積極的方策 8
夕刻になって、ヒューズは東方司令部の中庭を歩くロイを見つけ、声をかけた。
「外出してたんだってな」
「野暮用だ。何かあったのか」
ロイの口調はいつも通りだった。どこか素っ気ない、しかし、無愛想とまでは言えない口吻は、感情的な起伏を感じさせない。どうやら、まだブレダからは報告を受けていないらしかった。
「お前に話がある。執務室へ行かないか」
ロイはすぐに承知した。それなりに察しがついていたのか、執務室に入ってコートを脱ぎ、無造作にハンガーツリーにかけると、早速口火を切った。
「行方が判ったのか、キャットの」
「それなんだがな……」
幾分言いよどみ、しかし、ヒューズはキャットが軍法機関の監視下にあったことを教えてやった。
「そうか」
執務机にもたれるように腰掛けると、大して驚くこともなくロイは頷いた。
「そんなことだろうと思っていた。彼女はずっと自宅にいたんだな」
「ハボック少尉に留守宅の様子を見に行かせたようだが、お前の指示か」
「何だ、知っているのか」
「アパートメントの入り口で少尉を見かけた。……なぁ、ロイ。お互い、隠し事はそろそろやめにしようぜ」
「最初からそうすればよかったと思うが」
「それは言いっこなしだぜ」
おどけたように首を竦め、やれやれと微笑う。言うまでもないが、軍令機関と軍法機関、双方ともそれぞれの利害を抱えている。片方を優先しては軋轢が生まれる。齟齬を来さない程度に妥協するのは、現場担当の「仕事」だった。
「キャットが殺された」
さらりと、何の感情もなくヒューズは言った。ロイはぎょっとしたように顔を上げた。
「何だと……?」
「まだ現場検証をやっているところだが、少なくとも殺されたのは今から一二時間以内。俺が行った時はもう死んでいた。死因は、銃撃による失血死。見た限りで言わせてもらうなら、プロの仕業だ」
「……主計大尉と同じ奴か」
「それはまだ判らない。あっちは絞殺、こっちは射殺だからな」
殺しの手口が違うということは、別の人間がやったと言える。普通、プロの殺し屋は己れの殺害方法をやたらと変更したりはしないものである。大抵は同じ手段を使い、それをサインとして残す。これが時に容疑者を特定する物証になることもあるが、反対に偽造されてミスリードされることもあり、綿密な調査を待たなければ正確な判断は下せず、今の段階での不用意な発言を、敢えてヒューズは慎んだ。
「凶器は? いや、見つかってないんだろうな」
「もう処分されちまってるはずだ。プロなら証拠らしい証拠を残すようなドジを踏むことはない。もし、現場に置いてあったりしたら、それこそミスリードを誘うつもりでわざと残しておいたんだろうな。銃弾は回収されたが、実行犯に繋がるものは何も出て来ないと思うぜ」
「そうか」
ロイはどさりとソファに身を投げ出した。セフレとは言え、殺されたとなると、さすがにショックだった。考えるまでもなく、今回の関連で始末されたに違いない。
「アイロス少将がやったのか」
「さぁな。繰り返すが、今の時点じゃ何も断定はできねぇよ。いくらその可能性が高いと言ってもな」
ヒューズは惚けたが、ロイはその口調に欺瞞の片鱗を感じた。ソファの側に寄って来たヒューズを見上げると、確信したように問う。
「別の可能性が出て来たようだな」
「何故、そう思う」
「妙じゃないか。いくらテリナ大尉が横領を告発すると言っても、この一件を揉み消す代わりに責任を取って引退してもらうというのは、将軍にとって悪くない取り引きだったはずだ。主計大尉ばかりかキャットまで殺してしまうほど抵抗するのは不自然だ。長い未来があるならともかく、退役の日がそろそろ見えてきた老人だ。少しばかり軍を抜けるのが早まっただけだと思えば大した痛手ではない。それとも、そこまで軍に固執する理由……、いや、固執しなければならない理由ががあるのか。あるとすれば、恐らく将軍の意向ではなく、別の人間の意志が働いていると考えた方がいい」
「そうだな。そういう見方もある」
ヒューズが肩を竦める。
「実は、中央の情報分析官と話したんだがな、お前と同じことを言ってくれたぜ。どうやら、例の将軍様に潔く引退されちゃ困る人物がいるらしい。もちろん、主計大尉とキャットの口から何か漏れるのはもっと困る」
「そう懸念している人物が手駒を動かした。そういうことだな」
「可能性の段階だ。俺の口からは何も言えねぇよ」
ヒューズはここでも断言することを避けたが、ロイは言い放った。
「つまり、穏便に済ませるわけにはいかなくなったということか。横領された金はいったんキャットに渡った後、アイロス少将の懐に転がり込むだけでなく、別の人物にも流れていた。そういうことだろう?」
「人物『達』だ」
「今回の事件は、アイロス少将が主犯ではない。そう思っていいな」
「ああ。そういうことだと思っていたんだろ、当初から」
「横領に加担した人物が複数いてもおかしくはない。欲得に群がる連中はいくらでもいる。しかし、数が多くなればなるほど意思の統一が難しくなり、フライングする者、抜け駆けする者も出て来る。もっと厄介なのは、現状に不満を持つ者が派閥を作って勝手に活動してしまうことだ。そうなれば、アイロス将軍も制御できない。こいつらの特定はできているのか」
「いいや。しかし、どういう経緯で横領なんかをやり始めたのか、何のためにやっていたのか、そいつを明らかにしないと、この事件の核心は見えてこないぜ」
「金が欲しいのに理由などあるか」
「使い道は何かって意味だ。突っかかるなよ。こいつをはっきりさせとかないと、背後関係が有耶無耶になっちまう。……ところでお前、知ってたか」
「何をだ」
「キャットの出自だ。彼女の両親、クレタの出身なんだってな。まだ我が国と国交断絶する前、アメストリスに移住して来たそうだが……」
「それは初めて聞く。彼女自身はアメストリスの生まれで、クレタには一度も足を踏み入れていないはずだ」
それがどうかしたのか、とロイが問いかける。ヒューズは軽く首を振って応えなかった。が、言いたいことは判る。そのような存在自体が中途半端な人物は、現状に不満がなくとも過激思想に染まりやすく、調略されやすいのである。
「俺はもうちょっと調べたいことがあるから、憲兵隊本部へ行って来る。明日もそっちへ詰めることになりそうだから、しばらく別行動だ」
「連絡は入れてくれ」
「ああ。……それと、エドワードはしばらく俺が預かる。さすがにまいっちまってるぜ。もうああいうバカな真似はやめてくれよ。いくら打たれ強いって言ってもまだガキなんだからな」
「それは約束できない。また聞きたいことがあれば、呼ぶつもりだ」
心の中で苦々しく思いながら、ロイは表面上けろりとして言い放った。それへ、ヒューズが露骨に嫌そうな顔をする。
