積極的方策 13





 「……というわけだ」
 と、さすがに落胆の色を隠せず、ヒューズは午後になってから憲兵隊本部で合流できたエドワードに事情説明した。
 「本当に、全部ぱぁなのか」
 「ああ、もう全然、からっきしダメ。一応、現場に行ってみたんだがな、そこに教会があったなんて想像がつかないくらいでかい陥没穴ができちまってた。お前の言った通り、かなり広い地下空洞があったみたいだな」
 「元々自然にできてたものを何百年もかけて地元の者が掘り広げたらしいからな。抜け道も人工のものだったし。地盤が不安定だったってのは否めない。それでなくとも、教会の建材がどさっと圧し掛かってきてたんだ。かなりのストレスがかかって、とうとう限界が来ちまったんだな」
 そう言いながらも、二人とも、これが偶然に起こった事故ではないことを確信していた。何しろ、エドワードが書類の隠し場所を見つけたとたんの「事故」である。間違いなく破壊工作もしくは、隠蔽工作と見ていい。が、しかし、偶然の事故でないという証明をとるのは、かなり難しいと覚悟すべきだった。確かに、廃教会は今にも潰れそうな状態だったのである。
 「まったく、とんだ災難だ。ところで、俺を探してたんだってな。景気のいい話なら喜んで聞くぜ。言ってみろ」
 「あんたが喜ぶかどうか判んねーけど」
 と、前置きし、エドワードはB&Bで自動消滅した錬成陣のことを話した。もっとも、錬金術の知識など殆どないヒューズには、余り興味をそそるものではなかったらしい。話半分で聞いていた。
 「だから?」
 「シールで貼り付けるようにしてあったんじゃないかと思うんだ。つまり、持ち運びのできる錬成陣」
 「そんなことが可能なのか。錬成陣ってのは、ポピュラーなものを除けば、殆どカスタムメイドだって聞いてるぜ。ロイの野郎の焔の錬成陣にしても、アームストロング少佐のナックルにしても、全部術師のオリジナルなんだってな。自分専用の自分にしか使えない構築式ってわけだ。だから、他の人物が使おうとしても使えない」
 「もちろん、基本はそう。だけど、構築式の錬成を一時的に止めることは不可能じゃない。つまり、起動スイッチは入れたままにしておいて、しかし、それ以上進まないようにストッパーをかけておく。その状態なら、術師でない者でもストッパーの解除をすることによって、錬成ができる」
 「手榴弾の安全ピンみたいなもんか。手榴弾の中は物騒極まりない爆薬だが、ポケットに入れて持ち運ぶこともできる。が、ピンを抜けば、つまり、お前の言うストッパーを取っ払っちまえば、一五秒後に爆発、炎上」
 「そういうことだ。シール状にしておけば、狙った場所に固定できるし」
 「成る程な、上手く考えたもんだ。で、そんなもんを仕掛けた奴に心当たりはあるか」
 「ない。だけど、作った奴には心当たりがある。そういうものを考案した術師がいるって噂を聞いたことがあるんだ」
 「もちろん、探りを入れたんだろうな」
 「結果が出るのは、明日くらいになりそうだけど……」
 「上出来だ。詳しいことが判ったら、教えてくれ。それと、ちょっとした異変があったから、一応言っておく。昨日こっちへ来たばかりの調査担当官だが、どういうわけかさっき中央の方へ呼び戻されちまった。俺は引き続き連絡役としてここに残るが、何だか嫌な感じだぜ」
 「嫌な感じ?」
 「呼び戻された理由が判らないんだよ。こういう時、現地に残す将校にはそれなりの説明があってしかるべきなんだが、どういうわけか、後でちゃんと話してやるから、と言われて、質問を封じられちまった」
 まるで逃げるように中央へ帰還してしまったのだ、とヒューズは呆れたような、憤然としたような表情で頭を掻いた。
 「確かに変だな。中央で別の動きでもあったのか。いや、違うか。今回の事件はもう終わったも同然なんだからな。ってことは、別件で進行中の事件が急展開したとか」
 「そういうことだったら、そういう説明があるはずだって言ってるだろ。同じ軍法機関の人間にだんまりってのはどういうこった。そんなの初めてだ。ルール違反も甚だしいぜ。中央に戻ったら、断固抗議する」
 まるで聾桟敷に置かれたようなもんだ、とヒューズは憤懣やるかたなし、という風情で嘆息した。
 「でも、後で説明してもらえるんだろ」
 「有耶無耶にされない限りはな」
 ならば、有耶無耶にされる可能性の方が高いということである。こんなのは初めてだ、と言いながらも、似たような事態に直面したことが何度かあるのだろう。進んで認めたくはないが、押収したはずの証拠品がいつの間にか消えたり、破棄されていたりしたことが、公判前や公判中は頻発する。それと同じ類の裏工作が進行しているのだとヒューズは思っているようだった。
 エドワードはやれやれと肩を竦め、コートのポケットに両手を突っ込んだ。
 「ま、そっちはあんたらの方でどうにでもやってくれよ。俺はアルと合流するからな」
 「何で、アルフォンスなんだ」
 「それは後で説明する」
 そう言って、エドワードは回れ右をした。内心、舌を出しながら。
 ヒューズには悪いが、一人でやらなくてはならないことがあった。このままフェードアウトしてしまえば、明日の朝まで単独行動をとることができる。
 が、しかし、憲兵隊本部の舎屋を出たとたん、エドワードは見覚えのある人物が玄関近くの塀の側で煙草を吸っているのを見て、ぎょっと立ちすくんだ。
 「よう、エド。大佐がお呼びだぜ」
 「少尉……」
 もたれていた壁からゆらりと立ち上がり、ハボックがからかうような笑みを見せる。知らず、エドワードは息を呑んだ。否、わけもなく血の気が引くような気分の悪さを感じると同時に、追い詰められるような逼迫感が喉元に競り上がって来るのを感じた。
 この場で、絶対会いたくない男だった。が、しかし、ここで逃げてもすぐ捕まえられ、ロイの前に引きずられて行くのは目に見えている。どうにかして、誤魔化すことはできないか、とエドワードは必死で考えた。が、その焦りと動揺を読み取ったのか、面白がっているかのようにハボックは足元に煙草の吸殻を捨てると、エドワードに近付いて来た。
 「用があるから司令部へ寄れって大佐が言ってただろ。もう忘れたのか」
 「俺に命令する気かよ」
 「断ってもいいが、後で後悔するぞ」
 「司令部には余り寄り付くな。そう言ったのはあんただろ。もう撤回か」
 「誰が撤回するかよ。大佐が呼んでる場合は別だ。つべこべ言わず、俺と来てもらおう」
 どうやら拒絶することはできないらしい。が、エドワードは抵抗した。
