積極的方策 14
ざばっと音を立てて立ち上がると、ロイの軍服の下衣の裾からぼたぼたとお湯が滴り落ち、かなり悲惨なことになっていることを告げていた。もっとも、情況はエドワードも同じである。
「くそっ、中佐に何て言われるか……」
ぶつぶつ文句を言いながらもシャワールームを出たエドワードは毛足の長い絨毯に大量の水滴が吸い込まれていくのを目にしつつ、悪態をついた。
「いや、真っ先に文句を言って来るのは、ホテル側だろうな。ここはもう引き上げた方がいい」
そう言うと、ロイはリヴィングの電話の受話器を取り上げ、カウンタのスタッフに室を新たに用意するよう依頼した。ついでに、ロビーで暇そうに煙草を吸っているハボックに言付けを頼んだ。
「悪いが、いったん司令部に戻って着替えを持って来てくれ。書類はホークアイ中尉に渡しておくこと」
承知致しました、とスタッフが受話器の向こうでビジネスライクに応える。
受話器を置くと、すぐさまロイはエドワードに顎をしゃくった。
「斜め向かいの室がちょうど空いているそうだ。そこへ移るぞ。スタッフが今鍵を持ってここへ来る」
閑散期でよかったな、と言いながら、ロイは取り敢えず軍服の上衣を脱いだ。べったりと白いシャツが肌に張り付き、文字通りの濡れ鼠である。無論、エドワードもジャケットを脱ぎ、下着までびっしょりになっているのを確認して、ため息をついた。
「何やってんだろうな、俺達……」
「ちょっとした息抜きだ」
すげなく応えると、ロイは下衣のスカート部分を外し、腕に乗せた。会話が続かず、しばらく沈黙が降りる。何か言わなければ、と思っていた矢先、ドアがノックされた。
「お待たせしました」
ロイが開けたドアの向こうには、客室係らしい男性スタッフが立っていた。ロイとエドワードのとんでもない姿を見て驚いたようだったが、プロらしくすぐに無表情に戻ると、空き室へと案内してくれた。
「こちらです」
と、スタッフが開けてくれた室に入ると、そこは同じ構造のツインルームだった。
「ルームサービスを頼めるか」
早速ロイは濡れた軍服を突き出し、クリーニングするよう依頼し、エドワードにもジャケットやパンツを出すように言った。
「今出しておけば、夕方にはプレスされて戻って来る。その間はホテルのローブでも借りておけばいい」
「下着はどうすんだよ」
「風呂場にでも干しておけ」
「……」
「どうした」
ホテルのスタッフが出て行ってから、ロイは黙ってしまったエドワードに声をかけた。
「いや、別に。司令部の洗面所、あそこすごいことになってんな。タオルや下着がいっぱい干してあったぞ」
それへ、ロイは苦笑した。
「スタッフルームと同じだ。放っておいたら私物の溢れるオモチャ箱みたいになってしまう。控えるように何度も注意はしたのだが、元々洗面所は宿直や夜勤の者が利用するために設置された場所だからな。ある程度は仕方がない。幸いなことに、盗難のような事件は今のところ起こっていないから黙認状態だ」
「控えるように、って言ったくらいじゃダメだろ。全面的に禁止されたわけじゃないんだから、俺一人くらいはいいだろって、みんな思っちまう。軍規、緩んでんじゃねーのか」
「忠告として受け取っておこう」
全く可愛げのない平坦な口調でロイは頷いた。
「気を悪くすんなよ。俺は別に見たことを言っただけで……」
「弁解しなくてもいい」
やはり平坦な口吻でいなすと、ロイはクローゼットからホテルのロゴの入ったバスローブを取り出し、エドワードの方へ放った。
「着ていたまえ。必要があるならもう一度シャワーを浴びるといい。私はドライヤーを借りる」
「そうかよ。……他に俺に言うことは?」
無論、ある。
即座にロイはそう応えると、身繕いが終わるまで待っていろ、と言い置き、洗面所へ消えた。
今更だ、とエドワードは思ったが、ここで逃げ出す理由はない。大人しく言われた通りバスローブに着替えると、ポットからお茶を出して飲んだ。
さすがにホテルのルームサービスはいい。ほっとするような馥郁たる香りに満たされながら、エドワードはひと息ついた。
「話ってのは何だ」
ほんの数分で戻って来たロイに対し、エドワードはぞんざいに問いかけた。
「ベイシンガー嬢のことだ」
「あんたのノロケ話しを聞く気はない。悪いけど、よそでやってくれ」
「その類の話ではない」
では、何なのだ、とエドワードは怪訝に首を傾げた。が、ロイは勝手に話を始めた。
「キャットとアイロス将軍。この二人のことだ。社会的地位から見て、私は将軍が今回の横領を主導していたと思っていたのだが、もしかしたら、それは間違いではなかったか、と今になって疑問を感じている」