「あの年頃で人間不信になっちまったら、性格が捻くれちまうだろ。ただでさえ扱い辛い奴なのに、余計に気難しくなっちまったらどうすんだ」
「そこまで面倒は見切れない。必要があれば、適宜対応する。これまでと同じにな」
「俺が、力ずくで阻止すると言ってもか」
「やるつもりか」
「お前が望むなら、いつでも相手してやるぜ」
挑発的な台詞に、ロイが睨みつけるような目を向ける。一瞬、きつい視線がぶつかり合ったが、すぐにヒューズは軽く受け流した。
「おいおい、マジになるなよ。俺は虐待じみたことをやるなって言ってんだ。いくらある程度の切り捨てご免が認められてると言っても病院送りはまずい。お前だって無傷じゃすまなくなる」
それくらいの分別はあるだろう? あれはちょっとやり過ぎじゃないのか? とヒューズが窺う。尋問したいなら専門家に任せる、それが嫌なら立会人をつけろ。
「判っている。だが――」
「時間を節約したってのか。それは判らんでもないが、やっぱやめとけ。後で臍を噛んでも知らねぇぞ」
「……」
ロイは頷かない。快く承知するには納得がいかないのだろう。それが察せられないわけではないが、敢えてヒューズは指摘してやらないまま処置なしと見て取り、呆れたように肩を竦めた。
「まぁいい、それはそれ。――で、悪いんだが、事態が急変したってことでもう一度ブリーフィングを開きたい。明日の午後辺り、時間を空けておいてくれ」
「判った。こちらも貴様に提示できる何かを用意しておこう」
「お手柔らかに頼むぜ。話が前後して悪いんだが、ハボック少尉は今日、キャットに会えたのか」
「いいや。家政婦が応対してくれたそうだ。それで、メモを渡して彼女へメッセージを届けてもらうことにした」
「事前に用意しておいたのか」
「もちろんだ」
ということは、やはりロイもハボックもキャットが自宅に潜んでいるとは思っていなかったわけである。そして、その時点では、家政婦もキャットもまだ生きていた。
「メモには何て書いてあったんだ」
「連絡をくれ、心配している。それだけだ」
「キャットとしちゃ恋人からの伝言に感動しただろうな」
文面を読むだけの時間があったかどうか判らないが。と、ヒューズは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
恐らく、来客の知らせに家政婦がドアを開け、来訪者を目にした次の瞬間には、射殺されていたに違いない。その数秒後には、キャットも射殺。悲鳴を上げる暇もなかっただろう。
「それはそうと、ヒューズ。聞きそびれていたが、鋼のが持っていたテープ、あれはお前が指示したのか」
「ああ、俺が持って来いって言った」
「何が録音されていた」
「それは明日のお楽しみってことにしようぜ」
「悪いが、できない相談だ。あのテープは、貴様が録音しろと指示したのかと聞いている。誤魔化すな」
どうやら、ロイはブリーフィングでまたびっくり箱を開けるような真似はさせない、と予防線を張っているらしい。部下の前で、あんな赤っ恥をかかされるのは二度とご免なのだろう。
「へぇへぇ。盗られたテープってのはな、お前とキャットの会話を盗聴したもんだ。全二時間の長編メロドラマだな」
言った瞬間、ロイがソファから立ち上がった。つかつかとヒューズに近寄ると、その襟首を掴み上げた。
「よくもそんな恥知らずな真似ができたな。一応、聞くが、ちゃんと調査担当官の許可を得てやったのだろうな」
「そのうち下りるはずだ」
しれっとして応えるその横っ面を思いっきり張り倒してやりたかったが、しかし、テープそのものが行方不明となっている以上、手の出しようがない。もっとも、見つかったとしても、証拠品として採用されるかどうかは法務官次第だった。それに、公衆の面前でのお喋りに、ロイは極力気をつけていた。会話だけならば、どうとでもとれる内容であり、特定の事件に繋がる有意性を持たせてはいない。
「不謹慎極まりないが、誰かに処分されてしまったのを喜ぶしかないな」
「そのうち驚くようなところから出て来るかもしんねぇぜ」
「それは仮定の話だな」
「もちろん、仮定の話だ」
ロイは手を離すと、憤然としてヒューズを睨み据えた。
「そんなに怒るなよ。犯人を捕まえたいんだろ。明日までに、キャットの殺害についてはでき得る限りの情報を集めておく。楽しみに待ってろ」
「貴様の言いざまを聞いていると、全然嬉しくない気分になるがな」
「そう思うなら明日までに覚悟を決めろ。じゃあな」
掴まれた軍服の襟を直すと、ヒューズは悠然と執務室を出て行った。
ぱたんとドアが閉まり、こつこつと軍靴の音が遠ざかって行く。やがてシンと静まり返った室で、ロイはもう一度ソファに腰を下ろすと、ぶつけるように背もたれに身を預けた。
「くそ……っ」
らしくない、罵声の言葉が口を衝いて出て来る。一瞬、手近にあった業務トレイを掴み上げて、壁に思いっきり投げつけてやりたい衝動に駆られた。が、しかし、ロイは寸でのところでそれを押さえ込んだ。
わけの判らない感情が胸の中に渦巻いていた。エドワードの名前が出たとたん、数時間前の姿が脳裏に浮かんでは消え、決して離れようとしなかった。
びしっと空を切るような平手打ちの音が耳に突き刺さるように残っている。エドワードの仰け反った顔に解けた金髪がかかり、酷く無慈悲な気分になった。
床に這い蹲りながら、敵兵でも見上げるようにロイを睨み付けたエドワードの瞳の強さが、目に焼きついている。俺に助けを求めてもいいじゃないか、と思えば思うほど、その期待を裏切り続け、逆撫でし続ける。気のある素振りをしながら、いざとなったら拒絶し、逃走を図ろうともしない。
哀願の一つでもしてくれれば、すぐにでも解放してやったのに、あくまでエドワードは口を噤んで強硬な態度を変えようとしなかった。その時の、屈辱にも似た敗北感が再び蘇って来る。たかが一五のガキである。どうにでもなると思っていた予想を覆された恥辱は、まるで背信行為そのものだった。身勝手な理不尽さと判っていながら、酷く腹が立つ。
それで抑えがきかなくなった、などと言い訳する気はなかったが、何らかの感覚を刺激されてしまったのは確かだった。
反対に、ハボックは殴りつけてやりたいほど冷静だった。実に沈着にエドワードを痛めつけ、追い詰め、陥落させようと手管を弄した。しかし、結果は思わしくなく、何も聞き出すことはできず、時間切れとなってしまった。ロイにとっては、不首尾に終わってしまった不本意さよりも、もどかしさと不快な思いしか残らない、不手際極まる尋問だった。それは、力づくでエドワードを犯した今でも燻り続けている。
もっとも、東方司令部を後にしたヒューズとてすっきりしたわけではない。ロイの態度に不審なものを感じていた。
キャットと勝手に接触しようと動いた、ということに加えて、それ以外にも何か策を練っていそうな気がする。