 「アルと待ち合わせしてんだ。その後で行くよ」
 「ダメだ。今すぐ来い」
 「な――」
 「時間は取らせない。ほんの一〇分かそこらですむ。ちゃんとアルフォンスのところへ送って行ってやるから心配すんな」
 言いながら、ハボックは顎をしゃくって歩き出し、クルマを駐車している場所へと向かった。拒絶もダメ、抵抗もダメ。もちろん、逃走もダメ。
 絶体絶命だな、とエドワードは思った。
 が、なるようになれ、とも思う。
 「判ったよ」
 諦めたように、エドワードはハボックの後について行き、一路、東方司令部へと連れ込まれてしまった。
 「で、何の用なんだ」
 ロイの執務室で、今朝別れたばかりの男に対し、エドワードはいつになく挑発的だった。背後でばたんとハボックがドアを締める音が聞こえたが、できるだけ気にしないふりをしてロイを睨みつける。
 それへ、ロイは単刀直入に言った。
 「こちらに渡してもらいたいものがある」
 「何の話だ」
 「惚けてもらっては困る」
 うっすらと笑みを浮かべ、ロイは執務机から離れると、エドワードに近付いた。こつこつと硬い軍靴の音とともに、ロイがエドワードの間の前に立つ。威嚇する雰囲気はあったが、剣呑なものではなかった。苛立ってはいるものの、エドワードに対して腹を立てているのではないようだった。
 ある意味、ほっとしてエドワードは口を開いた。
 「何でも知ってるって口調だな。話が見えないんだけど」
 「いいだろう、ならばはっきり言おう。君が教会の地下から持ち出した会計書類を我々に渡してもらおう」
 その台詞に、エドワードはぴくりと身を引くような素振りを見せたが、それ以上のリアクションはなかった。
 「あの書類なら地下に置き去りにしたって言っただろ」
 「いいや、君は持ち出したはずだ、確実に」
 確実に、と強調してロイはエドワードに肉薄した。殆ど反射的にエドワードが視線を逸らす。が、その態度は素直なものではなかった。
 「勝手に決め付けるなよ。何を証拠にそんなバカなこと言ってんだ。あんな足手まといにしかならないもん、持ってたって何の得にもならない。いい加減にしろよ」
 「得することならあるだろう。ヒューズに渡せば、喜ぶだろうな」
 「そりゃ喜ぶだろうが、俺は軍法機関の手先じゃない。言っておくけど、あの教会へ行ったのは、誰に命令されたわけでもないんだからな」
 少なくとも、ヒューズに要請されたわけではない。エドワードがヒューズに提案して地下を探ってみると請け負っただけである。そこに強制的な命令などはなく、あくまでも自主的な判断による行動だった。
 「しかし、乗りかかった船を見捨てるようなこともしない。君にとって、今回の事件は自分の利害とは直接関係ないが、色々と首を突っ込んでそれなりに興味を持っていたのではなかったのか。それでなくとも、地下に閉じ込められるなどという酷い目に遭ったのだ。黙って身を引くより、報復してやろうと考えたはずだ、君なら」
 「報復ってのは何だよ」
 「生き埋めにされかけたのだから、殺しそこなったことを後悔させてやる、と君は決断した。そういう意味だ。その目的を達するには、あの書類が必要だ」
 人は損得だけではなかなか動かない。理不尽な感情に突き動かされるという動機が加わって初めて機能的に動くのである。エドワードのように、激昂しやすい性格なら尚更だった。しかも、己れが何をすべきか、よく判っている。
 それに、とロイは付け足した。
 「絶好のチャンスを、君が逃すはずがないからな。せっかく手に入れたものをあんな不安定な場所に置き去りにして、後で取りに来ればいいなどと考えるのは、かなり楽天家か余裕のある者の言う台詞だ。私が知っている限り、君はチャンスというものが二度も三度も到来することなどあり得ないと考えている。よく言うだろう? チャンスの神様には前髪しかない。一度掴み損ねたら、二度とそのチャンスは巡って来ない」
 それは、賢者の石などという伝説級のシロモノを追っているエドワード自身が一番よく思い知っている言葉だった。せっかく回ってきた千載一遇のチャンスを後回しにすれば、それはすでにチャンスではなくなる。一期一会ではないが、天から与えられる好機は一度きりなのである。それを掴むことができるかどうかで、道は二つに分かれる。
 ヒューズにとってもロイにとっても大事なものであるという認識があった以上、エドワードはいくら足手まといになろうとも、手枷になろうとも、主計大尉の残した書類を地下から持ち出したに違いない。
 余りにも反論の余地のない明確な指摘に、エドワードは腹立たしげに唸った。
 「それは否定しないけどな」
 嘯きながらも、内心動揺していた。さすがに「大佐」の階級は伊達ではない。たまにしか会うことのないエドワードの行動様式をちゃんと把握している。もっとも、人の上に立つ身分である以上は、誰がどのように行動するか予測をつけて的確に読み取らなくては仕事のしようがない。ロイにとっては簡単な推論だった。
 「悪いけど、俺はさっきヒューズ中佐に会ったぞ、憲兵隊本部で。でも、何も渡してない。もらってもいないからな。本人に聞けばいい」
 「だが、ヒューズは君に会う前、調査担当官と接触してはいない。唐突に中央へ帰ってしまったからな。その後でヒューズに証拠書類を渡してもどうにもならないはずだ」
 「タイミングの問題だろ。要は、最終的にしかるべき人間にしかるべきものが渡ればいいわけだから、順番が逆になってもいいはずだ」
 「では、君の言う通り、ヒューズを呼び出して聞いてみようか」
 そう言うと、ロイは机に向かい、電話の受話器を手に取った。
 「中佐に聞いたって、何も知らないぞ」
 「では、やはり、君が持っているということだ」
 「何でそう決め付ける」
 「事実だからだ」
 そうきっぱりと断言され、さすがにエドワードは口を噤んだ。これ以上は無理だろう。ロイの手がダイヤルを回す。じーっという微かな音がして、トーンダイヤルが一つずつ交換機に入力される。
 一度、二度、三度……。
 「よせ」
 市外局番を回し終えたところでエドワードは堪りかねたようにロイを制止した。
 「出す気になったか」
 「……っ」
 エドワードが舌打ちをする。
 受話器を持ったまま、ロイは顔を上げ、エドワードに視線を戻した。心なしか、してやったりという表情が浮かんでいたのは、決して気のせいではないだろう。エドワードは悔しげに唇を噛んだ。
 「どこに隠している」
 その問いかけに、しばらくエドワードは躊躇った。
 「特高課だ」