「リードの紐を握っていたのはキャットの方だったってのか。そりゃ驚いたな」
「茶化すな。真面目な話だ」
それへ、エドワードはむっとした言い返して来た。
「ノロケ話は聞かねーって言ってんだろ。あんたの恋人がどれだけ凄かったかなんて話、居酒屋でヒューズ中佐と延々語り合えばいい。俺に振っても時間の無駄だ」
「だが、君も疑問を持っている。キャットの挙動に関して。そして、ハボックが交通事故に遭ったのは、偶然ではない、と」
一見関連のなさそうなこの二つを擦り合わせしたいのだ、とロイは訴えた。エドワードは納得のいかない顔をしていたが、少なくとも拒絶の意思は消えた。
「少尉が、この件に噛んでるってのか」
「推測だが……」
と、ロイは躊躇ったものの、すぐに何かを否定するように首を振った。
「いや、ここまで来た以上、君にコトの顛末を話しておいた方が良さそうだ。実は、キャットはある組織のセルに属する人物だったのだよ。私はそれを承知の上で近付いた」
組織、と聞いてエドワードが目を剥く。ここで言う組織とは、どう考えてもまともな社会集団ではない。非合法組織、またはテログループと断じていい一団のことに違いなかった。
「セルってのは、何だ?」
「組織の中で組まれた小集団のことだ。チームとでも思えばいい。非合法組織は大抵、セル単位で動く。一つのプロジェクトが策定されたら、それに必要なセルが選定され、役割を与えられてそれぞれ動くことになるが、セル同士は互いに連絡がないのが普通だ。セルが違えば、同じ組織の者だということすら判らない。セルのメンバーが当局に捕まって尋問されても何も喋らないように、という配慮から生まれた方策で、計画の全体像どころか自分がどういう役割を担っているのかも知らされていない場合が多いと言われている。恐らく、キャットと主計大尉は別々のセルのメンバーだったのだろう」
「しょ、将軍は? 組織のメンバーだったのか」
「いや。横領をしていただけだ。させられていた、というべきかも知れないが」
「じゃ、こういうことか。キャットが横領をしている将軍に近付き、上前を寄越せと脅迫した、軍に不祥事を知られたくなかった将軍は言われるまま横領を続けた」
「最初にキャットが将軍をそそのかして横領をやれと命じたのかもしれない。すでに二人とも亡くなっている今、それを確認する術はないが」
「どっちでもいいや。主計大尉はどういう役回りだったと思ってんだ」
「監視役だ。どちらかが裏切ったら、横領は失敗するからな。恐らく、キャットはテリナ大尉の存在を知らなかっただろう。が、テリナ大尉はキャットの存在を知っていた。今回は、この監視役が裏切ったわけだ」
つまり、中央の軍法機関に告発者として名乗り出たのである。己れの所属する東方司令部ではなく、中央へ駆け込んだのは、内部で握り潰されることを警戒してのことだろう。
もっとも、数年前から中央のG2が横領の事実と関係者の相互扶助状況を掴んでおり、内偵を進めた結果、かなり正確に金の流れが解明されつつあったのである。それを知らず、ロイはキャットと知り合い、男女の付き合いを始めてしまった。コール少佐をはじめ、G2の面々の困惑した顔が目に浮かぶようだった。
が、しかし、ロイが何も気付いていなかったわけではない。キャットが接近して来た時点で、普通の女ではないと見抜いていたのである。どうやら、キャットの属するセルでは、退役の日が迫りつつあるアイロスを見捨てて、新しいアセットを徴募しようと画策していたらしかった。候補は何人もいただろうが、キャットはロイに白羽の矢を立てた。御しやすいと思ったのか、キャットの好みだったのか、それは判らないが、出会っていい関係になるまでは順調だった。ロイも満更ではなかった。
綻びが見えたのは、キャットがロイに投資話を持ちかけて来てからだった。
「投資のどこが変なんだ。キャットは投資会社を経営してるんだろ。自分の会社の商品を勧めても別におかしくないじゃないか」
「普通はな」
そう言ってロイは微笑った。
実は、軍ではこの手の誘惑に関して、極めて敏感だった。リスクマネージメントという分野を軽視すれば、後で痛い目を見るため、危機回避のための教育はかなりしっかりしていた。特に司令部付の士官から合法、非合法に拘わらず外部組織に金銭や内部情報が漏洩しては軍の組織すら危うくさせる。どういう手管で外部組織が擦り寄って来るのか、どういう過程を経て取り付かれ、いいように操られてしまうのか、そのテクニックの殆どを網羅する勢いでサンプリングがなされており、該当者はその講習の受講を義務付けられていた。
「つまり、将軍様はうっかり引っ掛かってしまったが、あんたは引っ掛からなかったってことか。大したもんだな」