「いや、考えすぎか」
頭を振って己れの懸念を打ち消すと、ヒューズは従卒を連れて憲兵隊本部へと向かった。何としても容疑者の化けの皮を剥がさねばならない。その目的に合致するなら、ロイが少々イレギュラーな動きをしてもいい。
そう思い直し、ヒューズはそれからの時間をセントラルとの連絡と情報収集に費やした。
結局、ホテルに戻って来れたのは夜中近くだった。
エドワードはすでに眠っていたが、ドアの開く音とヒューズの足音で目が覚めてしまった。
「お帰り……」
と、寝室から顔を出すと、ヒューズは軍服の上衣を脱いでいるところだった。
「何だ、起こしちまったか。寝てていいぞ。明日も出かけるんだろ」
言いながら、備え付けのホームバーからボトルとグラスを取り、リビングのテーブルの上に置くと、疲れ切ったようにソファに腰を下ろした。
「それなんだけど、大佐に用ができちまった。明日、いつ頃暇そうか、聞いてないか」
「午前中なら空いてるだろ。こっち来いよ」
ヒューズがエドワードを手招く。まるで飼い猫を呼ぶような口調だったが、エドワードは素直にソファに近付いた。
「ちゃんとメシ食ったのか、中佐」
「そりゃ俺の台詞だ」
ボトルの封を切りながら、ヒューズが苦笑する。実のところ、夕食をとる時間もなかった。空腹は感じていたが、食欲がない。寝酒にバーボンでも飲んで腹具合を誤魔化そうと思っていた。
「不健康だな」
「人のことが言えるか」
「クラッカーとチーズくらいならあるぜ。食うか」
「ああ、頼む」
エドワードは備え付けのラックからクラッカーの箱を取り出すと、買い置きらしい一口サイズのチーズを載せて新聞紙の上に並べた。
「皿ぐらいないのかよ」
「贅沢言うなって。それより、何かあったのか。ずいぶんとまいってるみたいだけど……」
「判るか」
食えればそれでいい式の市販のクラッカーをありがたく摘みながら、ヒューズが嘆息する。エドワードはその横に腰を下ろした。
「キャットが殺されちまった」
「な……っ」
「そういや、今日はずっとここを留守にしてたみたいだが、どこかへ出かけてたのか」
「あ、ああ、アルフォンスとちょっと、な」
エドワードは適当に誤魔化したが、内心は冷や汗ものだった。さすがに、この室でロイと延々いけないことをしていました、とは言えない。その時のことを思い返すと、未だ体の奥が酷く熱っぽく火照って来る。否、ロイが穿った秘部の内壁が、容赦なく擦過され、擦れ合った時の感覚まで生々しく思い出し、きわどく収縮してしまう。
あんな淫らな体験は初めてだった。
「ロイの野郎も司令部を留守にしてたらしいぜ。二時間ほどだがな。どこへ雲隠れしてたんだか……」
その、何気ない一言に、エドワードはぎくりとしたが、敢えて聞かなかった振りをした。
「キャットが殺されたのは、いつなんだ」
「今日の午前中だな。見事に裏をかかれたぜ」
そう言うと、ヒューズはアルコール度数四〇%のバーボンをストレートで飲み干した。アイスピッチャーでもあればオンザロックにできるのに、と思ったが、ルームサービスを頼むほどではない、と思う。
「監視チームが見張ってたんじゃないのか」
「連中に見られても不審に思われない人物が何人かキャットのアパートメントに入ってやがる。そのうちの誰かが実行犯だろうな」
「変な言い方をするな。実行犯なんて言ったら、実行した奴以外にも関わった者がいるような感じじゃないか」
「鋭いな」
ヒューズは苦笑しながら、エドワードの肩を抱き寄せた。
「つまりだな、バックアップが一緒に動いていた可能性があるんだよ」
「バックアップ?」
「プロってのは、ターゲットとその護衛以外には危害を加えないもんなんだ。無関係の巻き添えを作っちまったら、後でどんな復讐をされるか判ったもんじゃないからな。で、ターゲットを確実に仕留めるために、観客を遠ざける役、ターゲットを追い詰める役、実行犯を安全に逃がす役ってのがいる。そういうことをやるのがバックアップだ」
例えば……、とヒューズは頭の中でシミュレーションする。
今回の段取りは、こんな感じだろう。
予め、アパートの住人に話をつけて中で待機してもらい、実行犯を引き入れる役になってもらった上で、来訪者は正々堂々と玄関から入って管理人の差し出すノートに偽名を署名し、内線電話で連絡を取って入室許可を得るのである。
アパートに入れば、ノーマークも同然。そのまままっすぐキャットの室へと向かい、ドアを開けた家政婦を射殺し、次いでキャットを射殺する。
その後、静かにドアを閉め、室の前から離れて歩き出す。そして、数歩も行かないうちに、反対側からワゴンを押してきた清掃員とすれ違う。使った銃を、そのワゴンの中にあるダストボックスに放り込む。清掃員はワゴンにカバーをかけて蓋をし、廊下を通り抜けて業務用のエレベータから下に降りる。
実行犯は、堂々と玄関から出て来て、バックアップが用意したクルマに乗り、即座に現場を立ち去る。銃はすでに清掃員が始末しただろうから、今いくら探しても見つからないに違いない。
無論、ヒューズは己れが管理人室で足止めを食らっていた時に降りて来た清掃員の行方を追った。が、しかし、管理会社が言うには、この日限りの臨時雇いであったため、登録された身元は住所も名前もでたらめで、無論、会社にも戻って来ていなかった。
今日一日、アパートメントを訪れた者のトレースも行っているものの、まだ全員の足取りが取れたわけではない。否、全てが徒労に終わる可能性もある。特工が動いたのであればすぐバレるような痕跡を残すとは思えないし、奇跡的に見つかったとしても、上から圧力がかかって取り上げられてしまう。
つくづく気の重い、暗い先行きだった。
「地道なことやってんだな」
「言うな。余計に疲れが出てくる」
ちょっとしたタイミングのずれでキャットを殺され、しかも、鼻先を掠めるように実行犯を取り逃がしてしまったのである。返す返すも例の管理人に腹が立つ。しっかりとセキュリティの確保が逆手に取られているではないか。
住人の許可が得られたからと言って、いったん中に入ったらフリーになってしまうというのは問題だった。入り口だけ厳重にしておいても意味がない。
「今日のところはシャワーでも浴びてさっさと寝ちまえよ。この調子じゃ、明日も忙しくなるんだろ」
「またブリーフィングやらなきゃいけないんだ。連絡将校も楽じゃねぇぜ。調査担当官が来る前に、俺がくたばっちまう」
「今回はもう付き合わないからな」
「でも、ロイに用事があるんだろ。司令部に行くなら、連れてってやるぜ」
「そうだな」
二度手間になるよりはいいかもしれない。エドワードは頷いた。
