積極的方策 5





 酷く眩しい光が顔に当たっているような気がして、エドワードはそれから逃れようと首を動かした。とたん、顎から首にかけてのラインに激痛が走った。否、頭部を突き抜けるような、耐え難い痛みに襲われた。
 「い、いててて……っ」
 呻くのもままならないほどの強烈な痛みに頭を抱えたくなる。それがきっかけとなってずきずきと割れ鐘を叩くような頭痛に見舞われた。視界が歪み、吐き気がする。余りの苦痛に、エドワードはそのままのた打ち回った。
 「目が覚めたか」
 すぐ近くで、聞き覚えのある男の声がした。決死の覚悟でエドワードは声を振り絞った。
 「た、大佐……?」
 喉がからからだった。もう何日も水を飲んでいないようなひりつく渇きに、己れの声は情けないほど掠れていたが、何とか意味のある言葉になってくれた。やがて、軽いため息とともに、ぎしりと何かが軋む音が聞こえる。ロイが近くの椅子に腰を下ろしたらしい。残念ながら、エドワードは満足に首を動かせなかったが、もし、そちらを見遣ることができたら、いつもの気障なポーズを取っているのを目の当たりにしたことだろう。
 「何が起こったのか、昨日のことを覚えているか」
 「何となく……、いや、全然」
 「一応、教えておいてやる。君は夜道で左の頬を殴られて吹っ飛び、その勢いで側の壁に叩きつけられて頭を打った。縫うほどの怪我ではないが、しばらく痛むだろうな」
 「何だって……?」
 「入院は一両日ですむそうだ。幸い骨折はない。顎も砕かれてはいないから、針金で固定するほどの重傷ではない。手加減されていたのかもな」
 いったい何があった? とロイが問いかける。が、エドワードはしばらく呼吸すらもどかしいほどに喘いだ。喋ること自体が苦痛だった。本当に顎の骨は無事なのだろうか、と医者の見立てを疑いたくなる。
 それでも、何とか頭の中を巡らせると、息継ぎをするように口を開いた。幸い視界は良好で、天井の白い升目がはっきりと見えた。脳の方も無事だったらしい。
 「き、昨日の夜? 二、三日経ってるような気がするんだけど……」
 「君がこの病院へ運び込まれてから、まだ一二時間と経っていない。脳震盪を起こしたせいで時間の流れがおかしくなっているのだろう。ところで、これが必要か」
 ロイがごそりと下衣のポケットを弄る。エドワードの目の前に差し出されたのは、薬包に包まれた二錠の白い錠剤だった。
 「鎮痛薬だ。先程、看護婦が出て行く時に預かった。余りにも痛みが酷いようなら飲ませておけと。起き上がれるか」
 「ダメだ。でも、薬はくれ」
 そう言うと、エドワードは無傷の左手を差し出した。カプセルでなければ、水なしでも飲める。そのまま口に放り込んで嚥下し、しばらく待つことにした。即効性の薬なら、ものの二〇〜三〇分で効いてくるはずである。
 「君は昨日の午後三時頃、ヒューズがいないかと司令部に電話を入れた。覚えているか」
 「ああ……」
 「生憎、ヒューズは出かけていて留守だった。恐らく憲兵隊本部の方にいるだろう、とファルマンに言われて、君はそちらへ向かった。しかし、ここにもヒューズはいなかった。用が済んでちょうど出て行ったところだったようだな。すれ違いになったわけだ。応対した憲兵は行き先を聞いていなかったらしく、居所を教えてくれなかった。それで君は下手にじたばた動いてまた行き違いになったらまずい、そう判断して、いったんアルフォンスの待つホテルに戻った。これが午後六時頃。それから二時間近く経った午後八時過ぎ、さすがに帰っているだろうと思ってヒューズの投宿先に電話を入れた。運良くヒューズが捕まった。君は奴に会いに行くからと約束してホテルを出た。……ここまでは間違いないか」
 「ああ、その通りだ」
 しかし、ホテルに辿り着く前にこんなザマになってしまった。余りに無様だ……、とエドワードは嘆きたくなった。それにしても、呆れるほどしっかりと完璧にトレースされた足取りである。まるで尾行でもついていたように。