 「憲兵隊本部のか」
 「ゴーストロン少佐ってのがいただろ。第二課の課長さんだよ。その人に預けた。あの人なら、憲兵として信用できる。頃合を見計らって、ヒューズ中佐に渡してくれって頼んでおいた」
 「頃合? 先程までヒューズは憲兵隊本部にいたのではなかったか」
 その指摘に、エドワードが決まり悪げに天を仰いだ。
 「判った。言い直す。ヒューズ中佐に渡すのは明日まで待ってくれって言ってある」
 「何故だ」
 「何が起こるか判らないからだ。中佐にすぐ渡しちまったら、注目を浴びるだろ。すぐ敵方の目の留まって分捕られちまうぞ」
 つい先日のように。街路を歩いていて、いきなり殴打されて入院するなど、二度とご免である。
 「そうか」
 納得したように頷くと、ロイは一度電話機のフックを押してダイヤルをリセットし、改めて憲兵隊本部に電話を入れた。
 すぐに電話は繋がったらしく、ロイは交換台の女性に用件を伝えると、ゴーストロンが出て来るのを待った。
 が、しかし、応答したのはゴーストロン本人ではなかった。
 『申し訳ありません。少佐は今日一日出張に出ておりまして、戻りは明日となっておりますが、ご伝言があれば、私が承ります』
 それへ、ロイは鋼の錬金術師から預かっているものがないか、と聞いた。
 『書類ですか』
 ちゃんと心得ていると言うように、副官らしき人物が、実に明瞭に答えた。
 『今、私の手許にあります。これはヒューズ中佐にお渡しするように言いつかっておりますが……』
 「そのヒューズから頼まれた。私に取りに行って欲しいと。これからそちらへ出向くが、渡してもらえるか」
 もちろんです、と副官は快く承諾し、お待ちしています、と言って電話は切れた。
 「立派な副官だな。きちんと上司の留守を守っているようだ」
 「あんたな……」
 まるでヒューズへの報酬を横取りするようなロイの態度に、エドワードは牙を剥き出しにした。が、こうなってしまっては、もう手出しができない。歯軋りしてロイを睨みつけるのが精一杯だった。
 「ハボック、クルマを用意しろ。憲兵隊本部へ行くぞ。……鋼の、君はここで待っていたまえ。まだ聞きたいことがある」
 「おい、ちょっと待てよ。あんたの用件はすぐ済むんじゃなかったのか」
 「誰がそんなことを言ったっけな」
 と、ハボックが応える。ふーっと紫煙を吐き出し、にやりと笑うその横顔に、エドワードはぶん殴ってやりたいほどの憤りを感じたが、その前に二人はすげなくドアを締めて廊下に出ると、そのままエドワードを執務室に置き去りにした。否、監禁した。
 二人の後を追おうとドアノブに手をかけたエドワードは、がちっと固まったような覚えのある手応えにぎょっとした。
 「チクショーっ」
 またである。今度は外から鍵をかけられたらしく、内鍵は開いていた。が、外からだろうが、内からだろうが、閉じ込めれたことには違いない。しばらくがちゃがちゃとドアノブを激しく揺すったり叩いたりした挙げ句、やはりこれしかないと、エドワードは両手を胸の前で打ち鳴らした。
 が、しかし、やはりロイの方が上手だった。錬成無効とでも言えばいいのだろうか。ドアや壁の変成を阻止する仕掛けが先に施されていたらしい。いくらエドワードが錬成光を瞬かせようとも、全く何も起こらなかった。
 「くそっ、何てこった」
 殆ど自棄になってエドワードは床に座り込んだ。しかし、アルフォンスと連絡を取らないことには、例の錬成陣を作成した錬金術師とのコンタクトが取れない。何せ、軍の狗となった時点で、それまで相互援助の関係にあった在野の錬金術師の組織との繋がりが絶たれてしまったため、エドワード一人では人一人探し当てることもできないのである。が、アルフォンスならば、そのようなしがらみがないため、要請することで組織のネットワークが利用できる。
 「……」
 エドワードはきょろきょろと周囲を見渡し、しばらく誰もここへは入って来る気配のないことを確認してから、ロイの執務机に近寄った。
 電話の受話器を取り、アルフォンスが投宿しているホテルの番号をダイヤルする。呼び出し音一回でカウンタのスタッフが応答してくれた。
 『アルフォンス・エルリック様ですね、少々お待ち下さい』
 言葉通り、エドワードは少し待った。内線で繋いでくれたのか、それほど待たされはしなかったが、電話口に出たアルフォンスは酷く怒っていた。否、取り乱していた。
 『兄さん! 今までどこへ行ってたのさ。全然連絡もなくて、今朝、司令部に電話したら大佐も少尉も出かけてるし、いくら聞いても行き先は教えられないの一点張りだし。どれだけ僕が心配していると思ってるの』
 「す、すまん」
 いきなり怒鳴られ、エドワードは首を竦めた。
 「色々あったんだ。そう怒るなって」
 『書類倉庫の方はどうなったんだよ。閲覧の延長はしてくれたの』
 そう言えば、そうだった。元々、ロイにはそれが目的で会いに来たのだった。それがこんな寄り道や遠回りをしてしまうとは。
 まくしたてるようにエドワードを質問責めにするアルフォンスをひたすら宥めすかし、言い訳し、何とか本題に入れたのは、それから一〇分以上経過してからのことだった。
 『ストッパーのある錬成陣? 確かに聞いたことがあるよ。あれは確か、南部の方で聞いた噂じゃなかったっけ。紹介してくれるって人がいたのに、スイッチを入れたり切ったりするようにする方法はいくらでも考えられるから、敢えて会いに行くこともないって、兄さん、言ってたじゃないか。石とも関係ないしって』
 「そうなんだけどな、ちょっと事情が変わっちまって……」
 『事情って?』
 「それは聞くな」
 『じゃ、連絡は取らない。勝手にすればいい』
 「そんな我が儘言うなよ。大事なことなんだ。そいつが軍の仕事の邪魔をしてるみたいなんだ。だから……」
 『犯人探し? それならますます賛成はできないよ。錬金術師が本人の意志でやったことが結果的に軍の妨げになってしまったってことでしょう。そんなのでいちいち追及されたら、僕達は何の活動もできない』
 「それはそうなんだが……。じゃ、こういうのはどうだ。そいつの居所や本名を教えろとは言わないから、この最近、どっかの軍人と接触した形跡がないか調べてくれ。そいつは、もしかしたら、錬成陣そのものを売り飛ばしたかもしれないんだ」
 『錬成陣を? あり得ない』
 「だが、やっちまったみたいなんだ」
 『そんな……』