「ああ、そうだ。しかも、これをチャンスと見て、反対にキャットを東方司令部で徴募しようと思った」
「何だと……っ」
ロイのいきなりの告白に、エドワードは凭れていたソファから身を起こした。そんな離れ業をやっていたとは予想外だった。しかし、それならばヒューズの執拗な盗聴要請も納得できる。己れの親友があさましい行為に手を染めたのではないという証拠を掻き集めようとしていたのだろう。
「あんたとキャットは、共犯だったのか……」
「そう言われればその通りだ。要するに、二重スパイになってもらうべく説得していたわけだからな。幸か不幸か、テリナ大尉がこれを悟った。さぞや脅威に思ったことだろう」
そして、先走ったのである。が、その結果は余りにも無残なものとなった。
「それじゃ、主計大尉とキャットを殺したのは……」
「組織が放った刺客だろう。大尉ともキャットとも違うセルのメンバーに違いない。どちらも裏切り者だからな。内部で処分されたということだ」
「将軍様の方は口封じか」
「余計なことを喋られては困るからな。退役してしまったら、却って自由な言動をとるかもしれないと懸念したのだろう。キャットとテリナ大尉の属していたセルのメンバーは、全員始末されたと思っていい」
ぞっとするような帰結である。エドワードは息を呑んだが、ロイは平然としていた。
代わりならいくらでもいる。すぐに欠員が補充され、新たにネットワークが構築されることだろう。
「……」
と、そこまで考えて、ふとロイは思った。
いったい、誰が組織にテリナ大尉の裏切りを知らせたのか。否、チクったと言うべきか。それさえなければ、三人とも殺されることはなかったはずである。
タイミングとしては、テリナ大尉が中央へ告発した時点だろう。それを知っていたのは、軍法関係者とG2のような情報機関の一部部員である。
まさか……、と思う。
コール少佐は、背後関係を探ってくれるなと警告したが、そういうことか、とロイは不意に納得した。
恐らく、アイロスのような軍人は、一人や二人ではないのだろう。軍内にいくつものネットワークが張り巡らされ、それぞれが組織――もしかしたら、複数――のシンパとして、今現在も機能しているに違いない。邪推するまでもなく、コール少佐は組織の方にも徴募したアセットを情報提供者として送り込んでいるはずである。その身の安全を図るために、ロイ達をこの件に深入りさせまいとしたのだろう。
それはそれで納得できる行為だった。もっとも、釈然とはしない。アイロスが組み込まれていたネットは消滅したが、それは自滅を図るよう誘導されたと考えていい。組織が己れのセルを始末するよう仕向けるそのやり口は、どう好意的に見ても、エスピオナージュの典型だった。
「そう言えば、君は昨日、ハボック少尉のクルマのブレーキ痕がおかしいと言っていたな」
「何だよ、突然」
「君の推測は?」
エドワードの戸惑いをよそに、ロイは問いかけた。有無を言わせない口調に、しばらく口篭っていたエドワードは、しかし、難しい顔で応えた。
「少尉は、多分、テリナ大尉を殺した犯人を見つけたんだと思う。大尉が殺された日と少尉が事故った日は同じだろ。逃走するクルマを止めようとして車体をぶつけたんじゃないのか。もっとも、当たり方が悪かったみたいで、少尉は崖下、犯人は行方不明――」
「ちょっと待て」
「何だよ」
「君の言い分だと、まるでハボックが組織の動きを事前に知っていたようじゃないか。テリナ大尉が告発をした時点では、キャットはまだ組織の情報も何も知らせてくれてはいなかった」
もっともな疑問に、エドワードは特に意外なことでもない口調で言い返して来た。
「だからなんだろうな、ヒューズ中佐がずっとハボック少尉を警戒してた」
「何だと……?」
「はっきりそうとは言ってなかったけど、ずっと遠ざけようとしてたぜ。何か蟠りでもあるのかと思って敢えて聞かなかったけどな」
あんたにも言ってなかったのか、とエドワードは問いかけた。ロイは頷かざるを得なかった。
「鋼の、君の今の発言が何を意味するか、判っているのか」
「ああ」
迷うことなく、エドワードは頷いた。
「つまり、あんた以外のボスがいるってことだ、ハボック少尉には」
認めたくはないが、テリナ大尉の殺害に関する情報を別ルートで授受したとなれば、その相手はロイ以外の上官からということになる。しかも、候補者は限定される。
ロイは苦々しく思いながらもそのリストを頭の中で書き出していった。無論、その中にコール少佐も入れておく。
「そういや、あんた前に言ってたよな、中央には『特工』なんて組織があるって。中佐に聞いたんだけど、連中は直接の上司にも誰にも知らせずに目をつけた人物に接触して徴募を図るんだってな」