 「馬鹿か、君は。宵の口とはいえ、盛り場を通り抜けようと一人で歩いていたそうだな。あの辺りは数チームのストリートギャングが出没していて、今年に入ってから何人も襲撃されている。命があっただけでもありがたいと思いたまえ」
 「うるせぇよ。ストリートギャングくらいどうにでもできる」
 「君が格闘技にも戦闘的な錬金術にも優れていることは認めよう。しかし、連中はナイフなどの刃物だけではなく、銃やボウガンで武装している。手製の手榴弾を持ち歩いている物騒な輩もいる。飛び道具で撃たれて無事でいられると思っているのか」
 「それは、ちょっと、まずい…かな……」
 さすがにエドワードが首を竦める。師匠のイズミは体術は徹底的に叩き込んでくれたが、二〇〇m/秒で飛んで来る銃弾の避け方や人体をもずたずたにする榴弾から逃れる方法までは教えてくれなかった。
 「しかも、今回、君は単純に殴打されただけだ。どうやら相手は何ら武器を持っていなかったらしいな。丸腰の相手にこの体たらくをどう説明するつもりだ」
 「油断してたんだ」
 ロイは憤然と腕を組んだ。
 「君はしつこくヒューズに会おうとしたな。何故だ」
 「別にどうだっていいだろ」
 ぎくりとしながらも、エドワードはこの場を誤魔化すことにした。まさか、ロイとキャットの会話を盗聴したマスターテープを渡そうとしていました、などとは口が裂けても言えない。が、ロイは見逃してはくれなかった。
 「どうでもいいことではない。その途上で君は襲われたのだ。心当たりはないのか。言っておくが、通り魔に遭ったという言い訳は聞かない。明らかに、君は狙われていた」
 「さっきストリートチルドレンに襲われたって言ったじゃないか」
 「ただ人を殴りたかっただけという衝動的な動機で通行人を襲う異常者もいるという話をしただけだ。それより、君の所持品でなくなっているものはないか、アルフォンスに確認してもらったが、銀時計や財布などの貴重品はもちろんのこと、その他諸々の持ち物でなくなっているものはないとのことだったが」
 所持品と言われて、エドワードはぎょっとした。
 「て、テープ、カセットテープはあるか」
 「テープ? 何のだ」
 「中佐に渡すはずだったんだ。コートのポケットに入ってなかったか。緑色のプラスチックケースに入れてあったはずだ」
 「君のコートなら泥だらけになっていたので、アルフォンスがクリーニングに出すと言って、持って行ってしまった。その時、ポケットの中を改めていたが、出て来たのは列車の半券くらいだったぞ」
 「そんな……」
 「君が襲われた理由は、そのテープの奪取にあったようだな。何が記録されていた?」
 が、エドワードは顔を背けた。
 「ヒューズ中佐と連絡を取りたい。中佐は今どこにいる」
 「私と話してからだ。言え。何のテープだ」
 「あんたには関係ない」
 「そんなことがあるか」
 いきなりロイが声を荒げた。エドワードはびくりと首を竦めたが、すぐに言い返した。
 「関係ないって言ってるだろ。知りたきゃ中佐から聞けよ」
 「要するに、君の口からは言いたくないということか。それとも、自分が言うと何か支障があるのか」
 どっちだ、とロイが二者択一を迫る。エドワードは躊躇ったが、ロイを睨みつけるように応えた。
 「後者だ」
 「判った」
 ロイのまとう空気が一気に冷ややかに凍りつく。まずった、とエドワードは瞬間的に悟ったが、もう遅かった。これでは、己れがヒューズの指示で動いていたことを認めたようなものである。
 「君が必死に何を隠しているのか知らないが、もし、私の不利に働くようなことなら容赦はしない。如何に事情があるのだとしても」
 「そんな大袈裟なもんじゃねーよ」
 「だったら、言いたまえ。ここ数日の君の言動は理解し難い。いったい、何を企んでいる。ヒューズに誑かされたか」
 「別に誑かされてなんかねーよ。つーか、あんた疑心暗鬼が過ぎるぞ。まるで、どっかのお偉いさんがあんたを陥れる陰謀でも練ってて、俺がそれに加担してるみたいな言い方だ。そんなご大層なことがあるとでも思ってんのか」