残りのクラッカーを片付けるとエドワードは、ローブを片手にシャワールームに入るヒューズを見送り、寝室に戻って毛布を被った。ころりと横になると、ひんやりとした敷布の心地よい感触に誘われるように、大きな欠伸が出た。やはり、もう眠い。
ざっとシャワーを浴びたヒューズが濡れた頭をタオルで拭いながら寝室に入って来たのは、それから一五分後のことだった。ドライヤーで髪を乾かし、夜着に着替えてベットに入って来る。シャワーコロンとヘアトニックの匂いがした。
やはり飼い猫を抱くように腕を回され、エドワードはそのままぐっすりと寝入ってしまった。
翌日は、殆ど始業と同時に司令部に顔を出し、エドワードはロイの執務室へと向かった。
「何の用だ」
「ブリーフィングにまた出せなんて言わないから安心しろよ。それより、例の文書倉庫だけど、もう三日の期限が過ぎちまう。まだ半分も見てないんだ」
「閲覧期間の延長を申請したいのか」
「そういうこと。それさえやってくれれば、さっさとおさらばしてやる」
「いいだろう」
特に文句を言うでもなく、ロイはトレイから申請用紙を取り出すと、己れのサインをその場で書き入れてくれた。
「サンキュー。それじゃあな」
これでもう用はないとばかり、エドワードはエサをもらった野良猫のように身を翻すと、素っ気なく執務室を出て行った。いつも通りの慌しい態度に、傍に控えていたハボックが苦笑する。
「これで厄介払いスね」
「そうだな」
これ以上首を突っ込んで欲しくはない。エドワードは己れの研究のことだけ考えていればいいのである。下手に軍令側の内情に興味を示したりするから、痛い目に遭う。今回のことで身に染みただろう。
それが判っているのかいないのか、エドワードは意気揚々と総務室に申請書を出した後は、最終日となる閲覧の権限を最大限活用すべく、まっすぐ書類倉庫のある第一九区へと向かった。
が、しかし、エドワードが実験ファイルの山に埋もれて至福の時を過ごせたのは、午後になるまでの数時間にすぎなかった。
「エド」
と、倉庫の入り口辺りでハボックに呼ばれ、エドワードは実験レポートの書面から顔を上げた。
「少尉、こっちだ。何か用か」
意外な客が来た、と思いながら、エドワードは座り込んでいた床から立ち上がり、ラックの向こうからでも見えるように手を振った。
「そこにいたのか」
心なしか、ハボックの声に焦りが混じっている。不測の事態でも起こったか、とエドワードはすぐに察した。
「どうしたんだよ」
持っていたファイルにしおり代わりの厚紙を挟み、エドワードは怪訝にハボックを迎えた。
「悪いが、一緒に来てくれ」
「何で?」
「いいから、来い」
強引にハボックがエドワードの腕を取る。反射的に抵抗すると、いきなり引き寄せられ、そのまま肩に担ぎ上げられてしまった。
「な、何すんだ……っ」
「文句は後で聞く。お前の証言が必要なんだ」
「証言?」
わけが判らない。エドワードは荷物のように運ばれることに腹を立てたが、ハボックはお構いなしだった。倉庫の管理者が目を丸くして見ていたが、完全無視するように大またで倉庫を出ると、駐車してあったクルマにエドワードを放り込み、ドライバーズシートに乗り込むや、エンジンをかけた。
「おい、いい加減にしろよ。理由ぐらい言ってくれたっていいだろ。いったいどうしたってんだ」
リアシートに転がされたエドワードは体勢を建て直すやすぐさまハボックに噛み付いた。が、いきなり発進され、再びリアシートに転がって頭をぶつけてしまった。
「こ、この野郎……っ」
「少し黙ってろ。わけはちゃんと話すから」
ただ、どう話すべきか頭の中で整理している最中のようだった。何があったのか知らないが、取るものも取り敢えずここへ来た、という感じは察せられる。ハボックがそのように慌てている原因は、一つしか思い当たらない。
「大佐に何かあったのか」
「そうだ」
片手で器用に煙草を取り出すと、ハボックはライターで火をつけ、盛大にふかし始めた。倉庫の区画を出て表通りの車列に入ると、思いっきりアクセルを踏み込み、一気に加速した。慣性の法則に従い、リアシートに押し付けられたエドワードはいきなりの無謀運転に抗議しようとしたが、しかし、悲鳴を上げるのはこれからだった。
ハボックはオーバースピードのまま並み居る車列の間を巧みにすり抜け、蛇行しながら何台ものクルマをごぼう抜きにしていくと、目の前に迫った交差点の手前で反対車線に入り、赤信号の真っ只中に突っ込んで行ったのである。けたたましいクラクションをものともせず、対岸まで突っ切って行くと、更にスピードを上げ、歩行者のいる路地へ入るべく左折した。商店も露天も並ぶそこは、本来クルマはご遠慮下さいという場所なのであるが、ハボックは構わず乗り入れ、考えたくもない時速で飛ばして行った。
何人もの通行人が驚き、戸惑い、道を開けたが、たまに立ち止まってしまう歩行者もいる。それを鼻先三寸ですり抜け、かわし、一分もかからずそこを通り抜けると、今度はまた別の通りに出た。
「何てことすんだっ。も、やめてくれよ……」
「大丈夫だ。人は轢いてない」
「そういう問題じゃねーだろっ」
道路交通法違反だ、とエドワードは喚きたかったが、突然三叉路の左側から姿を見せたブルーグレイのコンパクトカーに息を呑んだ。ぶつかる、と身を竦めた刹那、ハボックがノーブレーキでハンドルを右に切った。
凄まじいタイヤの摩擦音と、通行人の悲鳴が聞こえる。思わずエドワードは耳を塞いで体を丸め、衝撃に備えた。が、しかし、いつまで待っても衝突の振動はなく、クルマは動いていた。恐る恐る顔を上げると、僅か数センチの隙間を残して衝突を免れたクルマは、無事に右折していた。
「い、いくら軍用車だからって、こんな暴走、見つかったらやばい……」
「行くぞ」
エドワードの小言など馬耳東風で、ハボックはぶつかりそうになったドライバーの方を見ることなく、クルマを運転し続けた。
「寿命が縮んだら、どうしてくれる」
「天の神様と相談してくれ」
俺にはどうにもできない、と言い捨て、ハボックはまたもやスピードを上げた。が、郊外に近くなったせいか、ここまで来ると走行しているクルマの数は少なく、多少飛ばしても大丈夫そうだった。
「この道は……、憲兵隊本部? そこへ行くのか」
「いや、憲兵分隊の方だ。建物は同じだが、上の階に憲兵隊本部があって、下の階に憲兵分隊が入ってる」
「誰か捕まったのか。もしかして、キャットを殺した容疑者か」
「ああ、そうだ」
「ずいぶんと急展開だな。ヒューズ中佐はかなり悲観的だったのに」
「まぁな」
と、ここでハボックはひと息入れるように深呼吸のようなため息を漏らすと、吐き出すように言った。
「大佐が容疑者にされちまった」
「は?」
余りに意外すぎて、エドワードは間の抜けた返事をしてしまった。それへ、ハボックが舌打ちする。
「大佐がベイシンガー嬢殺害の関係者として捕縛されちまったんだよ。これから取り調べだ」