 しばらくアルフォンスは沈黙した。自分がオリジナルで作成した構築式を簡単に人手に売り渡すというのは、犯罪ではないが、余り褒められたことではない。しかも、本人の知らないところで軍に利用されたとなれば、在野組織としては軽視できない。確実に問題視するだろう。告発の対象になるかもしれない。
 「そういう疑惑があるから調べてみてくれって頼めば、やってくれると思う。少なくとも、嫌だとは言わないはずだ」
 『そうだね』
 アルフォンスの声は依然乗り気ではなかったが、看過できるものでもないらしいというのも判ってくれたようだった。
 『南部の方のネットワークと連絡を取ってみるよ。何か判ったら知らせるけど、兄さんへはどうやって伝えればいいの』
 「こっちから連絡する。明日の朝でいいか」
 『早すぎるよ。まだ何も判らないかも』
 「いいんだ。取り敢えず、そういうことにしておいてくれ」
 『判った』
 納得はできないが、それでもアルフォンスは承知してくれた。ほっとしながらエドワードは電話を切り、肩で大きく息をついた。
 これでこっちはよし。後は、どうやってここから逃げ出すか、だった。
 どうしても行かなければならない場所が、エドワードにはもう一つあった。こればかりは誰にも頼めず、自分でやるしかない。
 「仕方ない」
 エドワードはロイの机の上に置かれているペンケースからボールペンを一本失敬すると、キャップを外し、替え芯の中に内蔵されているスプリングを取り出した。それを、太い針金に錬成し、鍵穴に突っ込んだ。
 ちゃんとした訓練を受けたわけではないが、見よう見真似でエドワードは鍵穴のシリンダー内に針金を引っ掛け、でこぼこになっている内部構造に合わせてゆっくりと右に九〇度回してみた。
 かちゃり、とシリンダーが動いた音がした。普通、鍵穴には、鍵の形状に合わせた突起がついており、それに合致するものを噛ませて捻れば、大抵はロックが解除される。
 もっとも、いくら手癖は悪くとも、プロではないため、エドワードがドアを開けるまで、一時間近くかかってしまった。ロイ達が憲兵隊本部からUターンして戻って来るとしたら、そろそろタイムリミットである。
 エドワードはそっと音がしないように廊下に出るとドアを締め、できるだけさり気なさを装って、司令部のエントランスへと向かった。
 奥の深い柱廊には顔見知りの歩哨兵や下士官が行き来していたが、誰もエドワードには注意を払わなかった。何度も出入りしていると、トレードマークの赤いコートも金髪の三つ編みも大して目立つものではないらしい。
 そのまま玄関を出てだだ広い門を通り抜けると、素知らぬ顔で目の前のストリートを走るタクシーを捕まえた。
 「シティホテルまで」
 「軍の、ですか」
 「そう」
 即座にタクシーは発進し、ヒューズが宿泊していた軍の宿泊施設へと向かった。大して急がなくても、約一〇分で到着するはずである。今の時間なら、ヒューズも戻って来ていない。
 ホテルの車寄せに停車したタクシーから降りると、エドワードはカウンタで鍵をもらい、エレベータに乗って直接室へと向かった。
 「誰も、いないよな」
 廊下で一度だけ振り返り、無人であることを確認してから、エドワードは室に入った。時間的にはそろそろチェックインの始まる頃である。室内の掃除もアメニティの交換もベットメイキングもきっちりと終わっていた。
 静かにドアを締め、オートロックで鍵がかかるのを確認してから、エドワードはリヴィングの壁に取り付けてある四つのランプのうちの一つへと向かった。
 そっと、決して音を立てないように近付き、ランプシェードの内側に指先を這わせる。金属の輪で締められたそれは滑らかな手触りをしていた。ざっとではなく、異物がないか、ゆっくりと探る。
 探していた小さな突起のようなそれは、すぐに見つかった。エドワードは注意深くランプシェードを取り外すと、改めてその内側に目をやった。
 これだな、とエドワードは心の中で呟いた。
 指先に乗るくらいの、まるでスイッチの部品のようなそれは、しかし、エドワードやヒューズにとって忌むべきものだった。ボタン電池でも内蔵されているのか、コードらしきものはなく、さして特徴のない金属性のぽっちり。
 エドワードがヒューズに、ロイとキャットの会話を盗聴するように要請された時に見せられたサンプルの写真に、同じような形状のものがあった。この大きさならば、さして遠くに送信されているわけではないだろう。
 誰がいつの間に設置したのか知らないが、この室でエドワードとヒューズが交わした言葉は全て筒抜けだったのである。これでは、先手を打たれて当然だった。
 この盗聴器がまだ稼動しているのか、どこに受信機があるのか、調べることは山ほどある。この場で破壊してしまいたい衝動をかろうじて抑え込み、エドワードは盗聴器を電気や磁気を遮蔽する鉛のケースに入れ、ポケットに突っ込んだ。
 まさにその時だった。いきなり、電話が鳴った。
 「……っ」
 驚いたエドワードは、弾かれたように飛び退った。
 「な、何だよ、いったい……」
 心臓が跳ね上がり、ついついよろめく。が、電話のベルは無神経に、否、ヒステリックにがんがん鳴り続け、さっさと出ろとばかり、エドワードをせっついた。
 「中佐は留守なんだぞ。誰がこんな時間に電話なんか……」
 そうは思ったが、無視するには、しつこくしつこくベルが鳴り続け、誰かが取らないことには収まりがつかないようだった。
 エドワードはため息をつきながら受話器を取り、応答した。
 「もしもし……」
 『鋼のか』
 咄嗟にエドワードは受話器を投げ出したくなった。間違いなく、その声はさっき別れたばかりの男のものだった。この電話はカウンタからの直通である。つまり、ロイがホテル内にいるということである。
 「た、大佐? 何で、ここが……っ」
 『君の後をついて行っただけだ。やはり、大人しくはしていなかったな』
 「見張ってたのかよ。憲兵隊本部へは行かなかったのか」
 『もちろん行った。早めに戻れたので司令部から一ブロック離れた路地で休憩をしていたら、君を乗せたタクシーを見かけたものでね。どこへ行くのかと思って追跡したわけだ。一応、確認するが、そこはヒューズの室で間違いないな』
 「ああ」
 ばればれか、とエドワードは脱力する思いだった。
 『話がある。今からそこへ行くから、今度こそ逃げるな。そこにいろ』
 「判ったよ」
 幾分不貞腐れ、それでもエドワードはロイを拒絶しなかった。ここでまた後ろ足で土をかけるような真似をすればどうなるか、考えたくなかった。
 受話器を置くと、ため息が出た。
 「仕方ない……」