 「……」
 ロイがしばらく沈黙する。痛いところを衝いてしまったらしい。確かにロイは上層部から目ざわりに思われてはいるが、あくまでそれは若造の進級が早いという下世話で幼稚な嫉妬によるものであって、軍という体制にとって邪魔だから謀略的に排除しようという動きではない。たかが「大佐」である。勅任官(将官のこと。大総統の勅令によって任命される)ではなく、奏任官(勅任官が大総統に奏上して任命される軍人。佐官と尉官がこれに当たる)でしかなく、地位としては課長クラス、野戦軍ならば連隊長にすぎず、司令官にはなれない。早い話が中間管理職。有能ではあるが、さして重要人物、もしくはバックに何らかの有力人物や組織がついているなどブラックリストに名を連ねるような危険人物と目されているわけではない。どこまで自惚れてのだ、と痛烈にエドワードに指摘され、ロイは憤然とした。
 「今あんたがとっかかってんのは単純な横領事件なんだろ。さっさとその将軍様って奴を上げちまえばいいじゃねーか。それでバンバンザイだ」
 鎮痛剤が効いて来たのか、エドワードの口吻が滑らかさを取り戻して弁解の言葉に勝る非難じみた言葉を紡ぐ。何を神経質になっているのか、と嘲弄されたことに気後れしたのか、ロイは矛を収めた。
 「確かに、主犯を捕縛してしまえば、あとは芋づる式に片が付く。この事件は終わりだ。ただ、成り行きが気に入らない。それだけだ」
 「そんなのあんたがどうこうできることじゃないだろ。要は、事件が解決してしまえばいいんだ。そういや、キャットって女に会いに行ったんじゃなかったのか。そっちはどうなったんだよ」
 「特に進展はない。いや、延期というべきか」
 キャットには、今夜自分の家に来て欲しいと言われている。重要な話はそれからだ、とロイはエドワードを牽制するように言った。
 「ずいぶんとのんびりしてんだな。うかうかしていると足元を掬われるぞ」
 「確かにその可能性はあるが、焦っても事態が進むわけではない。却ってご破算にしてしまう場合もある。生きている人間が対象になっている時は尚更だ」
 解決に至る過程は、結果がよければ大した問題ではない。手柄は命令授与者のものになり、多少の逸脱は多めに見てもらえる。いつもロイが口癖のように嘯いている台詞だった。
 「それにしても、大きな口を叩くようになったな」
 ロイの声に笑みが混じる。もっとも、暖かみはない。追及の手を緩める気はないということか。エドワードは右手で顔を撫でるように覆った。
 「中佐はどこなんだ」
 「何故、それほどまでに奴を気にする」
 「どうだっていいだろ」
 投げやりにエドワードは悪態を衝いた。ヒューズと会うことがそんなに問題なのだろうか。まさか、二人の間の密約がバレているわけではなかろうが、尋問じみた会話に、つい不安になってしまう。
 もっとも、エドワードにとって応えたくない理由は他にもあった。
 俺のことなんかどうでもいいくせに、と悔しくも切ない思いが込み上げてくる。決してロイを焦らして楽しむような趣味は持ち合わせていないが、追及されればされるほどつい反抗的な態度をとってしまう。
 エドワードは、そのろくでもない感情を誤魔化すように痛む顎の辺りに触れた。絆創膏が貼られているのが判ったが、分厚くはなく、しかし、腫れているのだろう、覚えている限りの己れの顔のラインが外側に向かって大幅に変更されていた。腫れ自体は数日で引くだろうが、派手な痣になっただろうな、とエドワードは暗然と思った。殴られてすぐはうっすらと赤くなる程度であるが、数時間を経て青黒く変色し、特に目の周りを殴られるとブラックアイと言ってどす黒くなり、かなり痛々しい痣になる。はっきりきっぱり、鏡を見るのが怖い。
 そんなことを考えていると、側で再びぎしりと音がした。ロイが椅子から立ち上がったらしい。もう帰るのか、と思ったエドワードの耳に、思いがけない台詞が飛び込んできた。