「な、何で?」
「さぁな。痴情のもつれか、横領した金の取り分で諍いになったか。動機なんかいくらでも考えられるだろ」
「で、でも、キャットが殺された時は、監視チームもヒューズ中佐もアパートメントにいたんだろ。そんな衆人環視の中を、わざわざ殺しに行くか」
「俺達もそう思った。しかし、抜け穴はいくらでもある。しかも……」
と、そこでハボックは言葉を切った。
「殺害の推定時刻、大佐にはアリバイがないんだ」
「……っ」
まずい、と咄嗟にエドワードは理解した。ロイが「野暮用」を装って司令部を留守にしていた二、三時間の間に、どうやらキャットは殺害されてしまったらしい。その時間、どこで何をしていたのか、とてもではないが、明らかにできない。
口裏合わせをさせる気だな、とエドワードはすぐに悟った。ハボックが、ロイとエドワードの関係をどれほど察知しているのか知らないが、呼んで来いと言われて、このような拉致まがいの行動に出たのだろう。
「証言ってのはそういうことかよ」
「お前と会ってたんだってな。そう言ってくれさえすれば、大佐のアリバイが成立する」
判ったな、と念を押すように言われ、エドワードは黙り込んでしまった。まさか真実は言えない。しかし、会って何をしていたのだと問われたら、怪しまれない程度の無理のない言い訳をしなくてはならないのである。それを今のうちに考えておかなくてはならない。憲兵隊のことであるから、釈放するにはきちんと裏付け捜査をするだろう。
「俺は、証言するだけでいいんだな」
「調書に名前は残るが、それだけだ。経歴に傷がつくようなことはないから、安心しろ」
「俺には軍歴なんかないぞ」
「そうだったか。気を悪くするな。憲兵隊に呼び出されただけで軍歴に傷がつくと思う、プライドの高い御仁もいるんだ」
「バカバカしい」
軍人ではないエドワードには理解し難い感覚だった。そこまで軍籍を守ることが大事か、と思う。いや、大事なんだろうな、とすぐに思い直す。でなければ、例の将軍様のように悪足掻きする軍人がいるわけがない。
「で、どうなんだ。やってくれるんだろうな」
「書類倉庫の閲覧範囲を広げてくれるならな。それと、終わったらちゃんと倉庫まで送ってくれよ。まだ読みかけだったんだ」
「大佐に言っておこう」
それで取引き成立だった。二人の乗ったクルマは、通常の半分以下の時間で憲兵分隊に到着し、敷地内へ入るなり、ロイが拘束されているという舎屋へと向かった。
もっとも、ロイとは直接会えない。顔を合わせると、それだけで密談ができてしまうため、エドワードはハボックに連れられて憲兵分隊の特高第二課課長に引き合わされた。
「憲兵少佐のゴーストロンです。今回の事件は、特高課が担当しておりますので、私が承ります」
「特工……?」
「いや、特高。軍事特別高等警察の略称だ」
特工とは全然関係ないからな、と横からハボックが囁く。ちなみに、第一課は防諜関係、第二課は軍界における犯罪を取り締まっている部署だった。
よろしく、と手を出され、エドワードも右手を差し出した。ゴーストロン少佐は丸顔の愛想のよさそうな男だった。
憲兵は、横柄で尊大、傲慢な態度で市民の不興を買うばかりか、軍人からも煙たがられる傾向があったが、誠実に職務を勤めている者も多い。この少佐はどっちだろう、とエドワードは値踏みした。実は、どちらのタイプにも何度となく出会っている。前者ならどうにでも対処できるが、後者だったら有能であるだけに厄介だった。職務に忠実であるだけに、買収や脅しはきかないし、取引きにも応じないかもしれない。生半可な嘘などすぐにバレてしまうだろう。
「鋼の錬金術師エドワード・エルリック殿ですね。噂は兼ねがね窺っておりますよ。こういう形でお会いできるとは思ってもみませんでしたが」
そう前置きし、ゴーストロン少佐は椅子に座るよう示し、一つしかないテーブルに向かい合って座ると、己れの立場を説明した。
憲兵分隊は、メンバー一〇〇人ほどのこじんまりとした組織ではあるが、書類などの事務処理を主とする憲兵隊本部と違って実働部隊であり、民間の警察署と同じ逮捕権を持っている。必要とあれば、高級軍人でも捕縛することができるし、軍法会議へ告発することもできる。現在、マスタング大佐は重要参考人として身柄を拘束し、尋問を受けている。
「重要参考人ってのは、それ相当の物証があるってことだよな。何が見つかったんだ」
「色々です」
そう言って、ゴーストロンはキャット殺害の状況を説明してくれた。その内容は、昨夜ヒューズが想像していたものと大して変わらなかったが、唯一違っていたのは、バックアップを務めたであろう清掃員が、ロイだったのではないか、とのことだった。
「それはねーだろ」
と、エドワードは笑い飛ばした。
「何故です」
「その時間、大佐は俺と会ってたんだ。場所はヒューズ中佐が投宿していたホテルの一室だ。疑うなら、ホテルのカウンターでもドアマンでもいいから聞いてみろよ。目撃者がいると思うぜ」
「失礼ですが、マスタング大佐とお会いしていたのは、どういう用件で?」
「軍が管理してる書類倉庫の閲覧を頼んだんだけど、何か面白い成果があったら報告しろって言われてたんだ。で、面白いっていうか、興味を引く記述があったんで、それを話してた」
「あなたが大佐をホテルに呼んだんですか」
「いいや、大佐が勝手に来た。そろそろ成果が出たんじゃないかって。様子伺いって感じだったな」
「そういうことはこれまでもたびたびあったことなんですか」
「ああ」
「私の感覚としては、上官が下位の者のところへわざわざ出向くというのは不自然な気がするんですが……。あなたが司令部へ出向いて報告するわけにはいかなかったんですか」
「今回、俺が探してたファイルは国家錬金術師関係のものなんだ。しかも、レベル設定された、な。だから、誰が聞いているか判らない司令部よりも、密室に近いホテルの個室の方がいいだろうってことになったんだ。このホテルは軍が接収した施設でもあるし、防音もしっかりしてる」
「機密上の理由から、ということですね」
「そうだ。だから、悪いけど、あんたにもそのファイルの中身を喋るわけにはいかないんだ」
「その事情は判ります。私も機密書類閲覧資格を持っておりますから」
その台詞に、エドワードは内心ひやりとした。ヒューズが情報将校として持っている資格と同じだった。下手なことを言えば、己れの台詞に不審を抱かれてしまう。ますます油断はできない、と思う。それでなくとも、つい最近、この資格の規程が若干手直しされたと聞く。どういう変更があったのか、エドワードはヒューズから詳しく聞いていなかった。