 エドワードは数日前の過ちを繰り返さないよう気をつけようと思いながらリヴィングのソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
 その五分後にはドアがノックされた。
 「入れよ」
 ぶっきらぼうにエドワードはドアを開けてやり、顎をしゃくった。軍服姿のまま立っていたロイは、そのぞんざいな仕種にも拘らず、鷹揚に敷居を跨いだ。
 「一人なのか。ハボック少尉は?」
 「下で待たせている。奴がいないといけないか」
 「いや」
 好都合だ、との台詞を飲み込み、エドワードはロイを室内へと招いた。
 「ここへ来るのは三度目だな」
 世間話でもするように言葉を継ぎながら、ロイは手前のソファに腰を下ろそうとした。が、エドワードはジェスチャアだけでそれを制止すると、そっと唇に人差し指を当て、何も喋らないよう示唆した。
 どうした? とロイが目顔で問い返してくる。が、エドワードは応えず、シャワールームへ行くよう指先で示した。
 何がどうしたのか判らないが、ロイは敢えて抵抗することもなくエドワードの指図通り、リヴィングの奥にあるシャワールームのドアの向こうへと入って行った。
 そこはビジネスホテルによくあるユニットバスを多少大きめに設計したような構造で、シャワーカーテンの奥には浴槽が設えてあり、その頭上に切り替え式のシャワーヘッドが取り付けてあった。エドワードは浴槽の蛇口に手をかけると、目一杯捻って湯を出した。
 とたん、じゃばじゃばと小うるさい水音とともに噎せ返るような蒸気がエドワードとロイの顔にかかった。
 「どういうことか、説明してくれ」
 盗聴を阻止するための対処方法であることは明白だった。お湯の放出される騒音がノイズとなり、人の話し声が正確に聞き取れなくなる。さすがにロイはエドワードの意図を察して声を低く抑えた。
 「どこに何が仕掛けてあるか判らないからな」
 そう言うと、コートのポケットから鉛の箱を取り出し、証拠として先程外したばかりの盗聴器を見せた。さすがにロイは眉根を寄せた。
 「これはどこに?」
 「リヴィングの壁のランプシェードの内側に取り付けてあった。ヒューズ中佐が言ってたんだけど、盗聴器ってのは一つ見つけたら、その五倍は仕掛けてあるって考えなきゃいけないんだってな。これはそのうちの一個だ。まだどこにいくつ仕掛けてあるのか判らないから、用心のためだと思ってくれ」
 「成る程、そういうことか」
 以前、ヒューズが言っていたことを、ロイは思い出した。ロイのごく近しい者から情報が漏れているのではないか、という指摘は当たっていたようだった。ここにあったとは意外だったが、笑うべきことである。スパイがいるのだと断言までして見せた当の本人の足元が崩れていたとは。灯台下暗しとはこのことだ、とロイは呆れた。
 もっとも、考えてみれば、盗聴器を仕掛けた人物は、実に適切な場所を選択したとも言える。定期的に「掃除」が行われている上に、スクランブラー(防諜装置)の設置されている司令部に盗聴器を仕掛けるのはまず不可能だが、不特定多数の人間が出入りしても不思議に思われないホテルは――軍の所有であっても――盗聴するのに打ってつけだった。寝泊りしている本人が部屋の清掃をすることはまずないし、家具を触ることもない。調度品の位置が少々ずれたり取り替えられたりしても、己れの家ではないのだから、スタッフが動かしたのだと思って多少の違和感は見過ごしてしまう。
 「前から気付いてたみたいな口調だな」
 「薄々とは。この室は徹底的に調べる必要がありそうだな。いいだろう、私から防諜課の方へ依頼しておこう」
 「そっちは任せるよ」
 ほっとしたように、エドワードは浴槽の縁に腰を下ろした。まだ話は終わっていない。否、始まったばかりだった。浴槽に溜まるお湯は、一定量に達すると排水溝に流れるようになっている。故に、いつまでも蛇口を開いたままにしておいてもお湯が溢れるようなことはないが、やはり出しっ放しというのは水がもったいないような気がする。
 エドワードは蛇口を軽く捻ると放出量を調整した。
 「書類の内容は、もう確認したのか」
 「もちろんだ。間違いなくあれはテリナ大尉が我々に引き渡そうとしていた帳簿だ。どういう経緯であんな場所に隠されていたのかはまだ判らないが。しかし、全部で五〇〇ページ以上はある。証拠品としては申し分のないものだが、重さにして約二sだ。よく持って帰って来れたな」
 「苦労したぜ」
 途中で何度投げ出そうと思ったことか、とエドワードは苦笑した。ただでさえ、どこに出口があるのか判らない暗闇の中、余計な荷物を抱えて歩くのはかなりの負担だったはずである。結果的にはいい方へ向いてくれたが、しばらくは思い出したくもない過酷な体験だった。
 「今あんたが持ってるのか」
 「いや、ハボックに持たせている」
 そう言うと、ロイは手ぶらである旨、両手を広げて見せた。
 「さっさと司令部に持って帰って、警備員付きできっちり保管しておく方がいいと思うがな。大事なもんなんだろ」
 「また暴漢に襲われて奪われてしまうとでも?」
 「用心に越したことはねーだろ」
 「そうだな。それはそうと、一つだけ確認させてくれ。私がルーニーで合流した時、君は荷物らしい荷物を何も持っていなかった。書類はどこに置いていたんだ」
 「俺が持ってたんじゃねーよ。あの時は、もう手放してた」
 「誰かに託した、ということか」
 「B&Bの女将の息子、覚えてるか。朝帰りしてただろ、自転車に乗って」
 「確かに」
 油が切れていたのか、酷いブレーキ音のする自転車が、まるで敷地に突っ込むように戻って来たのを、ロイは思い出した。女将は、息子を遊び回っているように言っていたが、どうやら夜間の外出は、エドワードが依頼したもののようだった。
 「あんたらがB&Bに到着する前に、憲兵隊本部へ持って行くよう頼んだら、すぐ出発してくれた。あの夜のうちに、書類はゴーストロン少佐の手に渡っていたはずだ。でも、拘束されて根掘り葉掘り事情を聞かれたみたいなんだよな。悪いことしちまった」
 己れの名前を出せば、ゴーストロンはすぐに応対してくれるだろう、と高を括っていたのであるが、夜中に訪れた一介の民間人の訴えを受付の者が警戒してなかなか取り次いでくれず、ゴーストロンが会ってくれたのは、憲兵隊本部に息子が到着してから一時間以上も経過してからだった、とエドワードが知ったのは、つい先程のことだった。しかも、書類が本物かどうか確認できるまで、その後数時間にも渡って引き止められたという。夜のうちに戻って来るはずが、朝まで延びてしまったわけである。