 「まるで私に気があるような素振りだな。どういう意味か説明してもらおう」
 「……っ」
 どきりと胸が高鳴る。しかし、滑りのいい口は、裏腹な台詞を返した。
 「どっ、どこをどういじったら、そういう結論になるんだ。馬鹿も休み休み言えっ。寝言は寝て言えってんだ」
 「君の態度は、わざと思わせぶりなことを言って相手の気を引こうとするティーンエイジャーそのものだ。そういえば、もうそういう年頃だったな。別に驚きはしないが、手管としては余りにも稚拙で見え透いている。もっと勉強したまえ」
 「なっ」
 ロイがエドワードをからかっているのは明白だった。が、充分挑発的な言葉の羅列に、かちんとくる。
 「いい加減にしろっ。誰が誰の気を引こうってんだ。俺はそんなつもりで言ったんじゃない。自惚れんな」
 「では、他にいい相手がいるのか。見かけによらず、早熟だったんだな」
 「何で話がそっちへ行く」
 あんたの頭の中はそんなことばっかりで埋まってるのかよ、と言い返そうとした時、不意にロイの手がエドワードの手首を掴み上げ、圧し掛かるように被さって来た。
 「何を――」
 するつもりだ、との声は発せられなかった。いきなり、ロイの唇に塞がれてしまったのである。突然のことに、エドワードは目を開けたまま硬直した。当然のことながら、唇を割られても、舌先に触れられても、反応することができない。元より、このような行為は全くの未経験だった。
 「何だ、面白くもない。君はキスの仕方も知らないのか」
 すぐに唇は離れて行った。が、面白くもなさそうな口調に、エドワードはかっとなった。
 「け、怪我人に何しやがるっ」
 左手でごしごしと唇を拭い、目に涙すら浮かべて吼える。とんでもない陵辱である。ロイにとっては悪戯以外の何ものでもなく、気紛れの延長のようなものだろうが、エドワードは酷く取り乱した。
 「これくらい慣れたまえ。今日のはサービスだ」
 「……っ」
 エドワードがベットから起き上がり、サイドボードの花瓶を掴む。
 「でっ出てけっ。二度とここへ近付くなっ」
 花瓶を投げつけられる前に、ロイは素早くドアの向こうへと姿を消した。が、高笑いのような声はしばらく廊下に響き渡っていた。
 ドアが閉まる直前、外で待機していたらしいハボックの姿がちらりと見えた。病院という場所のせいか、珍しく煙草を口にしていなかった。その唇の端が、笑みの形に歪むのが、嫌になるくらいはっきりと見える。
 「あんのヤロー、いったいどういうつもりだ」
 こんな無様な形で奪われたくなかった。怒鳴ったせいで、またもや腫れた頬がずきずきと痛んだが、それを凌駕する屈辱感がエドワードを激怒させていた。愛情表現の行為は、これ以上はない侮辱の表現に豹変することを知らないわけではない。時には人格もプライドも踏み躙り、相手の心をずたずたに切り裂く。無論、その意味するところを弁えてやっているのだろう、ロイは。
 「くそ、こんなところで寝てられるか」
 そう呟くなり、エドワードはベットから降りようとした。着替えを探しに病室を出たものの、すぐに看護師数人に見つかり、強制的にUターンさせられて、見張りつきで監禁されてしまった。
 アルフォンスが戻って来た時には、エドワードはすっかり不貞腐れてベットの上で胡坐をかいていた。
 「何怒ってんのさ」
 「色んなこと」
 「あ、そ。じゃ、明日の朝までには機嫌直してね。午前中に頭のレントゲンを撮って異常がなければ退院だって」
 「骨折はないって言ってたぜ」
 「触診ではね。念のためにレントゲンを撮るから、逃げないように、って言われてるよ」
 「誰が逃げるかよ」
 どうやら、それが終わるまでヒューズには会いに行けないらしい。連絡も取りようがない。ヒューズの方から来てくれたらいいのだが、マスターテープを紛失したことを告げなくてはならないと思うと、気が重い。踏んだり蹴ったりだ、とエドワードは嘆いたが、大人しくするのはこの一晩だけだと自分に言い聞かせ、沸き立つような苛立ちと焦燥感を何とか抑え込んだ。