「ハボックが特工の一人だと言うのか」
「そうは言ってねーよ。特工みたいに秘密裏にコトを運ぶ組織があるのなら、似たようなことをするセクトが他にもあるんじゃないのかってこと」
「その可能性はあるな」
どこまでハボックがこの件に関わっていたのかは判然としないが、しかし、少なくともロイの不利になるような真似はしていない。それだけは確かだった。
「逃走した犯人はどうなったと思う」
「死んだ」
「簡単に言ってくれるな」
苦笑しながら嗜めるロイに、しかし、エドワードは怯まなかった。
「死体を見たんだ。確実に死んでる」
「どこで?」
「例の廃教会の地下道でだ。あそこの年代もののミイラに混じって新しい死体が一体、あったぜ。暗くてよく見えなかったけど、怪我してたみたいだった。もしかしたら、ハボック少尉にクルマぶつけられた時に結構な怪我してたんじゃないのか。で、逃げる途中、出血多量か何かで死んじまった」
「何故、その死体がテリナ大尉を殺害した人物だと断定できる」
「そいつが持ってたんだよ、例の書類。腕に抱えて倒れてた。主計大尉を殺した時、奪って行ったんだろ」
その台詞に、ロイは驚愕した。
「本棚に挟まっていたのではなかったのか」
「そう言っておいた方がいいと思ったんだ。誰が誰の命令で動いているか判らなかったし、あんたらに正確な情報を与えるのはどうかと思って……」
「その考えは判らなくもないが……」
確かに、不信感を持たれても仕方のない、ここ数日間だった。ロイは苦虫を噛み潰したが、怒りは感じなかった。
「では、殺人犯の死体がそんなところにあったという事実を鑑みて、何が起こったのか、整理してみよう」
「多分、主計大尉を殺した奴は、廃教会のある村で仲間と待ち合わせしてたんだろう。バックアップが潜んでいたのかもしれない。でも、不測の事態が起こってしまった。仲間は殺人犯にすぐ身を隠すように言って、村のどこかにあった地下道への入り口へ押し込んだ。逃げる途中で書類を処分するように命じて」
「だが、途中で力尽きた。そして、組織のメンバーは村の者に口裏を合わせるように頼んだということだな。どういう理由を挙げたのかは本人に聞いてみないと判らないが」
「村の人を尋問しても無駄だと思う。多分、人を一人逃がしたってことしか知らないと思う。連中がどういう組織の者かなんて、考えもしてないだろ」
「そうだな」
その辺の後始末に抜かりはない。尋問ならぬ、拷問をしても得るものはないだろう。
「あんたは、目星がついてるのか、ハボック少尉を動かした誰かさん」
「何故、そう思う」
「そういう顔してる」
「馬鹿な」
ロイは一笑に付したが、しかし、見当がついていないわけではなかった。エドワードの指摘した通り、特工のように闇から手を伸ばしてくる組織はいくらでも存在している。それだけ適任と見做され、能力が買われたということではあるのだが。ロイとしては、全く面白くなかった。
「それで? どうするんだ。この話、ヒューズ中佐にしておくか」
「そうだな。奴の考えも聞いておきたい」
いや、心行くまで締め上げてやりたい、と思う。と、それを逆撫でするように、エドワードが言った。
「俺が聞いておいてやるよ。ちょっと確かめておきたいこともあったからな」
「確かめておきたいこと?」
「それは明日説明する」
「何故、今奴を捕まえてここへ連れて来ない」
「材料が揃ってないからだ。今、俺達がここで言ったことは、あくまでも推測だからな。確証はない。あやふやなままで中佐に当たったら、笑って誤魔化されるのがオチだ。相手にもしてくんねーよ」
「それもそうだな」
へらへらしているようでその実、ヒューズは根拠のない話には全く耳を傾けない。軍法機関を通じて中央に圧力をかけるつもりのロイにとっては面白くない情況である。今回は中央の意向に従ってやるのだから、次回は何らかの見返りを要求する、という取り引きもできないのでは、何のための権力欲か。
「いいだろう。タイムリミットは明日の朝だ」
「了解。朝イチで司令部へ行くよう中佐に言っておくぜ」
その返答は気に入らなかったが、ここで悋気を見せるのも大人気ない。せいぜい夜を徹して睦み合ってろ、と殆ど自棄気味の気分でロイは生乾きの前髪を掻き上げた。
ハボック少尉が訪れたのは、それから約一〇分後のことだった。
約3年ぶりの更新です。続きを書くに当たって、かなり設定を変えました。当初考えていたのと役割分担など変わっておりますが、ストーリーそのものは変わってないから、まぁいいか☆
しかし、この長い話もやっと出口が見えてきました。