 「少佐は信頼できる、と君は踏んでいたようだが、どうしてそんなことが判る。いい脅しのネタが手に入ったとして私物化するかもしれなかったんだぞ」
 「少佐はそんなことしない。これでも人を見る目はあるんだ」
 「生意気なことを……」
 くすりとロイが笑う。が、確かに、ゴーストロンは私欲で動くような憲兵ではない。どういう事情で憲兵に転科したのかは知らないが、司令部付きの士官を妬むでもなく、疎んじるでもなく、また国家錬金術師であるとはいえ、たかが一五歳のガキでしかないエドワードの要請にもごく冷静に、当然の仕事として対処してくれた。特高課としてきちんと己れの本分を弁えているようで、部下への指示も実に的確だった。お陰で、ロイは難なく書類を手にすることができた。
 「だが、何故だ。君は、どうやら書類を地下から持ち出したことをヒューズには言ってなかったようだな。奴は昨夜からずっと憲兵隊本部に詰めていたのに、ゴーストロン少佐は一切話をしていない。もしかしなくても、口止めしていたのだろう?」
 何か意味があるのか、とロイは問うた。もっとも、エドワードの回答をすでに予測しているような口調だった。
 「情報漏洩を回避するためだ。どこで誰が聞いているか判らなかったから、俺がヒューズ中佐と大事な話をして、そこから敵方にバレたらやばいと思ったんだ。悪いけど、中佐にはあんたの口から話しておいてくれよ」
 「それは構わないが、君から言ってやればいいのではないか」
 「何で?」
 「ヒューズが喜ぶ」
 「そうか?」
 エドワードが怪訝に首を傾げる。ロイの意図がまるで理解できない、と言うように。しばらく考えた後、やはり言った。
 「いや、あんたから頼むよ。これで終わりだ」
 終わりか、とロイはエドワードの言葉尻を捉えて不愉快になった。確かに、これでテリナ大尉の告発に関しての件は終了となる。告発者は死亡してしまったが、主犯も名指しすることができる。今回の件は、一応解決したとして、ヒューズの手で捜査資料とともにファイリングされ、軍法会議所の書庫に保管されるだろう。
 が、しかし、ロイには引っ掛かることがあった。今回の件は、死者が多すぎる。始末しなくてもいい関係者が始末されているのではないか。
 例えば、何故キャットまで殺されてしまったのだろう。
 キャットはアイロス少将から横領した金を預かり、それをロンダリングする役目を負っていた。重要な証人であり、欠くべからざるキャストの一人だったことに間違いはないが、その口を塞いでしまっては、事実認定の証明に、ひいては軍法会議の進行に支障をきたす。恰も、G2はアイロスの追及に関してロイの自由にしていいと言っていたはずである。それが、鼻先を掠めるように始末されてしまった。
 こうなると、背後にいた人物、もしくは組織という存在が気になる。キャットを消さなくてはならなかった理由が他にあるのではないか。そう思える。もっとも、残念なことに、ロイには中央にヒューズ以外に有力なコネはなく、すぐさま人脈を辿ることもできない。
 ならば、それに繋がる人物を間接的に揺さぶるしかない。すぐに思い出したのは、ヒューズによって引き合わされたレティシア・コール少佐だった。上手く付け入れば、オフレコで口を開いてくれるかもしれない。もう中央へ戻っているだろうが、連絡は取れるはずである。仕事上の付き合いとはいえ、あのような美人とお近づきになれるのは悪くなかった。
 「大佐?」
 不意に、エドワードが声をかけた。
 「俺の話、聞いてるか」
 「ああ」
 一応、頷いたが、殆ど聞いていなかった。が、直前の話は覚えている。
 「ヒューズと会うのは、もうしばらく後になるな。この室はしばらく使えないから、別のホテルを紹介してやろう」
 「頼んだぜ」
 「君は、これからどうする」
 「アルと合流する。書類倉庫の捜索が中断していたからな。ぎりぎりまでそっちの方に励むことにするぜ」
 まだ期限は切れていないし、と付け足し、エドワードはこれで話は終わりだ、と言うように水道を止めようとした。
 水が止まれば、これで本当に終わりになるだろう。ロイは東方司令部に戻り、エドワードは己れの本分に邁進する。次に会えるのは何ヵ月後になることか。用がなければ、連絡の一本も寄越さない薄情な奴である。敢えて消息を知りたいとは思わないが、今回のようなごたごたに首を突っ込んで火傷をしないとも限らない。自力ではどうしようもない情況に陥った時、エドワードは誰に助けを求めるのだろう。
 恐らく、自分ではない。軍の権力をバックにした国家錬金術師でありながら、軍そのものを頼ったことなど、これまで一度もない輩だった。無論、ロイ個人に依存することも。「名誉ある孤立」と言うべきか、アルフォンスとたった二人で生きてきたのである。これからもそのスタイルは変わらないに違いない。
 それでいいのか、と不意にどこから湧き上がったのか、これまで考えたこともない疑問が脳裏に浮かんだ。
 意外なことに、本来司令部内で片付ける内密の事件に関して、エドワードがあれこれ口出ししてくるのに、この数日は余り違和感を感じていなかった。決して、軍の組織とは馴染まない部外者であるくせに、いつの間にかロイの意識の中で、目障りと言う名の異物でなくなってきていたのだろう。
 否、エドワードの存在が気にならなくなった、消えてなくなったように感じる、というのではなく、別の意味と意義を持ち始めていたのかもしれない。が、それが何なのか、ロイはまだ見定めておらず、まともに向き合ってもいなかった。
 ロイの眼前で、エドワードの生身の左手が蛇口を捻ろうとする。
 その手を、咄嗟にロイは掴んだ。否、エドワードの手に己れの手を被せて動きを封じた。びくり、とエドワードが反応するのが判る。
 「な、何だよ……」
 「いや……」
 言うべき言葉が見つからない。何も考えずに手が動いた、などと言い訳してもエドワードは納得してくれないだろう。どう言い繕えばいいのか、ロイは適当な言葉を探した。
 「ちょっと待ってくれ。その……、盗聴器だが、いつからここに取り付けられていたと思う」
 「そんなん、俺の知ったことかよ」
 どうでもいいようにエドワードはロイに触れられたのが不慮の事故であるかのように慌てて手を引っ込めた。どうやら、まだ抵抗があるらしい。もっとも、あれだけのことをしたのである。平気な顔をして仕事の話ができること自体、奇跡的な事態だった。まさか、きれいさっぱり忘れてしまうことにしたのだろうか。まだ、ロイに傷つけられた夜の記憶は生々しく疼いているだろうに、よほどエドワードはタフな神経の持ち主らしい。