 鎮痛剤には眠気を催す副作用があるが、頭に血が昇っていたせいか、その晩はよく眠れなかった。
 しかも、翌朝の目覚めは最悪だった。鎮痛剤が切れたため、再びの割れ鐘をがんがん叩くような頭痛に苛まれながら身を起こすと、気分の悪さも手伝ってか、胃がムカつき、朝食には殆ど手をつけられなかった。
 「珍しいね、兄さんが残すなんて」
 「うるせぇ」
 気遣いながらも食器を片付けに病室を出たアルフォンスと入れ替わりに看護師がエドワードを連れに来た。
 レントゲンの撮影自体は簡単に済んだ。が、現像までの時間が長い。欠伸を噛み殺しながらエドワードは待合室のソファに腰かけ、アルフォンスに揺さぶられて目を覚ますまで転寝をしていた。
 結果は、やはり異常なし。
 「頭蓋骨にも脳波にも取り立てて注目すべきものはないね」
 そう医者に言われ、すぐさまエドワードは診察用の服を脱ぎ捨てていつもの黒ジャケットを身につけると、速攻で病院を出て行った。頬から顎にかけてもの凄く目立つ湿布を貼り付けたままではあったが、その足でエドワードは憲兵隊本部へ向かうつもりだった。この時点になると、頭痛を含む顎や頬の痛みはかなり和らぎ、無理に動かさなければ顔をしかめることもなくなっていた。
 が、アルフォンスを一人でホテルに戻らせ、病院の玄関を出たエドワードは、こちらへ向かって歩いて来るハボックの姿を見て、足を止めた。
 「少尉、どうしたんだ。病院なんかに用か」
 「お前さんを迎えに来たんだ。大佐の命令でな」
 「大佐の?」
 どういうことか聞き返そうとしたエドワードに、すげなくハボックが顎をしゃくってクルマに乗れと合図する。
 「どういうことだよ」
 「そんなの大佐に直接聞いてくれ」
 いかにも面倒臭げにハボックはドライバーズシートに乗り込むと、エンジンをかけた。
 何か不都合なことが起こったらしい。しかし、何がどう動いたのか、エドワードには見当もつかなかった。
 言われるままリアシートに座ると、そのままクルマは発進し、エドワードが入院していたのとは別の軍病院へと向かった。
 「誰か病気にでもなったのか」
 「黙ってろ」
 ハボックの態度は素っ気ない。駐車場にクルマを止めて玄関を入ると、まっすぐ三階の病室へと向かい、廊下にずらっと並んだ個室の一つをノックした。
 「ヒューズ中佐、ハボックです」
 「おう、入れ」
 くぐもった声に、エドワードはぎょっとした。ひょっとして、と思った嫌な予感は、しかし、ドアを開けて目に入った光景に裏打ちされてしまった。
 「どうしたんだよ、その顔」
 「お前の方こそ」
 ちょうど軍服に着替えようとしていたところだったのだろう、ベットに腰かけてシャツに腕を通していたヒューズの顔は、エドワードに負けず劣らず、酷いものだった。昨日は二倍に膨れ上がっていたという顔のあちこちには擦り傷や打撲の跡があり、片目は瞼が潰れて真っ赤、鼻は折れて曲がり、唇は白ソーセージのように不気味に腫れ上がっており、歯にも顎鬚にもまだ血がこびりついていた。かなり強烈に顔を殴られたらしい。
 「まるで地獄の生き人形だな」
 呆然と、エドワードが思ったことをそのまま口にする。ハボックがぷっと吹き出したが、ヒューズは笑えなかった。
 「お前も襲撃されたそうだな。一昨日の夜か」
 「あんたもなのか」
 「ほぼ同時だな」
 それだけの会話で、お互い何が起こったのかを確認した。襲撃者は、最初からマスターテープを狙っていたのだろう。ヒューズを気絶させて持ち物を探ったが見つからなかったため、エドワードを襲撃したのである。
 「で、取られちまったのか」
 「ああ、残念ながら……」
 「まずいことになったな。コピーの方も恐らくダメだろう。家捜しされてるはずだ」
 「コピー? 何のことスか」
 不意に、ハボックが二人の会話に割り込んだ。反射的にエドワードは口を噤んだが、ヒューズは諦めたように言った。