「そういうことでしたら、マスタング大佐がお一人でホテルへ出向かれたのは理解できます。あなたと会っていたということに疑問の余地はありません。しかし、二時間も三時間も報告に時間がかかるものなんですか。普通に私どもが会議をする時間と比較すると、かなり長いような気がしますが」
「ただの報告ですまなかったからな」
平然と、エドワードは続けた。
「八年前の実験ファイルなんだ。しかも、かなり希少性が高いヤツだ。それで、実験の結果やその後のこの分野の研究報告や新たな発見なんかの情報交換ってのをやってたら、つい没頭しちまって……。時間を忘れちまったんだ」
「成る程」
科学者や研究者がいったん己れの分野に関わることで口を開けば、夜が明けるまで喋り続けるというのは、よくあることだった。切りのいいところで誰かが止めなければいくらでも己れの研究成果を自慢げにべらべらと披露する。
そのような、習性とも言うべき術師の性格を、ゴーストロンは理解しているようだった。以前、どこかでそういう目に遭ったことがあるのだろう。
エドワードの傍に立っているハボックがくすりと笑った。
「あなたのお話はよく判りました。これならば、アリバイありと見做してもいいでしょう。ただし、マスタング大佐を保釈するのはホテルでの目撃者が複数みつかってからです」
「そうだな。ところで、俺の方から聞いてもいいか」
「何でしょうか」
「大佐がキャットを殺したんじゃないかって決めつけた理由は何だ。例の清掃員の身元は判らなかったはずだよな」
「そんなことまでお聞き及びですか。まぁいいでしょう。管理人はちゃんと清掃員の顔と姿を見ています。あのアパートメントに入るには従業員でも管理人のチェックを受けなくてはいけませんからね。管理人の話によると、清掃員は黒髪の中肉中背の男で、目深に帽子を被っていたので人相はよく判らない、しかし、マスタング大佐の写真を見せたら、そうかもしれないとのことでした」
「ずいぶんと曖昧だな。『そうかもしれない』って程度で司令部付きの大佐を逮捕するってのは行き過ぎじゃないのか」
「もちろん、他にも情報が寄せられました。説明いたしましょうか」
エドワードが頷くと、ゴーストロンは机の上に一枚の紙切れを置いた。
「ご覧下さい。筆跡鑑定に回したところ、八〇%以上の確率でベイシンガー嬢の書いたものだと判定されています」
エドワードは勧められるままに掌サイズの、ノートを破って書かれたような走り書きに目を通した。
――私が殺されたら、東方司令部のロイ・マスタング大佐を調べて下さい。酷い仕打ちが判ると同時に、私が殺された理由が判るはずです。
文末にはキャットの自筆のサインが入っており、これがいつ書かれたのは判らないが、ダイイング・メッセージであることは確かだった。
「それで大佐を調べたわけか。このメモ、どこで見つかったんだ」
「ベイシンガー嬢の室の洗面所です。洗面台の上に鏡が取り付けられていたんですが、それが僅かに傾いているのを不審に思った者が触ったところ、簡単に外れてしまいまして、その裏のタイルが一枚剥がされていたんです。で、そこにこのメモが貼り付けられていたわけです。もしもの時のことを考えて、ベイシンガー嬢が隠しておいたのでしょう」
「見つけたのは誰だ」
「ホークアイ中尉です」
その一言に、エドワードは仰天した。
「中尉が?」
反射的にハボックを見遣ると、そうなんだ、と言うように苦笑されてしまった。
「マジかよ……」
「いかに上官であっても、犯罪に関わるような不審なものに気づいたら、全て報告するってのが軍部内のルールだ。長い付き合いの上司だろうが、戦友だろうが、関係ねぇよ」
「で、でも、その前に大佐に直接問い質したり、釈明を聞いたりするだろ。それもなしに憲兵に告発かよ」
信じられねー、とエドワードは呆然と呟いたが、ハボックは飄然としていた。
「実を言うと、そこに至るまでにゃ色々とあったんだが、それはまぁ、後でちゃんと説明してやるよ」
「よろしいですか」
エドワードとハボックの会話に割り込むように、ゴーストロンが口を挟む。
「エルリック殿、あなたの証言は私が承りました。先程言いましたように、裏付けを取りますので、それまでマスタング大佐はこちらでお預かりいたします」
「しょうがねーな」
こればかりは如何ともし難い。ため息をつきかけたエドワードは、しかし、不意に思いついたことを口にした。
「硝煙反応は? 銃を撃ったのなら硝煙反応が出るはずだ。大佐の軍服から検出されたのか」
「出ましたよ。オートマチック式拳銃を使ったのでしょう、トリガーより上方部分の範囲に反応が出ました。もっとも、本人は昨日射撃ルームでいくらか過ごしたと言っていますから、その時に付着したとも言えます」
「パラフィンテストはどうだ?」
「もちろん。両手から反応が出ました」
パラフィンテストというのは、硝煙反応を確認する方法の一つで、被験者の手に溶かしたパラフィンをかけ、固まったら剥がしてジフェニールアミンに浸してその変化を見るというものである。水で洗ったぐらいでは、射撃の際に飛び散る微量の火薬――硝煙は消えることはなく、ジフェニールアミンを試薬として使えば、硝酸塩に反応して青紫色に変色する。これをもって陽性と判定するのである。
パラフィンテストで陽性と出たのなら、銃を撃ったことは確実だった。しかし、いつ、どこで、何を標的にして撃ったのかまでは判らない。
「聞けば聞くほど、物証が曖昧だな」
「まだ始まったばかりですから」
ゴーストロンが困惑したような笑みを浮かべる。エドワードはかなり突っ込んだ質問をしていたのであるが、誤魔化すことなく応えてくれたのは確かだった。己れの仕事には忠実な憲兵らしい。
「保釈が決まったら司令部の方に連絡をお願いします」
と、ハボックがまだ何か言いたげなエドワードを押さえ込み、会話を打ち切った。それを合図に、ゴーストロンが椅子から立ち上がり、一礼して室を出て行った。
「帰るぜ」
「これで終わりかよ」
「取り敢えずはな。助かったぜ」
「そう思うなら、さっき言ったこと忘れずに大佐に伝えてくれよ」
「了解」
ふざけたようにハボックが敬礼のジェスチャアをする。エドワードは何も言わずに身を翻した。
この日の午後のブリーフィングで何があったのか、エドワードは再びクルマに乗ってから聞かされた。
「実はな、さっきゴーストロン少佐が言ってたキャットのダイイングメッセージ、あの一文だけじゃないんだ。あと三通見つかってる。一つ見つかってもいいように複数用意しておいたんだろうな。しかし、とんでもない告白が連綿と書かれてたぜ。知りたいか」
「ああ」
ここまで来て知りたくないわけがない。エドワードはリアシートに座り直すと、背凭れに片腕を置いた。
が、その内容を聞いて、エドワードはシートからずり落ちそうになった。
「キャットはクレタのスパイだったんだってよ。で、仲間の名前が羅列してあったんだが、俺達が目をつけてた将軍様の他に何人もの高級軍人の名前が上がってたんだな。その中に、マスタング大佐の名前もあった」