 しかも、堂々とロイを牽制する。
 「あのな、この際だから、言っておくけど、俺はもうあんたらの仕事にちょっかいは出さないし、できるだけ司令部にも近寄らない。だから、あんたもこの前のことはさっさと忘れてくれよ」
 「この前のこと? この前というのは、どの出来事だ」
 意地悪く、ロイは問い返した。それへ、エドワードは憤然と言い放った。
 「執務室で俺を押し倒したことだ」
 「そんなに簡単に忘れられるのか、君は」
 「どういう意味だよ」
 エドワードの頬が紅潮する。怒ったか。怒っただろうな。しかし、もっと怒ったところを見てみたい。何もなかったような平然とした顔をされた挙げ句に背を向けられて立ち去られることくらい腹立たしい結末はない。獲物に逃げられた、というより、信頼されていないという事実を突きつけられ、胸を抉られる。
 そのせいか、ロイにはエドワードの台詞が悉く不愉快だった。口調も声音も、いちいち気に触る。何もかもが気に入らない。理不尽な感情であることは重々承知の上で、むかつくなどというレベルではなく、頭に血が昇るほどの憤りを感じた。いくらかでも己れが刻印を捺したことを簡単に消滅させてしまえるなど、よくもそんな傲慢なことが言える。本人がけろっとして断言できるほど、ロイの暴力は軽いものではなかったはずである。陵辱を強いたのは己れであるのに、自分の方が屈辱を感じていた。
 いきなり、その頬を殴打してやりたくなるような衝動が突き上げて来た。どこからともなく競り上がってくるそれは、先日と同じ、凶暴で制御し難しいものだった。
 敏感にも、エドワードは身の危険を察知した。ばっと浴槽の縁から立ち上がると、そのまま身を翻そうとした。が、コンパクトにまとめられているだけに、シャワールームは狭くてごちゃごちゃした鬱陶しいスペースだった。ロイが手を伸ばせば、すぐにエドワードなど捕まってしまう。
 「離せ」
 「何を怖がっている」
 「話は終わった。もういいだろ」
 「最後まで付き合ってくれないのか。ここまできたら、大団円まで見届けておくのが筋ではないのか」
 「そこまでする義理はねーよ。手柄は全部あんたらがモノにしちまえばいいだろ。最初からそのつもりだったんだし」
 「立つ鳥跡を濁さず、か」
 いい恰好をするつもりはない、とでも言ってのけるエドワードに対し、ロイはからかうような台詞を吐いた。ずかずかとブリーフィングに押し入って来たにしてはしおらしい態度だ、との意地の悪い指摘に、気の短いエドワードはすぐにかっとなった。
 「離せって言ってんだろ」
 殆ど振り払うようにロイの手を弾くと、エドワードはドアの方へ向かった。これ以上、ここでロイの相手をしていたら、どういういちゃもんをつけられるか判ったものではない。自分の何がロイを怒らせたのか、全く判らなかったが、ここは早々に立ち去るべきだ、とエドワードは断を下した。
 それでなくとも、警戒しなくてはならない男だった。同じ過ちを二度も三度も繰り返していたら、学習能力がないも同然のウスノロである。
 が、しかし、何故かロイは執拗だった。
 「君は、私の口から何か言って欲しいのかと思っていたが、違うのか」
 「何の話だ」
 ロイがそっと罠を仕掛けているのが判ったのか、エドワードは焦りを納めるように、それでも憤然と言い返した。
 「あんたが何を期待してんのか知らないけど、俺の方からは何も言うことはない」
 「今更、ということか」
 「変な解釈すんな」
 エドワードはできるだけ素っ気なくロイから視線を外した。言いたいことも言われたいことも、聞きたいことも山ほどあったが、この時はもうどうでもいい、と思っていた。自棄になっていたと言われればその通りだったかもしれないが、自分でも抑えきれない感情の昂ぶりにそれまでの想いが紊乱しきっていた。
 そして、そんな修羅場から早く逃げ出したかった。
 「エド」
 不意に名前を呼ばれ、殆ど反射的にエドワードは足を止めた。が、振り返る前に、いきなりぐいっと掴まれた肩を後ろに引っ張られた。
 滑りやすいタイルの上で、靴底が滑る。ひやっとすると同時に、体が一瞬浮遊するのを感じた。何が起こったのか把握しようとする前に、ばしゃん、という派手な水音とともに、エドワードは大量の湯を被った。後ろ向きに倒れ、浴槽にそのまま引き落とされてしまったのだ、と判ったのは、反転した視界に天井の升目が入って来てからだった。
 水面に叩きつけられた体がごぼりと沈む。温かなお湯が服の中や髪の中に一気に入り込んだ。咄嗟にエドワードは浴槽の縁に手をかけたが、しかし、ロクな体勢ではなかったため、強かにお湯を飲んでしまった。
 「なっ、何しやがるっ」
 ざばっと浴槽の中から身を起こすと、エドワードは怒号を飛ばした。言うまでもなく、全身濡れ鼠である。
 「何って、湯を張ったのは君だろう」
 「こ、この……っ」
 しれっとした口調に、エドワードはわなわなと震えた。即座に蛇口を閉めると、殆ど何も考えずに、近くにあったロイの腕を引っ張った。
 「お、っと」
 そう来るとは思わなかったのだろう、バランスを崩したロイは、つんのめるように浴槽の中に上半身を浸した。ばしゃん、と再び水面が大きく揺れる。
 「何てことをするんだ……」
 溺れる前に顔を上げたロイが水の滴る前髪をかき上げる。
 「どうせだ、あんたもドザエモンになっちまえ」
 それは違う、ドザエモンというのは水死体のことだ、と訂正しようとするまでもなく、ロイは更にエドワードに引っ張られて湯船に落ちた。今度は上半身だけでなく、ズボンまでびしょ濡れになってしまう。恐らく、下着まで濡れてしまっただろう。
 「いいカッコ」
 「……っ」
 言下に、ロイがエドワードの顔を湯の中に浸けた。が、こんなところで溺れてもらっては困るため、すぐ手を離した。
 「この……っ」
 かっとなったエドワードがロイに掴みかかる。その後はムチャクチャの揉み合いになってしまった。
 服を着たまま、二人はまるで応酬を繰り返すように、浴槽の中で湯を掛け合い、服の裾や襟を掴んでは立ち上がろうとするのを阻止し合った。ここまで濡れてしまうと、もう見かけなどどうでもよくなってくる。ばしゃばしゃと水音を立てながら激しく怒鳴り合い、罵倒し合い、突き飛ばし合う。それが昂じて、洗面台にあった使いきりのシャンプーやコンディショナー、石鹸、歯ブラシ、コップなどのアメニティを投げ合った。手近なものがなくなると、床から拾ってまた投げつける。