 「どうせ、それを喋らせるためにわざわざお前さんを迎えに寄越したんだろ。ロイの野郎、司令部で待ってんのか」
 「昨日からお待ちかねスよ」
 「そうか。まぁいい。こっちも奴に聞きたいことがあるからな。行こうぜ、エド」
 そう言うと、ヒューズは軍服の上衣を羽織り、ベットから腰を浮かせた。
 「二人揃っての尋問かよ」
 「心配するな。お前さんは黙ってろ。俺がいいように言い包めてやるからな」
 短く小声で交わすと、ヒューズはやはりエドワードをエスコートするように肩を抱き、病室から出て行った。それをちらりと横目で確認しながら、ハボックは何も言わなかった。
 東方司令部まではクルマで一五分程度である。二人はハボックに引率されるようにロイの執務室へと連行され、正面に置かれた執務机の前に罪人よろしく引き据えられた。
 「二人とも大したことがなくてよかった」
 と、ロイは椅子から立ち上がろうともせずに言い放った。普通なら、ここでソファか椅子に座れと勧められるのであるが、今日はそんな寛いだ雰囲気など全く感じさせない緊迫した空気が流れていた。逃げないようにとの予防策か、門の番人のように、ドアの前にはハボックが直立不動で立ちはだかる。
 「何故、呼ばれたのかは判るな」
 ヒューズがやれやれと肩を竦める。
 「何だよ、その仏頂面は。俺達が何やったってんだ」
 「何かやったから襲撃されたのだろう、二人同時に。いったい、私に隠れて何をこそこそやっている」
 「いきなりご挨拶だな。まるで容疑者扱いじゃないか。俺たちゃ一応被害者だぞ」
 「それは悪かった。しかし、被害者を尋問してみたら、実は加害者だったということはよくある」
 「こんな怪我をさせられたのは、されるようなことをした俺達が悪いってことかよ。で、お前は、その理由を知りたいってわけだ」
 「よく判ってるじゃないか」
 情け容赦もない会話である。本当にヒューズとロイは親友同士なのだろうか、とエドワードは疑問符を浮かべたが、逆に、親友だからこそぶっちゃけた話ができるのだとも言える。とすれば、下手な隠し事はご法度である。
 「だが、何故知りたい? 察しのいいお前のことだ。だいたいの見当はついてんだろ」
 「もちろんだ。だから、確認しておきたい」
 その台詞に、ヒューズが眉を寄せる。
 「キャットに何かあったのか」
 「……」
 「あったんだな」
 微かに、ロイが顔を背ける仕種をする。無意識の動作だったらしく、それを押し込めるようにロイはやっと椅子から立ち上がると、ヒューズに近付いた。
 「昨日から連絡がとれない」
 「会ったんじゃなかったのか」
 「待ち合わせ場所に来なかった。仕事場の方にも自宅にも電話をかけてみたが、不在だった。留守番をしていた通いの家政婦が伝言を預かっていたが、しばらく家を空けるというわけのわからない一文しかなかった」
 「キャットの書いたものか」
 「いや、電話口で伝言を読み上げるのを聞いただけだ」
 「そりゃまずいな」
 ヒューズがガーゼの貼られた顎を撫でる。血の滲んだ擦り傷に触ってしまったのか、すぐに手をどけたものの、深刻そうな表情はそのままだった。
 「例の将軍様が証拠隠滅に動いちまったか」
 「多分。その話をしていたからな、キャットとは」
 では、いつ主計大尉のように死体で上がってもおかしくはない。ぴりぴりした空気が余計に張り詰めたような気がして、エドワードは身を竦めた。ヒューズに言われてやったこととはいえ、人の命を左右するような事態になるとは思ってもみなかった。
 「しかし、あの将軍に手駒になるような兵隊がいたか。少なくとも、俺は聞いてねぇぜ。特工みたいな奴が側をうろついてたなんて考えらんねぇな」
 「私もそう思う。しかし、情勢は常に変動する。何らかの幸運に恵まれて、使い勝手のいい手勢を手に入れたのかもしれない。仲介役でもいい。擦り寄って来る連中はいくらでもいるだろう」
 「金だけはあるからな」
 二人の会話を聞きながら、エドワードは首を傾げた。
 ――特工?
