深みのある、それでいて気さくではっきりと語尾まで発音する、曖昧さを許さない口調だった。
『難しいでしょう?』
『ええ、おっしゃる通りよ。彼とは長い付き合いだわ。切っても切れない関係なの。でも、私は断ち切りたいと思っているし、あなたに言われる前に精算するつもりだった。彼は、いえ、奴は私が生涯をかけて作り上げた大事なものを食い物にした』
『断われなかったんですか』
『当時はね。でも、今は違う』
ここまで聞いて、ヒューズがふと嘲笑にも似たため息を漏らした。仮にも軍司令部の将軍様を捕まえて「奴」呼ばわりするとは恐れ入る。しかも、その効果を充分知っている。第三者を貶めることにより、自分達の絆を強化し、同志的な情感を掻き立てようとしているのである。さすがに高級軍人に二股かけて平然としている女だけのことはある。しかも、明らかにロイに擦り寄ることを前提に話を進めていた。私にはあなたの方が遥かに大事なの、そのためには手を汚すことも厭わないわ、という切なくもいじらしいメッセージをキャットは発し続ける。
『奴と手を切れというのがあなたの望みなら、私に躊躇いはないわ』
そう急ぐことはない、とロイが諌め、しかし、女はいずれはそうしなくてはならなかったのだと弁解し、二人の会話はしばらく平行線を辿った。
が、いくら会話が進んでも、当の将軍様の名前は二人の口から出てこない。これもまずい、とヒューズは思う。これではただの情痴的な会話でしかない。証拠物件として提出するには、余りにもお粗末だった。
まさか、ロイはそれを意識しているのでは? という勘繰りをヒューズがし始めた時、キャットが言った。
『明日、私のアパルトメントへ来て下さらない? 今日は何の準備もしていなかったから、あなたに差し上げるものが何もないの』
「明日まで、証言を引き伸ばすつもりか。それとも、本当にちゃんと将軍との関係をバラすつもりなのか」
ヒューズが呟く。エドワードは黙ったままだった。
やがて、会話は不愉快で重大な告白を紛らわせるように、二人の出会いがどうのこうのというような雑談に移って行ってしまい、事件とは無縁のものとなってしまった。
「こんなもんか」
と、ヒューズはスイッチを切った。
「役に立つのか」
「マスターテープはどうした」
「第七研究所で預かってもらってる。要るのなら、明日取りに行くけど」
必要だったのか? とエドワードが怪訝にヒューズを見遣る。
「こういう記憶媒体での証言ってのは、一部分だけじゃ証拠として認められないんだ。テープとテープの一部分を繋ぎ合わせてありもしない会話を捏造することができるからな。出所を明らかにするという意味でも、前後の記録は必要だ」
ついでに言うと、コピーしたテープも証拠としては認められない。細工したのでは、という疑問が拭えないからである。機械を使っての証言は、かくも厳格だった。
「でも、二時間くらい録音されてるぜ。全部聞くのか」
「そういう仕事なんだ」
やれやれとヒューズが肩を竦める。証拠集めなど、地道で退屈な作業が大半を占めるが、これをしっかりしておかないと、軍法会議で弁護人にひっくり返されてしまう。せっかく法廷に立たせた被告発者を無罪で放逐することくらい悔しいものはない。
「ま、今日はご苦労だったな。アルのところへ戻ってゆっくり休んでくれ」
「そうさせてもらう」
これで用は終わったとばかり、エドワードはそそくさと室を出て行った。
ヒューズはテープレコーダーを片付けてから、リヴィングの電話の受話器を取り上げ、東方司令部へ繋いでもらった。
呼び出し音が鳴る。
が、その音はロイの執務室だけではなく、数q離れた別の室に取り付けられた電話器をもけたたましく鳴らしていた。
『マスタングだ』
しばらくして、受話器を取ったロイの声がスピーカーから聞こえてきた。多少くぐもってはいたが、確かに本人の声だった。
『よう、もう一〇時過ぎてるぜ』
『今連絡しようとしていたところだ』
その後に続く会話を、闇に潜む男がじっと聞き耳を立てていたことに、この時、ロイもヒューズもついぞ気がつかなかった。
2006,10,22 To be continued
やっと怪しい雰囲気になって参りました。今回、うずうずするロイエドを書きたいです。
えーと、本文中にあります「スワンの恋」ですが、私は読んでませんよ☆ フランス文学なんて言い回しがやたらとややこしくて意味深で、気楽に楽しめるものではありません。ただ、解説書は楽しく読ませていただきました。
で、今回初めて知ったんですが、「スワンの恋」ってアラン・ドロンの主演で映画化されていたんですね。が、しかし、粗筋を読んでびっくり☆ 原作と全然ちゃうやんか。(^▽^;)