「じょ、冗談だろ……っ」
シートに縋りつきながら、エドワードは余りにも突飛な話にどう反応していいのか判らなくなった。
「しかも、大佐は分け前をもっと寄越せとキャットを脅迫していたらしい。メモにあった『酷い仕打ち』ってのは、そういうことを指してんだろうな。しかし、あの大佐がなぁ……。とてもじゃないが、信じらんねぇだろ」
「当たり前だ。いくら何でも金の亡者になるには無理がありすぎるぜ。軍からの俸給に加えて国家錬金術師としての報酬もある。一年で数千万センズ稼ぐ奴がどのツラ下げて恐喝なんかやるってんだ。だいたい、国家錬金術師の報酬が高額なのは、軍の機関以外からの買収を防ぐためでもあるんだぞ」
「だがな、憲兵隊の連中はそうは思ってないみたいなんだよな。金はいくらあっても困らない、いらんと言う奴はいないだろう、ってな。ま、確かに強欲な奴はどこまでも強欲だろうよ。いくらもらっても溜め込んでも満足しない。もっと増やそうとする。だが、俺が知ってる限り、大佐は金銭に執着するような人じゃない」
お前はどうだ、と問いかけられ、エドワードは頷いた。
「そうだな。浪費癖はあるかもしんないけど、生活に困るほどぱぁーっと使っちまうわけじゃないし、特にお金が大好きって噂も聞かない。第一、横領した金の上前を撥ねるなんてことをするタイプとは思えねーな」
ロイを知っている者なら、口を揃えてそう証言するだろう。しかし、被害者のメモという物証を手に入れた上に管理人の証言まであるのなら、部下の日常的な観察模様など情況証拠でしかない。憲兵隊はロイを第一容疑者と決め付けた上で捕縛したようだった。金の要求をキャットに断られたため、逆上して殺したのだろう、と。
「あり得ねーって。逆上して殺したんだったら、事前にあんたをアパートメントに送り込んだりするような小細工するもんか。その前にズドンとやっちゃってるって」
「俺もそう思う」
「ところで、ブリーフィングで何があったんだ」
「ブリーフィングは午後からだったんだが、その前にホークアイ中尉がキャットの自宅を調べたいと言い出して現地に行ったんだ。鑑識の捜査も終わった後だったから、入っていいって許可は取ったそうだ」
「中尉は、何が目的で行ったんだ」
「キャットはバカじゃない。自分が危ない橋を渡っていたのは充分承知の上だったから、それを証明するようなものを残しているはずだ、と睨んだんだな。目の付けどころはいいと思うぜ。で、一番身近な自宅のどこかに隠しているはずだから、それを探そう、と」
「でも、鑑識が調べた後だったんだろ」
「殺害現場は玄関と居間だ。そこを中心に証拠品や遺留品を拾い集めていたから、その他の室はなおざりになってたんだな。綿密に探し直せば何か出て来るかもしれない、と思ったわけだ。案の定、ダイイングメッセージが出て来た」
「どうやって見つけたんだ。ダイレクトに洗面台にあるって判ったわけじゃないんだろ」
「もちろんだ。キャットのアパートメントへ行く前に、中尉は仕事場の方へ行った。会社の連中に事情聴取したわけだな。自宅が荒らされたことを想定して、仕事場か仕事仲間に何かヒントになるようなものを残してないかって考えたわけだ。伝票類は憲兵が押収していたが、個人的なメモやノート、手紙類は大半残っていた。それを片っ端から見ていたら、意味ありげな文字がいくつかあった。どう解読したのかは知らないが、例の将軍様との連絡に使っていた暗号だったらしいんだな」
「よくそんなことが判ったな」
「事前に閲覧した資料にそれらしいもんがあったからな、それだと直感したんだそうだ。で、その中に、殺される直前のメモもあった」
「何て書いてあったんだ」
「『ガイ・フォークスの前日』」
「何だそりゃ?」
「ガイ・フォークスってのは、中世の頃のテロリストの名前だ。当時の国会議事堂に火薬を仕掛けてそこに集まったお偉いさんを全員爆死させようと計画してたんだがな、事前に密告があって失敗しちまった。で、神の恩寵があった日として、翌年から祭日になってたんだが、今から一世紀くらい前にはもう廃れちまってたんだ。このガイ・フォークスの祭日の前日から始まる小説で有名なのが一つある」
お前も知ってるかもな、とハボックは言った。
「何だよ、もったいぶるなよ」
「俺も中尉に言われるまで全然知らなかったんだがな、結構有名だろ、ルイス・キャロル作『鏡の中のアリス』」
そう言われてエドワードははっとしたように顔を上げた。
「成る程そういうことか。あれは原題を直訳すると、『姿見を抜けて、そこでアリスが見たもの』ってなるからな」
「読んだことあるのか」
「一応な。児童文学だけど、時間と空間の概念みたいなもんとか、生物の進化ってか、生存競争に関する遺伝的アルゴリズムがストーリーに織り交ぜてあったりするから、科学者や哲学者の研究対象になってんだ。キャロルは文学の中にそういう遊びを入れて、人を惑わすのを楽しみにするって悪趣味な数学者だったからな。まだ複雑系の理論なんか確立してなかったのに、それの片鱗っぽいものもあったりして、ちょっと話題になってたっけ」
「そうか。まぁ、そういうわけで、中尉はピンときたわけだ。鏡の裏に何かある、と。見事なもんだよな。他のダイイングメッセージのありかも『鏡の中のアリス』に因んだ場所に隠してあったそうだ」
「そりゃまたずいぶんとロマンチックなことで」
「俺もそう思う。だが、大佐と付き合うような女だからな」
「それもそうだな」
ついつい、二人は納得し合ってしまった。ロイならば、歯の浮くような台詞を惜しげもなくばんばん送っていたことだろう。それを拒まないばかりか喜んで受け取る女性だったのだろう、キャットは。盗聴をやらされたエドワードに心当たりがないわけではない。
「でも、本当にキャットの筆跡だったのか」
不意に、エドワードは一石を投じるようなことを言った。
「どういう意味だ。さっき少佐が八〇%の確率って言ってたじゃねぇか。ほぼ本人が書いたもんだと言っていい」
「それがよく判らない。だって、書いたか書いてないかってのは完全な二者択一で、〇か一〇〇、それ以外の選択肢、つまり、その中間はないってことだろ。だったら、八〇%の確率ってのは、書いたかもしれないって程度だよな。本当にキャットが書いたかどうか判らないってことじゃねーか。そんな曖昧な程度で決め付けるのか」
「痛いとこ衝いてきやがるな」
ハボックは苦笑した。実のところ、筆跡鑑定ほど宛にならないものはない。いくらでも偽造できるし、数百年前の古文書とされていたものが、ほんの数日前に学生が書いて遺跡に埋めておいたまがい物だったこともある。名声の高い考古学者ですら騙された事件もあり、確率が八〇%だからと言って、それが本物とは限らないのである。寧ろ、平均以上に巧妙に真似された偽物である可能性が高い。