 聞いた事のない名称である。「兵隊」というのは判る。兵卒や兵士という単語が固定する以前に存在していた名称で、単純に下士官より下の、一時的に召集されて戦場に連れて行かれる、早い話が使い捨てに近い二等兵や一等兵のことであるが、広義には指揮官の意のままに動く人間のことを指す。主従関係があったりなかったり、義理や金銭で結び付いている場合もあると聞く。
 「監視チームからそんな物騒な報告は受けてねぇよ。しかし、鼻のきくやつはいくらでもいるからな。やろうと思えばできるだろう、俺達に隠れて。可能性はゼロとは言えない」
 「そっちの方を頼めるか」
 「ああ、探ってみよう。それに、キャットの捜索もな。監視チームに聞けば、昨日の行動が判るはずだ」
 ヒューズが顔を上げ、ロイが頷く。二人の打ち合わせはこれで終わりだった。どことなくエドワードはほっと胸を撫で下ろした。
 出て行ってもいい、とロイが顎をしゃくる。ヒューズの後について、エドワードもドアの方へと向かおうとした。が、しかし、回れ右をしたとたん、呼び止められてしまった。
 「待て、鋼の。君に話がある」
 「な、何だよ」
 振り返ったエドワードに、ヒューズが言う。
 「スタッフルームで待ってるぞ。三〇分経って来なければ、迎えに来てやるからな」
 「あ、待てよ」
 慌てて追いかけようとしたエドワードを、ドアの前のハボックが阻む。
 「戻れよ。お前さんとの話はこれからだ」
 ぱたん、とドアが閉まり、ヒューズの姿が視界から消える。晴らせる疑いならここで晴らしておけ、ということなのだろうが、嫌が上にもエドワードは取り残される不安と身の危険を感じた。
 「ハボック、あれを見せてやれ」
 「了解」
 ハボックは軍服の下衣のポケットを弄ると、緑色のプラスチックケースを取り出した。
 「こいつに見覚えはあるか」
 「それは……」
 エドワードはぎょっとして顔を上げた。それは、間違いなく一昨日の夜、何者かに奪取されたマスターテープを入れておいたケースである。磁気に弱いため、そのような防護ケースが必要だと言われて、研究所の所員からもらったものだった。
 「何が入っていたかは、よく判っているはずだな。しかし、安心したまえ。中身はカラだった。路上に捨てられていたのをわざわざ届けてくれた親切な人がいてね。ケースの表面に軍のマークが入っているだろう? それで司令部の備品だと思ったらしい」
 「そうか、カラだったのか……」
 「恐らく、中身は完膚なきまで破壊されて廃棄されたことだろう。焼却されたかもしれない。これで、何が録音されていたのかは永遠に判らなくなってしまったが……」
 と、ロイは立ったままのエドワードに近付いた。
 「君に教えてもらうことはできる」
 「そんなの、もうあんたにはお見通しなんだろ。さっきもそんなこと言ってたじゃないか。わざわざ俺に訊く必要なんかあるのか」
 「あるとも。テープがなくなっているのなら、録音を実行した人間の証言が代用として必要だ。言ってもらおうか。何を録音していた。いや、何故それを私の目から隠そうとする」
 すっと背後にハボックが回るのが判った。エドワードが身を翻す前にハボックはエドワードの腕を取ると、そのまま背中に捻り上げた。
 「なっ、何しやがる。離せよっ」
 腕が引き千切られるような痛みに悲鳴を上げそうになりながら、エドワードは怒鳴った。
 「君の右腕は機械鎧だが、左腕は生身のままだ。そのまま喋らないと骨折してしまうかもしれないな」
 平然とロイが残酷なことを言う。しかも、脅しではなく確実にハボックの腕はぎしぎしと軋むほどにエドワードの左腕を圧迫し、傷めつけていた。知らず、冷や汗がこめかみから頬に流れ、湿布を濡らした。
 「さぁ、言いたまえ」
 「い、言ったら、俺はどうなる」
 「どうにもならない。軍法会議での証言が一行増えるだけだ」
 それはつまり、エドワードも関係者として証拠品の一つに名を連ねるということである。因果関係をはっきりさせるには不可欠な措置だった。しかし、それ以上の用はない。ロイの目的は明確だった。
 「あんたは、こう言わせたいんだな。俺が妙な真似をやったせいで、あんたの恋人が危ない目に遭ってしまった。最悪、殺されてしまったかもしれない。だから、その落とし前を付けろ、と」
 「そういうことだ」
 肯定したのは、背後にいるハボックだった。ロイは何も言わない。頷きもしない。
 「ヒューズ中佐に聞けって言ったはずだぞ」
 「もちろん、奴にも聞く。しかし、君の口からも聞いておかなくてはならない。何せ、実行犯だからな」
 実行犯という言葉にエドワードは衝撃を受けた。盗聴は違法行為ではあるが、軍法機関の者の指示なら例外として扱われる。いったい何が問題だというのだろうか。