 時を置かず、シャワールームはホテルのスタッフが目くじら立てて激怒すること間違いなしと保障できるほど散らかし放題となり、びしょびしょになって二人は息を弾ませた。じゃれ合っているのか、本気で喧嘩をしているのか、その判別もつかない、もしかするとただの戯れだったのかもしれないその騒ぎは、シャワーカーテンが引き千切られてレールが斜めに傾くまで続いた。
 「やめよう、さすがにこれは弁償ものになる」
 「ど、同感だ」
 はぁはぁぜぇぜぇと肩で息をしながら二人は湯船の中に座り込んだ。一人用と思っていたそこは、しかし、思ったより容積があったらしく、二人が座り込むだけのスペースがあった。もっとも、窮屈なのは言うまでもない。
 「ちょっと遊びが過ぎたな」
 「仕掛けたのはそっちだろう」
 忌々しげにエドワードが吐き捨てる。それへ、ロイはべったりと額に張り付く前髪をかき上げることで応えた。
 「こんなところで水浴びすることになるとは……」
 不本意だ、とロイは呟く。その身勝手な台詞にエドワードは噛み付こうとして、しかし、やめた。
 くそっ、と心の中で悪態を衝き、ロイから目を離す。水に濡れた姿など初めて見た。それだけで見慣れた容姿が変化し、エドワードを落ち着かなくさせる。否、どきりと息苦しく胸が高鳴った。
 が、いい加減断ち切らなくてはならない、未練がましいとさえ言える感情だった。ヒューズもハボックも早急な別離を勧めている。無論。助言に従うことに吝かではない。自分でも突っ走って馬鹿な真似をしたと後悔している。
 「どうした」
 「別に」
 エドワードは気のない素振りのまま浴槽の縁に手をついた。片方の足をかけ、それを軸に身を乗り出そうとした。
 が、そんな駆け引きとも言えない素っ気なさを、意地悪くロイは見咎めた。
 「首筋が赤くなっているな」
 「……っ」
 逆上せたのか、とのいきなりの指摘に、エドワードは殆ど反射的に己れの耳から項にかけてのラインを片手で覆った。そのとたん、ロイが声を上げて笑った。
 からかわれた、と思った瞬間、エドワードは浴槽でのんびりと足を伸ばすロイに掴みかかっていた。もっとも、仰向けに横たわるロイの軍服の襟に手をかけるのが精一杯で、それ以上の動きは取れなかった。
 「もういい加減にしろよ。俺はあんたのおもちゃじゃないっ」
 「だったら、どう思って欲しいんだ」
 「何も思わなくていい」
 「できない相談だ」
 「俺は忘れる。忘れてやるから、あのことはあんたも忘れろ。そうすれば――」
 「元通りになれるとでも? それこそ、できない相談だ。一度起こってしまったことはどんなに泣いても喚いても元には戻らない。『フィッチャー』の話のように」
 「うるせぇ……」
 痛くもない腹を突かれたように、エドワードは押し殺した声で反駁した。いきなり持ち出された「フィッチャー」という男の名前に、しかし、エドワードは嫌な方向へ話が向かい始めたのを感じた。
 フィッチャーというのは、誰でも一度は聞いたことのある、或る童話に出て来る男のことで、よくある夫の命令を妻がどれほど守れるか、という訓話の主人公である。
 簡単に言えば、夫の留守中、絶対に入ってはいけないと言いつけておいた部屋の鍵を渡された妻が、好奇心に負けて約束を破ったため、悲惨な末路を辿るというもので、結構できのいいストーリーだったせいか、猟奇的な側面が喜ばれたのか、巷に広まって以来、類話がいくつも作られている。一番有名なのは、「青髭」だろう。が、結末はどれも同じである。部屋の中にあったとんでもないモノに驚いた妻は、持っていた鍵を落としてしまい、血の痕をつけてしまう。いくら洗っても磨いても血は取れず、結局開かずの間に入ったことが夫にばれてしまい、報復として無残に殺されてしまう。
 心理学の分野では、鍵についた血痕は妻の不貞の証であり、ロストヴァージンを意味していると解釈されている。これは、一度犯した罪は絶対に元には戻らない、隠すこともできない、増してや逃れることも消し去ることもできないものの象徴とされている。哲学的であり、量子力学など物理の法則に通じるものでもあり、これまで様々な分野で分析と称する見立ての研究がなされている。
 もっとも、あくまでもフィッチャーの話は、血に濡れた「鍵」という実体のあるものが対象であり、痕跡の残るものを前提としていた。
 感情に実体はない。エドワードはロイの台詞を払いのけるように抵抗した。が、ロイは言い募った。
 「実体のあるものだけがこの世にある全てではない。君にも判っているだろう?」
 「だから、どうした」
 「決して、なかったことにはできない、と言っている。私と君との間に起こったことは、厳然とした事実だ。それ以上でもそれ以下でもない。いくら忘れろと言われても無理だ」
 当然、エドワードにも判っているはずだ、とロイは鋭く指摘する。ここで論理学の講釈を垂れたりアジテーションをぶったりするまでもない、明々白々の自明の理だった。いくら途中で修正を加えようとも、外部要因が追加されようとも、最初に始まった時点いかんで物事の結末はほぼ決まってしまっているのである。終着点に若干のずれはあっても、停止、または消滅の宿命は変わらない。いかがわしいと評判の運命論などではなく、最新のゲーム理論やカオス理論でそのような現象が確認されていた。
 「それ、やらなきゃよかったってことか」
 「ああ」
 はっきりとロイは言い切った。やっぱりか、と確信するように、エドワードは大きく息を吐いた。
 「そうだな。俺もそう思う」
 物分りよく同意することに、驚くほど躊躇いがなかった。ロイにその気がないのはこれではっきりした。これ以上、気を揉むことも無様な姿を晒すこともない。ある意味、ほっと胸を撫で下ろす。悔しい思いはあるが、それもすぐに収まるだろう。
 脱力したようにロイから手を離し、エドワードは身を起こそうとした。
 が、離れようとした手を、ロイが掴む。
 「何を誤解している」
 「……?」
 「今更後戻りはできない、と言っている。だったら、進展させるというのはどうだ?」
 「どういう……」
 それ以上、何も言葉は出なかった。出そうとして、それを塞がれてしまった。ロイの唇によって。









2007,4,1 To be continued

  
 そろそろ特工として動いている人物が誰なのか、明確になってきたと思います。友人達にはかなり早い段階でばればれで、判らないだろうと思っていたのは私だけか、と落ち込みましたっけ。
 隠し方が甘かったか……。(^^ゞ