「しかしな、中尉が暗号を解いて、それで突き止めたもんだ。そこまで念入りに工作したダイイングメッセージに何の意味もないってことはねぇだろ」
「どう考えても、あくまで大佐を犯人にしたいって感じだけどな。だって、考えても見ろよ。誰かが見つけてくれることを期待してキャット以外の何ものかがセッティングしておいたって可能性もある。人ってのは、自分が推理して、その通りの答が出てきたら、無条件にそれを信じちまう。自分より上手がいて、罠に嵌められたんだってことなんか露ほども考えなくなる」
「だったら、その罠にどういう意図があるかってことだ。大佐を横領の仲間にして、誰が得をするのか、何のためにやったのか」
「そこまで俺が知るかよ。それより、ホークアイ中尉は、このメモをブリーフィングで曝露したのか」
「そうなんだ。遅れて来るなんて珍しい連絡があったかと思ったら、ヒューズ中佐が滔々と喋ってる真っ最中に飛び込んできて、キャットのダイイングメッセージが見つかったと来たもんだ。その時にはすでに憲兵隊の方には連絡済みだったなんて手回しのいいことで。そのまましょっぴかれて行っちまったぜ」
「中尉らしいな。大佐が逃げないよう、確実に確保できる状況を狙ってお縄を打ったわけだ」
「言っておくがな、中尉に悪意はないぞ。軍律に忠実だっただけだ」
「判ってるよ。別に中尉を責めたいわけじゃない。しかし、驚いたな。下克上でも狙ってんのか」
「ま、その余韻は倉庫でゆっくり味わってくれ」
ありがとよ、と言うようにハボックはハンドルを切り、約束通り書類倉庫までエドワードを送り届けてくれた。
「大佐が戻ったら、おめでとうとでも言っておいてくれ」
手を振りながらエドワードはクルマを降り、ドアを閉めてやった。
翌日には、ロイは釈放され、無事に東方司令部に戻って来る予定だ、とエドワードはヒューズの口から聞いた。
「一時はどうなるかと思ったぜ。だけど、すぐには釈放されないんだな」
と、シャワールームから出てきたヒューズを、エドワードはベットに腹這いになったまま、難しい顔で出迎えた。
「色々と手続きがあるんだ。いったんは容疑者となったんだからな、そう簡単には釈放されない。山ほどの書類にサインさせられて、憲兵隊からわんさと嫌味を言われて、その後、尋問の内容を喋るなって誓約書なんかも書かされる」
言いながらヒューズは無造作に洗ったばかりの髪をタオルでごしごしと拭いながらエドワードの傍らに腰かけた。
「証拠不十分で釈放か」
「ああ、やっぱあれだけ物証が曖昧だとそう長くは拘留できないと憲兵隊の方でも思っていたらしいからな。お前さんの登場は丁度いいタイミングだったんだ。ゴーストロン少佐も、実のところ、ほっとしてたんじゃねぇか」
ご苦労さん、と言うようにヒューズはタオルを肩にかけ、エドワードの濡れた髪の毛を撫でた。
「やっぱ動機に問題があるしな。ロイの部下も友人知人も口を揃えて守銭奴なんかじゃないって証言すりゃ、いくら憲兵でも考え直さざるを得ない。しかも、手持ちの銀行口座を調べりゃ、横領した金を授受した形跡もないと来たもんだ。キャットとは男女の関係以上の繋がりはないし、知り合ったのもつい最近のことだし、な」
「まるで嵌められたって感じだ」
「ホークアイ中尉はそうは思ってないみたいだがな。自分で見つけた証拠品をおいそれとまがいもんだと決め付けられたくはねぇだろうな」
「あくまで、証拠品の正当性を主張するってのか」
「本人はその気らしいぜ」
ということは……、とエドワードはぞっとするような寒気に身を震わせた。余り考えたくはないが、ホークアイの面子を潰してしまったエドワードは、その恨みを買ってしまったということである。どういう仕返しをされるのか見当もつかないが、あの冷ややかな瞳をまた向けられるのかと思うと、気が重い。
「だが、まぁ、そっちの方はまた別口で調べておくとして……。それより、ロイの野郎から伝言だ。明日、司令部に顔を出せってよ」
「何で?」
「そんなん本人に聞けよ。暇がないってのはなしだぜ」
行かなかったらどうなるか、判っているな、とでも脅しをかけそうな口調でヒューズがエドワードの上に圧し掛かる。
「ま、特工の連中を一緒になって捕まえようなんて申し出はないから、安心しな」
「お、重い……っ、どけよ」
「そう邪険にするなよ。これから作戦会議といこうぜ」
そう言うと、ヒューズは囁くように声を潜めた。体が密着しているのは全然楽しくないが、大声で話す内容ではないと察し、抵抗するのをやめた。
「ロイがアイロス将軍の仲間だったってのはあり得ないとしても、そう誤解させられても仕方のない状況は揃ってる。憲兵隊から釈放はさせたが、引続き容疑者の一人としての監視はするってんだな。だから、お前さんが参考人としてもう一度証言、いや、尋問を受けるかもしれない。それはよーく心得ておいてくれよ」
「俺がいつ、関係者になった」
「もう関係者の一人だ。諦めてくれ」
それがお前の望みだったんだろ、とヒューズは飄々と嘯き、俺に感謝しろとばかりにエドワードの鼻先を突付いた。思わず、憮然とする。
「クレタの陰謀ってのはどうなったんだ」
「調査中だ。大方ガセだろうが、まだ何とも言えねぇな。しかし、キャットがクレタの人間だってのは確かだ。その手の接触があってもおかしくはない。アメストリスの資金をいくらかでもクレタに流すことができれば、連中にとっては愉快極まりないだろうな。どこまでアイロス将軍が関わっていたかは判らんが。もしかしたら、全部将軍が仕切ってたのかもしれないし、キャットが持ちかけたのかもしれない」
今はどうとでもとれるのだ、とヒューズは説明すると、エドワードを抱き寄せた。
「だが、そこまででかい話じゃねぇだろ。俺個人としては、そう思ってる。アイロス将軍をはじめとする複数の軍人の横領を隠蔽するために、そんなご大層なことを言ってるだけだ」
「目晦ましにしちゃ、お粗末だな」
「俺もそう思う」
「で、明日、大佐に会ったら何を言えってんだ」
「お利口さんだな」
物分りのいい奴は好きだぜ、と吹き込むと、ヒューズはエドワードに囁いた。
「お前は何も言うなよ」
2006,11,26 To be continued
去年だったか、一昨年だったか、「ある情報将校の記録」という本を読みました。戦時中、憲兵将校だった人の手記なんですが、その時は内容の半分も頭に入りませんでした。が、この小説を書くに当たって、資料となればと思い、憲兵組織の概要を頭に入れてからもう一度読んでみたら、憲兵隊のシステムや職務内容がもの凄くよく判って面白かったです。
やっぱ、きちんとした知識が最初にないと、貴重な資料も台無しですね。身に沁みました☆