 「いや、これは言い方が悪かったな。要請した者と要請された者の証言が食い違っていないか、きちんと確認しておく必要がある。そのための手順のようなものだ」
 エドワードの切羽詰ったような表情に、言い過ぎを見て取ったのか、ロイが言い直す。証言と物証の整合性を取るのは当然の確認事項であり、手続きでもある。
 「まずは君から話を聞こうと思っただけだ。他意はない」
 「だったら、手を離せよ」
 「離したら逃げてしまうだろう、君は。昨日は病院に収容されている負傷者ということもあって早々に引き上げたが……」
 今日は容赦しない。と、ロイは平然と宣言した。それに応えるかのように、ハボックが更に腕に力を込めた。ぎしっ、と骨が軋む。
 腕だけではなく、背骨から後頭部まで激痛が走る。エドワードは必死に声を堪えた。一気に骨折させるより、何度も圧力をかけてダメージを与えるやり方の方が苦痛が増す。が、弱音を吐くのはご免だった。ロイに、そんな素振りを見せるのは死んでも願い下げだ、と下らない意地が吼え立てる。
 「いい面構えだ」
 睨み返すように顔を上げると、ロイが満足そうに目を細めるのが見えた。
 「そんな風に君が拒絶しているのを見ると、ますます興味が湧く。あのテープに何が録音されていたのか、というよりも、それそのものの存在がまずいということになるな。それとも、誰かの不利になるようなものなのか」
 いや、違うな、とロイは思った。そんな理由でエドワードが強固に口を閉じるとは思えない。動機が弱い。確かに、己れの迂闊な言動が元でトラブルが発生すると判っていれば余計なちょっかいやチクリは自重するだろうが、冷静に情況を分析することによってタイミングを見計らい、適当なところで口を挟むのには吝かでないはずである。その、的確な判断が下せないほどエドワードは愚鈍な頭をしていないし、寧ろ、その点に関しては機敏で明快、いっそ潔かった。
 ということは、まだその時期ではない、ということか。とロイは思った。ならば、時期が来るのはいつなのか。考えるまでもない。
 「キャットが殺されるのを待っているのか」
 「……っ」
 ぎくり、とエドワードの瞳にそよぎが起こる。さすがに目を逸らせたりはしなかったものの、その僅かな変化をロイは見逃さなかった。
 キャットが殺されれば、手を下した者に繋がる手がかりが得られる。誰が考え出した策か、それは言うまでもない。
 「そうなんだな」
 ここでエドワードが口を割るとは露ほども思ってはいなかったが、もうしばらくロイはこの情況を楽しみたかった。何がエドワードを頑なにしているのか、探りを入れて動揺を誘い、その心情を吐露させてやるのは、面白い見世物になるだろう。
 そもそも、尋問される側が心を閉ざすのは、相手に対する不信感や反感がある場合と決まっている。吐かせるだけ吐かせた後は処分されるだけ、己れの得るものは何もない、と判っていれば、口を開くのも馬鹿らしくなる。
 ここは駆け引きだ、とロイは思った。
 自分の握っている情報が尋問者の欲してやまないものだと悟った瞬間、己れの方が優位に立ったと思ってしまい、却って焦らすような態度を取る虜囚は多い。今のエドワードには余りあるほどの敵対心が漲っており、こちらに有利な条件は揃っているはずだった。
 が、エドワードはその期待を裏切った。
 「それで脅したつもりかよ」
 「何?」
 「あんたの脅しには乗らない。誰があんたの言いなりになんかなるかよ。拷問でも尋問でも勝手にやってろ」
 きっぱりとエドワードは断言した。こんな茶番劇、よくもやっていられるもんだ、とても付き合ってられない、とエドワードは昂然と切り返した。
 「だったら、こちらの勝手にさせてもらう」
 不意に、ロイの頭に血が昇る。いきなりエドワードは顎を掴み上げられ、息を呑んだ。
 「言え、君は誰の命令でそんなことに手を貸している」
 首も肩も背中も腕も痛かったが、エドワードは弱音を吐かなかった。睨みつけるように見返してやると、今度は胸倉を掴み上げられた。
 「言うんだ」
 が、エドワードは唾でも吐きかけそうな口調で言い捨てた。
 「馬鹿みてぇ」
 「何だと……っ」
 「言わなきゃ、あんたのプライドが傷つくってか」
 誰が貴様に媚びるか、否、誰でもあんたに媚びるとでも思ってるのか、とエドワードは鋭く突っ込んできた。ロイの怒りを駆り立てると判っていながら。
 「誰があんたなんかに尻尾振ってやるもんか……っ」
 次の瞬間、甲高い殴打の音が室内に響き渡った。








2006,10,29 To be continued

  
 何だか、ロイがやたらとサディスティックになって参りました。別に、その気があるわけではないと思うんですが、無理に聞き出そうとすると、どうしてもこういう手段しか、私が思いつかないんですよ。(^^ゞ
 次は、ロイエドらしい展開にしたいと思います。Hシーンまで書けたらいいな、と画策中☆